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きせきの道具屋を作った話

人間は、大きな夢を叶えてしまうと、しばし抜け殻のようになる。
亡くなってしまった盟友がそうだったことに気づくのが、あと少し
早かったら、彼女の最後にもっと違う形で寄り添ってあげられたの
かもしれない。
2015年の夏、わたしと盟友は湘南の古ぼけたテラスハウスを借りた。
築45年、外見は立派なぼろ家。
来所するお客さま方は口々に「中に入ると綺麗ですね」
「なんか、おばーちゃんちみたい」と褒めているのか微妙な言葉を
口々にくださった。
そんな場所も、わたしと盟友である彼女には宝物であり、彼女が
「辻堂秘密基地」と誇らしげに命名した。

場所を作りたかった。
人を迎えられる願いの叶う館、それはまるで業界に入って2年目に
バイブルのように回ってきたCLAMPの漫画「HOLIC」の世界そのものの
ような館。
館が入る人を選び、中には魔法使いが住んでいて、対価を払えば願いが
叶う。
でも、現実は築45年のおんぼろハウスで(大家さんごめんなさい)、
わたしは魔法使いでもなく、願いがどう叶えられるかもわからない。
なによりわたしは壱原侑子ではないし、四月一日がそばにもいない。
そんな荒唐無稽なことを半世紀近くも生きてきて、業界で15年は仕事を
し、師範という椅子に座っていながら、本気で考えていた。
相方となった盟友の彼女は縫製屋さんで、これまた自分だけのアトリエが
欲しくて何年ももがいている状態だった。
ある夏、根城にしていたカフェを体よく追い出される形になったわたしは、
苦肉の策でずっと場所を探している彼女と手を組んだ。
そうして、二人で念願の館の主になったのである。

二人で夢を叶えた。叶えたとたんに彼女は抜け殻のように次の夢が見れなくなった。
一方のわたしは、皮肉なことに彼女の夢の城を見に来た「彼女の友人」と名乗る人に連れられて、その年の冬10年ぶりで大阪を訪れることになる。
そして、最終日の夕方。
京都河原町四条大橋の上で「天の声」を聴くことになるのだ。

「京都に住んで、京都で働け」

何の保証もないその言葉を頼りに、わたしは2年後半ば無理やり上洛する。
何の保証もなく、担保もなく、頼れる人もそういない街。
街のしきたりも、常識も知らぬまま、ぽん、と移り住んでしまった街。
それはやがて「死ぬまで離れたくない街」へと姿を変えていく。
京都で、とりあえず1年頑張ろう、上洛した年、そう決めた。


1年乗り切った京都で、次に何をしよう、と考えたとき、何もなかった。
何もみえなかった、びっくりするくらいに。
2年がかりで、泣きながら出てきた京都。
上洛間際に盟友に癌が発症し、その数か月後には闘病生活が大変だからという理由で、基地を閉鎖せざるを得なくなっていた。
悔しくて、情けなくて「いつか必ず戻ってくるから。そうしたらまた
一緒にやろうよ」と言っていた彼女を、迎えてやる準備ができない
自分の力のなさが悔しくて。
東西の往来はしていても、おんぼろハウスの夢の館はもうない。
もう彼女と2度と入居することはないその建物を眺めて、「それでもいつか戻る」と言い聞かせるたびに「それでも、いつか戻る?」と語尾が上がっていった時間。
大きな夢を叶えてしまうと、人は抜け殻のようになるんだな。
アトリエで、次の夢が見つけられずに日々もがいていた彼女の姿を何度も
思い出して、心のなかで謝った。
「ごめんよ、わかってやれなくて、本当にごめん」

上洛1年目の春に、彼女は急逝した。
京都にいたわたしには、「京都にいるから」という理由で訃報さえ届かず、
葬儀にも出られなかった。
ごめんね、ごめんね、って思っていた一周忌が近づいた2020年の春先。
コロナ禍の中、おんぼろハウスの取り壊しが決まり、願いを叶える館は、
もう2度と開けぬ館となってしまったのだ。

まだ闘病中の彼女が不在の秘密基地を守りながら往来していたころ、生徒さんの身内が突然倒れ、寝たきりになったことがあった。
脳に障害が残るかも、といわれながらの闘病。治療の過程で無理やり
眠らせた脳を覚醒した後、後遺症が残るかもしれない。
その不安を抱えて来所され、話が終わったとき、生徒さんが笑いながら
言った。
「先生のお仕事みていると、銭天堂思い出すわ~」

「ふしぎ駄菓子屋銭天堂」、児童文学発でアニメ化もされたこの物語。
それは長く憧れた「HOLIC」の先の世界に見えた。
ここに行きたい、そういえば子どもの頃、お菓子屋さんになりたかったよ。
人が集まるお菓子屋さん、居場所を作れるお菓子屋さん。
そこでは誰もが笑っていて、誰もが美味しい顔をしていて。

誰もが。
幸せなんだよ。

そんなことを、思い出してはみたものの、やりようはわからない。
後になってみればあれは、次への始まりに過ぎなかったのだけれど。
わたしは、人が集まる場所を作りたかった。
子どものころからずっと。
人が安心して美味しいものを食べ、笑って、好きなことを好きなように
できる世界。
そして、そこを離れて自分にも同じことができると自信を持ってもらえる、
そんな場所を作ってみたい。
神奈川在住時代、横浜の青少年育成の場であるカフェに5年居た。
そこのオーナーさんが銭天堂のおばちゃまにそっくりで、いつか自分も
そんな風になってみたいと思っていたものだ。
あれから2年、初めて四条大橋で「天の声」を聴いてから6年目に入る2021年を前に、ようやくその店ののれんのかけ方が見えてきたような気がしている。

盟友が亡くなって、独りぼっちになった。
よく考えたら、一人で仕事をしてきたけれど、いつもそばに誰かがいて
くれたような気がする。
大正の初めごろまで職人は長屋にいて、隣同士で技術を回しあって
生きていた時代があった、という話を聞いた。
京都の町家を見ていると、そんなことを、ちょっと思い出す。
このコロナ禍で「空間」「場所」というものの価値が大きく変わった。
それは人々の意識をウィルスが強制的に変えてしまったから。
ふしぎや銭天堂は、きせきを起こす道具を売る店としてようやくわたしの
前に「絵に描いた餅」として姿を現してくれた2020年の終わり。

きせきの道具屋、作りました。
奇跡を起こしたい貴方をお待ちしております。
ふしぎや銭天堂は、幸運なお客様だけがたどり着ける駄菓子屋だけど。

うちは、どうかな(笑)。

きせきの道具屋

日本に数えるほどしかいない故人の通訳。イタコでも口寄せでもなく三者面談風にお筆書きという自動書記を使い故人と遺された人をつなぎ明日を照らす活動をしています。サポートくださると嬉しいです。よろしくお願いいたします。