すばらしい人を目指すひどい人の生態

まず、すばらしいことを目指すことは自由
そして、すばらしくなくてもいい。
たいがい、それで苦しめられているので。

よくある話ですが

承認や賞賛を得ることを主として生きている人は
実は周りを攻撃しまくって自分勝手にふるまっているから
近くの人からはすこぶる嫌われている

という人。

一番大変なのはそういう人の餌食になってしまった人や近くに居らざる得なかった人

10年近くそういう人が複数いるところで仕事をしていますが、

その当人たちは表立ったことをしていて見た目は活躍しているように見える。
けど、結果なにも満足していないし、いつも不平不満しか話さない。
自分の不足を認めたくないのか、少しでも自分にとってうまくいかないことには他人のせいに徹底的にする

ということになっている。

その人たちはとても勉強熱心。
行動力も発信力もある。

しかし、すべては、自分の承認欲求と自己保身のために使われるので
それに使えないと思うと簡単にディスるし、簡単にやらなくなる。

すると、やはり、その人たちが目指すその部門も誰からも専門家と言われたり、第一人者的な人には到達できないうえに、自分の満足感も得られないので、
そこを目指さない人と自分を比較して
自分はこんなにすごい、いろいろやってるのに~人より
なのに評価されないのはおかしい

という話を繰り返すことになる。

そういうことをしている間、近くの人はその人から自分の基準に合わない部分を何も言えなくなる状態まで徹底的に攻撃されるため
結果、耐えられなくなり離れていくのだ。

当人は、自分が素晴らしく、いろいろやってる一環として近くの人にもしているから、理解はできない。この人はこれができないから離れていったというふうに思っている。

いつの間にか、自分は素晴らしくなるためにやっていたのに、結果的には誰もいなくなり、やってることも中途半端。
不平不満、他責を繰り返す日々

結論
すばらしくなくてもいいのです。
○○警察のように、自分が正しい、すごいいいことをしていると思うことは、危険をはらむ。視野が狭くなり、ほかを受け入れられなくなるので。

私が知っている第一人者や大家というような方はみなさん謙虚、丁寧、地道にコツコツと続けられ、好奇心と学びが常にあり、
そしてすべての人にやさしい、こちらがびっくりするほどに。
どんな人の話にも、自分が勉強になったと話され、絶対自分の意見を押し付けない。
対面で話を聞く機会はなくなってしまったけど、オンラインの講演でも
話されるだけじゃく、ただずまいを見るだけでこちらが和み、お見掛けできただけでうれしい、ありがたい、勉強になるという体験をさせてもらう。

自分がどんなにそうじゃないといわれてもそういう方は周りは喜んで素晴らしいと話すし、話を聞きたい会いたいと人が集まる。

つまり、そういう人は別に承認や賞賛を求めてやっていないのです。

最近、自分が生きてる1日をどんな気分で過ごしたいか、どんな人と居たいかを考えるようになり、
今回これを書くことにした。

ひどい人のことで気に病むことやそこへのエネルギーや時間はもったいない笑。



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