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心の島 小笠原−3 島の資料・史料

小笠原との関わりは30年以上になる。
取材で、個人の旅で、もう何十回行ったかわからない。コロナ禍の3年を除いて行かなかった年はないし、一時期は住んでもいた。その間に見たり、感じたりしたことを1つずつまとめていってもいいかなと思い、書き始めた。本当の雑記だが、興味あったら幸いです。

資料・史料の行先

小笠原は歴史が浅い。人が定住した自体が1830年だし、敗戦後からアメリカ施政下を経て1968年に日本に返還されるまでの23年間、強制疎開させられていた住民は戻ることができず(欧米系の人々は1946年父島に戻っている)、返還後から新たな歴史が始まったから、日本の他の島のような連綿と続く歴史が何度も分断された。

そういう特異な歴史を公式に綴った文献は、ない。小笠原村史は今もない。民間の研究者が各時代の出来事を調べて考察した書籍はある。しかし、返還からまだ50数年とはいえ、村史がないというのはあまり他の島では例がないように思う。

いくつかの自治体の村史、区史や教育史の制作を手伝ったことがあるので分かるが、特に初回の村史は、住民や関係者が持っている写真や資料、史料が非常に重要になる。最初の自治体史を作るなら、どんな紙切れも史料になるといえる。
写真はもちろん、日記や村や都(かつては東京府だったから府)が配布した文書、学校のおたより、掲示板に貼ってあったビラ、なんでもかんでもだ。

でも、そうした資料は失われつつある。
父島の、帰島運動に活躍したKさんの書庫にぎっしり詰まっていた、帰島請願に関する資料、母島の、林野に関する書類のほか、歴史的な書物も本棚に並んでいたHさんの資料、戦争中の記録を収集して整理していたOさんの資料、みなさんが亡くなられてから、資料はどこへいったのだろう。

研究者でも、専門的研究をされている先生方の手元には、おそらく多大な資料があるだろう。もう10年以上前に亡くなられた信州大のF先生のゼミ室に大量に保管されていた、小笠原の植物や、1980年代〜90年代に大きな問題になった兄島空港に関する資料も、どこへいったのだろう。

教育委員会で、ただ一人戦跡の記録に尽力し、山の中に朽ちかけている戦跡の場所を記録していたSさんの記録は、退職されたのち、教育委員会にあるのだろうか(Sさんはご存命です)

私の手元にあるものなど、ちょっと頑張ればすぐに集まるものばかりだけど、1982年に初めて行われた南硫黄島総合調査の隊長だったO先生がお持ちだった調査に関する資料は、先生の没後開催された送る会のときに、入口付近に「ご自由にお持ちください」とずらりと並べられていた様々な資料の中にあったものを恐れ多くもいただいてきている。これは最終的には私ではなく小笠原村などに行くべきものだろうと思う。

1990年から14年間、小笠原に通う旅人の立場から、「小笠原ネイチャーフォーラム」という今で言うNPOのような団体を主宰していた。空港問題などについてシンポジウムを開催したり会報を出したりしていて、それらの記録も手元にあるが、これは大変に些末な資料とは言え、ある一時期の小笠原と、それを取り巻く旅人の思いが分かる資料ではある。

私が突然死したら、それらも多分、家族によって捨てられるだろう。
そんなことをこの5〜6年考えていて、手持ちの資料を少しずつスキャンしてはデータ化してクラウドに上げてはあるが、誰もが見られる状態にはなっていない(そうだ、少なくとも会報は公開しよう)←心のつぶやき

そんな中、おそらくは大量の貴重な資料を所蔵されていた高校の先生が、父島のNPOにそれを託し、NPOでは一般公開目指して整理中だと聞いたのは2年前だったか。
個人所蔵の資料・史料がきちんと保存され公開されるのは初めてのことではないだろうか。どんな形で人々の目に触れるのか、期待したい。

※うちにある小笠原関係の本は本棚3〜4台分ぐらいある。
上の写真はその一部を適当に撮ったもの。ちなみに「海洋民俗学」秋道智彌 は、小笠原の資料ではありません。


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