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【目印を見つけるノート】341. 吉川英治さんが碑文を書いたのは

今日は3月10日ですのでそのお話を。

ほんの少しの期間でしたが、3月10日の辺りには毎年墨田区に行っていました。はじめは取材として、以降は個人として、毎年の恒例行事になっていました。近年はいろいろあって行けていないのですが、忘れることはないのです。

1945年3月10日。
東京大空襲の日です。

死者数が10万人以上の1945年(昭和20年)3月10日の夜間空襲(下町空襲。ミーティングハウス作戦。「ミーティングハウス」とは東京下町を指す秘匿名)を指す。この3月10日の空襲だけで、罹災者は100万人を超えた。
Wikipedia『東京大空襲』の項目より引用。


第二次世界大戦のとき、日本が絶え間なく空襲を受けた話は前にも書きました。
【目印を見つけるノート】126. 日課のように焼かれた町と、レッセ・フェール

そして特に3月10日の東京大空襲ではいわゆる下町の一帯が壊滅的な被害を受けました。

それから76年が経ちます。
私もその頃は生まれていませんでしたし、被害に関わる数字を見ただけではなかなかリアルには感じられませんでした。ただ、その催しで知ったり、気づいたことがありましたので、それを書きます。

3月10日については、都内のいろいろな場所で催しをしているかと思うのですが、私が毎年行っていたのは墨田区にあるNTTビルの慰霊祭でした。このビルの敷地には関東大震災、東京大空襲犠牲者の慰霊碑があります。

こちらに画像と紹介があります。
https://senseki-kikou.net/?p=10715

NTT、当時そこは中央電話局墨田分局と呼ばれていましたが、東京大空襲の夜、そこに勤めていたかたがたは最後まで職務をまっとうし命を失いました。辺り一帯は焼夷弾の雨、逃げ出せたかというとそれも難しかったのかと思いますが、「死ぬまでブレスト(電話交換業務をするときに付けるヘッドフォン型のマイク)を離すな」という当時の訓に従ったと思われます。
男性3人、女性28人が亡くなりました。

ここの慰霊碑には文が刻まれています。作家の吉川英治さんが書かれました。上記のリンクにも出てきます。

吉川さんといえば、『宮本武蔵』や『三国志』、『私本太平記』など昔も今も歴史小説の大家です。その名を冠した新人賞を最近加藤シゲアキさんが受賞されましたね。

吉川さんが碑文を書いた理由があります。

吉川さんの養女、園子さんがここで亡くなったのです。園子さんはこちらで働いていました。吉川さんはこのとき郊外にお住まいで無事でしたが……。

吉川さんは園子さんを探しにご自宅から墨田区まで出てこられたーーとどこかで読みましたが、やっとたどり着いた墨田一帯が焼け野原になっているのを見て、何を思われたでしょう。

その後、『新潮日本文学アルバム 吉川英治』(新潮社)という本で、吉川さんが園子さんと一緒に写っている一葉を見ました。あどけない子どもの園子さん、吉川さんもさぞ可愛がっていたのだろうと想像できました。

戦後、吉川さんは『平家物語』や『太平記』などを題材にとり、「敗れていくものの悲しさ」を描くようになられたと思います。そのように書くことには、戦争の悲しい記憶が作用しているのではないかと私は思います。

数字だけでは分からないことがあります。
数字だけではないのです。
数字のひとつひとつ、いいえ、ひとりひとりにそれぞれの人生があるのです。
あまりにも当たり前のことですが、
なかなか数字以上のことを想像できないのではないでしょうか。

数字ではない想像をすること。
ご冥福をお祈りすること。
忘れないこと。
同じことを繰り返さないこと。

それしかできることはないのだと
やっぱり思います。

犠牲になられたすべてのかたに、
合掌。

尾方佐羽

注記 園子さんのお名前は殉職の碑にお名前を記されていませんので少し調べたところ、ここで働いていただろうと推測されるーーということのようです。
あわせてこちらの犠牲者の人数は財布のガマ口の金具の数から判断されたというお話を聞きました。
どのような状況だったか、想像を絶します。

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