実業家と事業家の間 渋沢栄一ふたつの顔

 2021年のNHK大河ドラマ「青天を衝け」は、明治から昭和初期にかけて活躍した実業家・渋沢栄一を主人公とする。

 戦国時代や幕末期を描いた大河ドラマは、これまでにも多く制作されてきた。東京五輪を描いた「いだてん」という作品もあったが、これは途中で主人公が入れ替わる。そういった意味で「いだてん」は例外的でもあるが、明治から昭和までの時代を一人の人物で描く大河は渋沢が初ということになる。

渋沢を演じるのは、吉沢亮さん。渋沢は91歳で没した。大河ドラマが渋沢の生涯すべてを描くのかはわからない。

 仮に生涯を閉じるまでを描くとして、そこまでを吉沢さんが演じるのか? 大河が長寿社会をどう描くのか? そのあたりの興味も尽きない。

 日本資本主義の父と呼ばれた渋沢だが、実業界に軸足を置いたのは前半生までで、後半生は福祉・医療・教育といった非実業分野ばかりに傾注した。そのため、渋沢の前半生と後半生は大きく色が異なる。

 下記の原稿は、私が『BizJapan』(オークラ出版)という雑誌に2014年に寄稿したもの。版元だったオークラ出版は現存するものの『BizJapan』という雑誌はすでにない。

 『BizJapan』に寄稿した原稿は、長文になったために、編集者と相談のうえ2号と3号に分けて掲載される予定だった。ところが、『BizJapan』創刊号の売上が思わしくなく、2号で休刊となった。

 3号が発刊されなかったので、当該原稿の後半部分はお蔵入りになる。もちろん、非掲載部分の原稿料も幻になった。

 このほど、『渋沢栄一と鉄道』(天夢人)を上梓するにあたり、お蔵入りした部分に日の光を当てようと、改めてnoteにて公開する。

(※改行など再掲にあたって一部改めた部分はありますが、基本的に文章は掲載時と同じです。タイトルと小見出しに関しては、note再掲にあたり改めました。初出時から歳月が経過しているため、現在と状況がそぐわない部分もあります)

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リード 

幕末に生まれた渋沢栄一は明治期に日本の近代化を推進すべく、さまざまな企業を興した。その数は400社を超えるともいわれる。渋沢の名前は財界・実業界でこそ当たり前のように知られているが、一般的な知名度は決して高くない。その理由は渋沢の名前を冠している企業が、渋沢倉庫しか残っていないことなどが挙げられるだろう。

 しかし、渋沢は明治の実業界をリードし、それらの企業は清水建設やみずほ銀行、王子製紙など、現在でも業界トップクラスとして大きな存在感を発揮している。

 日本の資本主義の父とも称された渋沢だが、他方で公益事業に熱心に取り組んでおり、利益だけを追求するビジネスマンではなかった。現在、金を稼ぐだけ生き方は終わりを告げつつある。そうしたことから、渋沢の社会事業家としての側面を紹介する――

資本主義の父・渋沢栄一

 渋沢栄一が生まれたのは1840(天保11)年。死去したのは1931(昭和6)年。91歳の死去する直前まで財界・実業界の第一線で活躍したことから、渋沢の活動期間はかなり長い。

 そのため、興した企業の数も膨大な数にのぼる。企業名を挙げれば、第一銀行(現・みずほ銀行)、抄紙会社(現・王子製紙)・日本郵船、日本鉄道(現・JR東日本)、東京石川島造船所(現・IHI)、汽車製造合資会社(現・川崎重工業)、浅野セメント(現・太平洋セメント)、大日本麦酒(現・アサヒビール、サッポロビール)、清水満之助商店(現・清水建設)とキリがない。

 また、東京を活動の本拠地にしていたが、関西の大阪紡績(現・東洋紡)や京阪電鉄だけではなく、三重県の三重紡績(大阪紡績と合併)、福岡県の築営若松築港(現・若築建設)、青森県の三本木開墾(現在は農水省が事業を継承)といったように設立や経営に関与した会社は全国点在している。

 これら渋沢が興したり関わったりした企業の特筆すべき点は、それらの多くが渋沢没後も発展を続け、現在に至るいまでも業界のトップランナーとして走り続けている点にある。

 渋沢がこうした数々の企業を立ち上げたり、経営に関与するまでの才能を身につけることができたのは、ひとえに渋沢を取り巻く環境にあった。

 渋沢が生まれた武蔵国榛沢郡血洗島(現・埼玉県深谷市)は、水田が少ない畑地帯だった。当時の経済は米を中心に回っていたが、血洗島を領地とする岡部藩は米納制度ではなく、金納制度を早くから導入していた。そうした事情から、貨幣経済が早くから浸透し、幼少期の渋沢も知らず知らずのうちに貨幣経済が身についていた。

渋沢のパリ滞在

 渋沢の転機は1867(慶応3)年に徳川昭武が将軍名代としてパリ万博に参加したことだった。渋沢は幕府使節団の一員として昭武に随行する。パリ万博に参加するために、幕府使節団一行は横浜から出港。

 上海・香港・ホーチミン・シンガポール・セイロンを経由し、スエズ運河を通ってフランス・マルセイユに上陸。使節団一行はそこから陸路でパリへと向かう。渋沢は約2ヶ月にわたるパリまでの行程を克明に記録している。

 パリに到着した使節団を待ち受けていたのは、日本と大きく異なる風景だった。ヨーロッパ諸国の先進技術のみならず社会や経済の制度や組織、文化、生活様式にいたるまで何もかも日本とは違った。それらが渋沢を刺激する。

 新体験はマルセイユに上陸する前、船中から始まっていた。船内では洋食が供されたが、渋沢は日本の古いしきたりにとらわれず、何でも果敢にチャレンジした。そして、パリに到着すると武士の象徴でもあるちょんまげをカットするために床屋へと足を運んだ。

 徳川昭武を名代とする幕府使節団は、明治新政府の樹立ともに終わりを告げた。新政府は、徳川幕臣たちに帰国を命じた。約1年半におよぶヨーロッパ体験は資本主義の父と土台になるものだった。この体験は先の岡部藩で導入されていた金納制度ともに、渋沢にも大きな影響を与えた。商業を重視する渋沢の基盤は、なんといっても会計の素質を花開かせ、明治政府の大蔵卿に採用されるきっかけをつくった。

 そして、パリでの体験は社会事業・公益事業に目を向けさせることにもつながった。

 例えば、東京に戻った渋沢が最初に着手したのは明治3(1870)年の兜町の創設だった。兜町とは、いわば証券取引所のことだが、渋沢がパリに滞在したグランドホテルと株式取引所は目と鼻の先にあった。好奇心旺盛な渋沢は、当然ながら株式取引所に足を運んでいる。ほかにも水族館や博物館、動物園、劇場といった文化施設に渋沢は非常に興味を抱いている。

 日本に帰国した渋沢は、パリの経験と知見を活かして次々と起業する……と言いたいところだが、渋沢は幕臣だったこともあり、徳川慶喜とともに静岡藩に移される。

見出される才能

 明治政府内で渋沢の才能に目をつけたのは大隈重信だった。大隈は維新の功労藩でもある佐賀藩の出身であり、いわば明治政府の中枢にいる人物だった。それだけに、大隈から声をかけられたことで、渋沢の出世は約束されたのも当然だった。

 ちなみに、渋沢の才能に惚れ込んでいたもう一人の人物が長州藩出身の井上馨だ。井上はついに総理大臣の座につくことはなかったが、初代内閣総理大臣を決める会議において、政府内の重要人物たちが三条実美か伊藤博文かで悩んでいたときに、井上の一言で決まったという逸話がある。

 明治政府内では伊藤博文の右に出る政治的才能の持ち主はいないと見解が一致していた。しかし、伊藤は下級武士の家柄であり、公家出身で公爵という家柄の三条の方が家格としては初代総理大臣に相応しいと目されていた。

 誰もが初代総理大臣は伊藤と思いながらも口にできなかったところ、井上が「今後、国のリーダーたるものは英語ができなければダメだ」と意見したことで、初代総理大臣は伊藤に決まった。

 井上は商業の力を知悉した稀有な政治家だった。あまりにも井上が商業の力を頼りにするあまり、三井財閥の番頭とも揶揄されるほどだった。そうした醜聞が、井上が総理大臣になれなかった理由とされているが、一度だけ明治天皇から井上に大命降下したことがあった。組閣を命じられた井上は、真っ先に大蔵大臣に渋沢栄一を抜擢する人事を固める。

 しかし、すでに民間人として活躍フィールドを広げていた渋沢にとって、大蔵大臣に就任することは自身の行動を縛るものでしかなく、渋沢は大蔵大臣を辞退している。渋沢に大蔵大臣を断られた井上は、渋沢が引き受けなければ内閣を運営できないという理由で総理大臣を辞退した。

 大隈と井上、ふたりの重鎮に才能を愛された渋沢は、民間に飛び出した後は次々と起業した。その後の渋沢の来歴は、もはや有名すぎるほど有名で、主な会社だけを紹介するのも難しいほど、文字通り会社を起業しまくっている。

新しい銀座をつくる

 ここでは渋沢の起業した会社には触れず、渋沢の生涯でもうひとつの柱となっていた公益事業・社会事業について見ていこう。

 先にも述べたように、明治3(1870)年に兜町をつくった渋沢は、次に着手した都市計画が銀座煉瓦街の建設だった。

 東京・銀座は高級店がひしめく一等地として知られる。江戸時代、繁華街といえば日本橋であり、銀座ではなかった。それを大きく変えたターニングポイントが、銀座煉瓦街の建設だった。

 明治5(1872)年に宮城の和田倉門付近で大火が発生。たちまち火の手は燃え広がって、銀座を灰燼に帰した。それらを再建する計画として、渋沢栄一と井上馨、そして井上の部下だった三島通庸が銀座煉瓦街の建設を主導した。

 現在、災害対策といえば地震対策およびそれにともなう津波対策とされている。しかし、当時の世情では、災害対策と言えばまず火事対策だった。火事を発生させない不燃対策、発生しても被害を最小にとどめる防火対策が急務とされた。銀座煉瓦街では木造の家屋の建設を制限し、防火性の高い煉瓦による家屋のみを許可する方針を貫いた。

 井上と三島は銀座に立ち並ぶ商店や家屋を強引に煉瓦造に変えるように家主に迫った。そして、道路を広げるためにメインストリート沿いの建物は強制的に立ち退かせた。

 銀座煉瓦街計画で井上と三島は、どんな街をつくるのか?に腐心したが、渋沢はどうやって街をつくるのかに知恵を絞った。渋沢は半官半民の住宅会社をつくり、それらが家屋などを建設して民間に貸し与える。そして、償還期間が過ぎたら、民間に払い下げるというアイデアにこだわった。銀座煉瓦街をどうつくるのか?といった渋沢のアイデアは現在の住宅供給公社の源流ともいえる内容で、かなり時代を先取りしていたと言っていいだろう。

東京を商都に

 渋沢の都市計画の才能は明治17(1884)年にスタートした東京市区改正計画でも発揮された。東京市区改正計画は内務省主導で進められたが、東京府知事の芳川顕正が委員長として計画案を練った。芳川は東京を帝都に相応しい都市にすべく、プランニングを練った。一方、渋沢は東京を商都にすることにこだわった。

 市区改正における渋沢の立場は、あくまでも民間選出の有識者である。現在にも言えることだが、当時の世相は官尊民卑が強くあった。こうした都市計画の審議委員会などは政治家や官僚が名を連ねることはあっても、民間から有識者が参加することはなかった。

 渋沢は官のみの発想で都市計画を練る脆弱性を指摘。渋沢の意見が採用されて、東京の市区改正では三井物産の益田孝とともに民間の有識者として名を連ねることになった。

 東京市区改正において、渋沢は東京港をつくることを提案している。当時、物流の主役は海運だった。海外からの輸入品は大型船で運ばれてくる。だから、国際貿易港を擁する横浜や神戸は大発展を遂げ、横浜市長や神戸市長は神奈川県知事や兵庫県知事よりも格上とされているのが一般的な見方をされていた。

 国際貿易港となる東京港を築港すれば、東京は一級の国際都市になる。そんな思いから提案をしたが、渋沢の夢見た東京港は実現しなかった。東京港が実現しなかった理由は、横浜の反対が強かったからだといわれる。

 貿易港の力を頼りにしていた横浜市は、一大消費地・東京にもっとも近いことがウリだった。東京港ができてしまったら、横浜のウリがなくなる。そうなったら、横浜は衰退してしまうだろう。そんな危機感から、横浜市民は東京港の計画に反対した。

 横浜の反対は決して杞憂ではなかった。戦後、東京港がつくられると、貨物の大半は東京港にもっていかれてしまう。取扱量は東京が横浜を上回り、海運のコンテナ化やIT化が進められると、その傾向に拍車がかかった。いまや取扱量は東京港が上回り、国際貿易港・横浜は過去の栄光になっている。東京港が実現すれば、東京は商都になるという渋沢の見通しは当たっていた。

 港湾がらみで渋沢が関わった都市計画には、ほかにも川崎の埋立地造成がある。現在、京浜工業地帯の核として機能する川崎の埋立地は、セメント王・浅野総一郎が推進して完成させた。

 浅野の功績は、京浜工業地帯を走るJR鶴見線の「浅野駅」といった駅名にも見られる。浅野は医者の子として富山に生まれたが、商人を志して江戸に出てきた。江戸で細々と商売をしながら、浅野は王子製紙から廃品として出されていたコークスをもらい受け、それを工場で再利用して財を成した。

 王子製紙からコークスをもらい受けた縁から渋沢と懇意になった浅野は、川崎の沿岸を埋め立てて工業地帯にする計画を渋沢に持ちかけた。

 国家の近代化は工業生産力にあることをパリ時代に痛感していた渋沢は、浅野の計画に賛同。資金面をはじめとして人材面でも協力を惜しまなかった。川崎の埋立地に誘致された工場は、ガス・セメント・電機・鉄鋼・造船などにおよび、それらの製造業が戦後の高度経済成長期を支える基盤にもなっている。

生涯最後の事業 田園都市

 兜町・銀座煉瓦街・東京港・川崎の埋立地と、渋沢が関わった都市計画は商業の活性化を目的としていたものが多い。そこには経済人・渋沢ならではの目線があったことが窺えるが、渋沢が生涯最後の夢として着手したのは意外にも商業とは無縁と思える田園都市をつくることだった。

 田園都市は、イギリスの都市計画学者のエベネーザー・ハワードが提唱した理想郷だ。渋沢はエベネーザー・ハワードの理想郷を日本風にアレンジして、都市の田園地帯に住宅街と商店街、学校などをまとまってつくろうと考えた。

 渋沢の田園都市計画は、当時の人々には理解されなかった。当時、鉄道といった交通機関は十分に整備されておらず、自動車も普及していない。そのため仕事場と住居は同じ建物内にあるか、もしくは徒歩で通える場所でなければならなかった。

 渋沢が新たに田園都市として造成したのは現在の目黒区・世田谷区・大田区にまたがるエリアで、洗足田園都市と名づけられた。ところが、先述したような社会事情から、東京郊外に家を構えるは常識外れもはなはだしく、洗足田園調布はまったく売れなかった。

 販売不振に悩んだ渋沢だったが、関東大震災が発生したことで状況は一変する。日本橋や神田、上野などの江戸時代から町人町として住宅が密集している。これらの危険性が改めて浮き彫りになったのだ。

 渋沢が手がけた田園都市は関東大震災の被害が軽微だったことから、郊外の田園都市が脚光を浴びた。渋沢は洗足田園都市につづき田園調布の造成も開始していた。そして、田園調布に鉄道を敷設し、通勤の足を確保することで田園調布に居を移す人たちが続出した。田園調布は田園都市の思想を受け継ぐ良質な住環境の街だが、それ以上に住宅を徹底的に電化したことが先進的だと捉えられた。

 それまで、日本には電気を使う生活スタイルは定着していなかった。電化製品がないのだから当然といえるが、米は竃で炊き、風呂も薪で沸かしていた。

 電化された田園調布の住宅は、富裕層に好評を博す。渋沢が田園調布に込めたDNAは、現在も受け継がれている。地域独自の紳士協定が結ばれ、良質な住環境は保たれたままになっている。

医療・福祉・教育分野にも進出

 ここまで渋沢と都市計画との関連について詳述してきたが、渋沢の公益事業・社会事業は都市計画分野だけにとどまらない。ほかにも教育や医療・福祉、平和活動にも及んでいる。これらの事業の中には起業家・渋沢栄一として活動を始めるよりも早い時期からスタートしたものもある。

 例えば、生活困窮者を救済する目的にした東京養育院は明治5(1872)年に設立されている。養育院の活動は年々拡大をつづけ、明治29(1896)年には大塚本院を開設。板橋・巣鴨、そして東京の範囲を超えて安房(現・千葉県南部)にも分院が開設された。

 政府内では「生活困窮者は自分に甘い怠惰な人間であり、それらを保護することは堕落に拍車をかける行為である。そうした人間を救済することは生活困窮者を増やすことにもつながり、結果として国家存亡の危機を迎える」という意見も根強くあった。しかし、渋沢はそれに反対した。

 生活困窮者のために開設された養育院は、社会に合わせて多極化する。渋沢は非行少年たちの更生施設も立ち上げた。当初は生活困窮者と非行少年の更生施設は同じ建物を使っていたが、プログラムを別にする必要から違う場所に設置することにした。そうして、非行少年の更生施設として開設されたのが「井之頭学校」だった。

 現在、市民の憩いの場として家族連れや恋人たちでにぎわう井の頭公園は、“恩賜”と冠されるように、宮内省が管理する皇室の所有地だった。渋沢は非行少年の施設をつくろうと奔走していたが、希望に沿うような敷地は見つけられなかった。

 そこで、政府に井の頭公園に使用許可を求める。非行少年の更生という社会的意義が認められて、井の頭公園内に井之頭学校という更生施設が開設されるはこびとなった。ちなみに、皇室の御料地が公園になるのは、さらに時代を下った大正3(1914)年まで待たなければならない。

 公園化の経緯は、更生施設長として非行少年を指導していた渋沢が学校一帯の井の頭の風景が殺風景であることに悩んでいたことに始まる。周囲の環境は非行少年にも多大な影響を与える。そんな考えから、渋沢は東京市公園課長の井下清に相談を持ちかける。

 東京に公園を増やそうとしていた井下は、篤志家から不要になった敷地を寄付してもらい、そこに公園をつくるといった手法で東京市内に公園を増やしていた。

 井下は井之頭学校一帯の敷地を公園化することを提案。渋沢は宮内省に掛け合い、井の頭一帯の皇室の敷地は東京市に下賜された。そして、井の頭公園の手入れを井之頭学校の生徒が担当することになる。この清掃作業は社会復帰のための職業訓練としてプログラムに組み込まれている。

 渋沢はハンセン病患者の保護もおこなっている。ハンセン病は、らい菌が感染することで発症する。ハンセン病は皮膚や神経に症状が現れ、その見た目から周囲の人々から恐れられる要因にもなった。

 明治40(1907)年には「らい予防に関する件」とされる法律も制定された。いまとなっては言われなき差別といえるだが、当時の医学では発症メカニズムが完全に解明されておらず、治療法や予防法なども確立されていなかったから、国家を挙げて強制的に隔離するという方法が取られた。

 政府のハンセン病対策は腰が引けていたが、渋沢はらい病患者と積極的に関わった。養育院にハンセン病患者の施設をつくり、地方から入所を希望する患者を自ら東京駅まで迎えに行ったりもしている。

 教育分野では、渋沢は文部大臣・森有礼と協力して商法講習所(現・一橋大学)を、大倉喜八郎と協力し大倉商業学校(現・東京経済大学)といった教育機関を次々と設立している。運営に協力した大学には、早稲田大学や二松学舎大学、工学院大学などがあり、とても数え切れない。

 教育分野における渋沢の最大の功績は、何と言っても女子教育を充実させたことにある。江戸時代の古いならわしが残っている明治19(1886)年に伊藤博文とともに女子教育奨励会(現・東京女学館)を設立。女子の社会進出を後押しした。

 女子教育への傾注は東京女学館だけではなく、明治34(1901)年には日本女子大学校(現・日本女子大学)の設立・運営にも協力し、昭和6(1931)年には校長にも就任した。

日本という枠を飛び越えて

 渋沢の公益事業・社会事業は明治末から加速し、行動範囲は国内の枠を飛び出すようになった。明治41(1908)年、アメリカから太平洋沿岸実業団が来日。翌年、渋沢を団長とした渡米実業団が組織されて3カ月間にわたってアメリカを巡った。これが、我が国初の民間外交だといわれている。

 渋沢は日露戦争前からアメリカに渡って文化や先端技術を吸収していたが、渡米実業団を組織した最大の理由は、日露戦争の勝利によって満洲の権益を日本が得たことに寄るアメリカの反発だった。当時、アメリカへの日本人移民が増加しており、反日感情は高まっていた。アメリカ当局は、大正13(1924)年に排日移民法を制定。こうして日米摩擦は最高潮に達する。

 こうした事情も太平洋戦争の遠因になったわけだが、それを事前に察知し、渋沢は日米友好に努めた。法律が制定された後も、渋沢はアメリカ高官と連絡を取り合い、善後策を協議している。日米関係の緊張をすこしでもほぐそうと、渋沢は日本国際児童親善会を結成。アメリカから青い目をした人形が約1万2000体贈られた。青い目の人形は小学校などに配布された。渋沢を介して、日本人形58体がアメリカに返礼として贈られている。

 渋沢の民間外交は、現代版NGOといえる。渋沢は日米のみならず日英・日仏・日韓・日中関係の改善にも尽力している。特にフランス政府からは第一等記章、韓国皇帝から勲一等太極章、中華民国からは一等嘉禾章を授与されている。

 残念ながら、渋沢は昭和6(1931)年に91年の生涯を終えた。日米関係の改善に努めた渋沢の成果は実らず、その後の日本は日米の溝を深くし開戦にいたっている。

実業家子爵の誕生

 渋沢の功績は政府からも高く評価された。それが具現化したのが、明治33(1900)年の授爵だ。公・侯・伯・子・男の5爵制度は明治17(1884)年に制定されているが、爵位を得ると自動的に華族に列せられる。

 華族は長らく天皇に仕えてきた公家や江戸時代に大名として統治者だった武家、明治維新の功績者で占められていた。政府内では、利益をむさぼる商人を卑下する風潮は強くあり、そのため政府に協力的な財閥であっても爵位を与えなかった。

 実業家であり、公家でも武家でも維新の功績もない渋沢に爵位が与えられたのは、渋沢の地道な活動が認められたからだろう。渋沢は最下位の男爵ながら、もはや単なる商人ではなかったのである。

 しかし、日露戦争に勝利すると華族制度は一変する。軍功を立てて国家に貢献したことを理由に、多くの軍人が男爵を授けられる。また、資金面でバックアップした資産家に爵位を授与させるように軍部が画策し、資産家の男爵が大量生産された。

 政府内では、そうした資産家と渋沢が同列の男爵であることに疑問を感じた者も少なくなかった。そうしたことから、政府内では渋沢を陞爵させるように働きかける機運が高まり、大正9(1920)年に渋沢は子爵になる。後にも先にも、実業界で活躍した人物が子爵になった例はない。

 渋沢は経済人として記憶されることが多いが、起業家・企業家としての顔は一側面にしか過ぎない。公益事業・社会事業の渋沢を知ってこそ、渋沢栄一という人物の本質が見えるのである。

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『旅と鉄道』3月号にも『渋沢と鉄道』刊行にあたって、小文を寄せています。興味のある方は、ぜひ!



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