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龍神靈氣読本は、毎週月曜更新します。

お彼岸ですね、本日彼岸入り。
お墓参りは行かれましたか?
わたしは移住後初のお墓参りを昨日済ませました。
といっても、生まれ育った街の墓所じゃないんですけど。
臼井靈氣は、開祖の臼井甕男氏が天台宗のお坊さんだったときに誕生しました。
昨日お墓参りの帰り、その天台宗のお寺に昨日導かれるように行きまして。
参拝したのは親鸞さんの納骨堂(祖霊堂)と、祖母が建てたといわれる墓地。
「墓所が二つ」という埋葬法は、関東ではあまりない形。
昨年神社さんに清掃のご奉仕にあがっていましたが、その一族のお墓も二か所に分かれていたんです。
そうなってしまった経緯が明治維新とお聞きし、歴史ある街に生きるって、そういうことなんだな、と驚きました。
京の都は1200年の歴史、中央に政権が移ってせいぜい150年強。
あぁ、そういうことなのだなぁ、と。

昨日お参りした墓地は、隣が墓じまいをされたらしく更地になっていました。
そして、ものすごく巨大な墓地。
神奈川在住時代に高円寺にある臼井甕男氏の墓所を参拝したことがありますが、そこと同じかもっと大きいくらいの広さ。
あぁ、このご縁は本当に臼井先生の意向が働いているんだなぁと思ったり。
参拝の方法も関東とは違いがあり、文化って本当に土着のものを知るとまた違った見え方をするなぁ、と思いました。
で、墓所から納骨堂に埋葬されている方のお参りに移動する途中、ふとその広大な墓地を見たわけです。
お参りされているところ、そうじゃないところと開きがあり。
綺麗に整っているところもあれば、草ぼうぼうのところ、枯れた花が刺さったままになっているところ、いろいろ。
お彼岸前で余計普段の姿をみることになったのだと思うのですが、その一つ一つの墓石が一軒の家に感じた瞬間があったんです。
「お隣は家族が来てくれていいな」、そんな風に思ったりしないのかな、そんなことを考えたりしました。
これって、病院の大部屋に入院していると、わりとあるあるなお話だと思うんです。
参拝前にテレビで「親ガチャ」の話を聞いた後だったので、余計にそんな風に思ったのかもしれませんが。

臼井靈氣には「家系浄化」と、わたしが呼んでいるものがあります。
これは先祖代々が引きずっている家の悪習を修正していくもの。
いま世間で言われている「親ガチャ」は、まさにこの家系浄化の概念の中で出てきた話です。
そもそも「親ガチャ」という言葉は「親は選べないから、この環境の親の元に生まれてしまった自分はガチャを外した」という考えから来ているもの。
これって言い換えたら「親が自分の天井」と言ったようなものなんですよね。
それは究極の責任転嫁じゃないのだろうか(笑)。
靈氣の領域では、親も選んで生まれてくる、という理論で考えます。
ただし、選ぶのは遺伝子、DNAです。


この考え方の根幹は「人体は魂の乗り物である」という概念から。
車を買うとき、性能とかメーカーとかデザインとか選びませんか?
同じように人体とは買い換えられない車ですから、一番最初にそれをしっかり吟味する権利が与えられている、と考えるのです。
そして、最初に父親より母親を選ぶ、なぜならその母親が自分を十月十日お腹に抱えてくれるから。
つまりその十月十日、自分の命を託せる人間じゃないと困るわけです。
逆を返せば、父親がダメでも母親がしっかりしていたら生まれることはできる。
きちんと生まれることができる母体を選べるか、そこは本人責任です。
俗に宿命と言われるもの、生れてから変えられないものですね。
性別、国籍、血液型、肌の色、そして遺伝子。
これらは誕生前に自己責任である程度セレクトできる、と臼井靈氣では考えます。
故に生まれてからの環境は、想定と違うことがあるとしても自分が選んだこと、というお話。
何のためにその遺伝子と環境を選んだのか、なぜ自分の環境は「外れガチャ」なのか、それを理解していくのが「家系浄化」と言われる段階。
もう20年近くこれを専門にやってきていますが、一族を理解した方がいろいろな問題が円滑に解決されていくな、と思います。
反対に「なんでもいいから、ちゃちゃっと解決してくださいよ」と言ってきた人がうまく行ったのを見たことはない。
最もみる前にご縁が切れちゃうからかもしれませんけれど(笑)。

「外れガチャ」って、自分のことを言われたらどう思います?
反対に、望んだ環境があったなら自分を「当たりガチャ」だと言えますか?
お盆やお彼岸に墓地に参拝しない、それはご縁が薄くなるような何かがあったわけで、別にお墓参りが先祖供養ってわけじゃない。
形だけお参りしても、結局「二人でいる寂しさの方が罪が深い」みたいなことになるだけです。
だったら放っておいてくれ、と、ご先祖様は思うのかもしれない。
人生は「ガチャ」なんて一言で片づけられるような、軽いものじゃないと思う。
軽いものとして生きている人が増えている象徴なのでしょうが、それは大変勿体ないことをしているのにね、と思うのです。
自分の人生の天井を決めるのは自分。
「親ガチャ外れたから、俺の人生こんなもん」と、言った瞬間にあなたはある呪いに掛かる。

自分の人生を自分の力では切り拓けない、という呪いに。

自らがかけた呪いを解けるのは自分だけ。
だからこそ、臼井靈氣には「家系浄化」という概念がある。
あなたの外れガチャも、誰かにとっては当たりガチャかもしれないのに。
海街で「外れガチャ」として扱われてきたわたし。
移住して、(自分の性質を受け入れたら、むしろ人によっては当たりガチャになるのでは?)と思う経験を何度もしました。
臼井靈氣でいわれる家系浄化が結願してから四年、かつてこの技法を教えてくれた師範は「あなたが生きているうちにはできますまい」と申されましたが。
だとするなら、それを為し得てしまったいまは、きっと前人未到の域。
終らせた人間がどのくらい素敵な世界を体験できるのか、確かめるまでは死ねないなあ、と思っています。

日本に数えるほどしかいない故人の通訳。イタコでも口寄せでもなく三者面談風にお筆書きという自動書記を使い故人と遺された人をつなぎ明日を照らす活動をしています。サポートくださると嬉しいです。よろしくお願いいたします。