見出し画像

伝承とは、コピーを作る作業

龍神靈氣読本は、毎週月曜更新します。
今週はちょっと遅れ気味の更新です。

コロナ下で、靈氣伝授の方法を変えなければならなくなったのが、四月の終わりくらい。
連休前後から新しいスタイルで靈氣伝授を再開しました。
自分が組織人であった時代は、遠隔伝授否定派の師範の下にいたため、当然教授法は教えていただけず。
一方で世では遠隔伝授が広がり始めているのを、結構苦々しい思いで見ていました。
生徒さんの安全を考えれば、通常の伝授は絶対にできないわけです。
臼井靈氣自体は蜜の塊みたいなものですからソーシャルディスタンスもへったくれもありません。
でも、この先の未来を考えたとき、絶対にそれでは靈氣が終わってしまう気がして怖かったんですよね。

思うのですが、伝承されるものとされないものって、こうやって分かれていくのだろうなと思ったわけです。
時代が変わって、前と同じ形の伝承ができなくなったとき、後進がどれだけ先人の意図を汲み、思いを受け継ぎ、本質を理解したか。
そこにつきるんじゃないのだろうか、と。
結局、本質を理解しなければ伝承するものの本体が見えないわけです。
反対に本質がわかるなら渡し方を工夫したらいいわけで、いくらでもアレンジができる。
このコロナでわたしが学ばされたことは、そういうことでした。

二年前に能にご縁を頂きました。
謡と仕舞、この二つの文化を目の前に最初は圧倒されただけでしたが、気づけばいま自分がそれを定期的に習う立場になりまして。
伝統芸能である能は650年という時間をかけて伝承されてきた日本の宝です。
室町の時代から、人づてに「口伝」という手法でコピーされて受け継がれてきたもの。
関東にいたころは観ることも、ましてや自分が舞うことになろうなどと思いもしませんでした。
それがなんだかんだと二年目の夏を迎え、秋から三年目に入ろうとしている現実に、人生何があるかわからぬものだと思うわけですが笑。
お師範にいろいろなことを教えていただくのですが。
本日能面の話から、こんなことを教わりました。

能面とは、コピーである。
先人が作ったものを模して後進が面(おもて)を作る。
本来コピーであるはずの面の中に本体を超えるコピーが出現することがある。

そのお話は、本当に興味深いものでした。

臼井靈氣の伝承も、いわゆるコピーを作る作業です。
臼井甕男先生は道場形式で靈氣の教授をされており、その中からさまざまな方向に分派していった方々がいるといいます。
ある程度の系譜は、師範を取った時点で追ったのですが、本当に様々な分野で同門出身の人が全く違った形で流布している話を見聞きします。
たまにその方たちとご縁があった際に「お商売にした」と言われることがありますが。
何をもってお商売というのかは、よくわからないと個人的には思っています。
文化として何かを継承していこうとするとき、そこには必ずある種のコストtが発生します。
だからこそ、伝承する側はそれなりの覚悟と技術を正確に伝えていかねばなりません。
そのために、必死になって自己を研鑽していくのだと思うのです。

お師範からうかがった能面のお話は、ふと臼井先生が残された一等空位のお話と重なりました。
あれはもしかしたら、能面のようにコピーを超える後進が現れることを期待されてのお話だったのではないか、という仮説が成立した瞬間。
禅僧ですから、一等空位という表現よりむしろそちらのほうが腑に落ちます。
戦時中に何が理由だったのか、大日本帝国軍の手に渡ってしまった臼井靈氣。
もし開祖である臼井甕男先生がご存命であったなら。
はたしてそんなこと、受け入れられたのだろうか。
長年の疑問に、ふと脱出口を見つけたような気持がした瞬間でした。
靈氣には、そんな不思議なことがよく起こります。
知りたいことは必ず知れる、そんな瞬間。

わたしもある種の伝承者。
わたしを超えるコピーが現れる日を楽しみに、教授の現場に出ているのかもしれません。


この記事が参加している募集

#習慣にしていること

130,825件

#おうち時間を工夫で楽しく

95,469件

日本に数えるほどしかいない故人の通訳。イタコでも口寄せでもなく三者面談風にお筆書きという自動書記を使い故人と遺された人をつなぎ明日を照らす活動をしています。サポートくださると嬉しいです。よろしくお願いいたします。