見出し画像

良運の方程式 第30話

皆さんは、行動の基準、良心の基準をどこに置いて生活しているでしょうか。人それぞれ性格もありますし、考え方も違います。ですから、何が良くて何が悪いということはありませんが、日本人と欧米人では、良心の基準が若干違うようです。今日は、その違いに焦点を当てるとともに、そういう伝統的価値観に真っ向から対立する価値観についても記し、私達が生きていく上で必要な指針である「良心の基準」について考えてみたいと思います。

①欧米人の良心 「罪の文化」

欧米人の考え方の基は、キリスト教の教えに由来しています。欧米人は主にキリスト教徒が多いため、その文化は神様中心、「神様がいつも私を見ておられる」という神様への畏怖が根底にあります。彼らは神様との対話の中で行動を決定しているのです。これが「罪の文化」です。欧米では「罪」という絶対的な基準が人間の行動を決定しているため、「正しいか、正しくないか」ということが良心の基準になります。

私は小さい頃から、プロレスが好きでした。米国のプロレス、英国のプロレスも見てきました。欧米のプロレスは、ベビーフェイスとヒールがはっきり分かれています。いわゆる正義と悪の戦いです。ファンは、正義のレスラーを応援し、自分もその正義に属していると自らを投影して、悪を懲らしめることに快感を感じるのです。

太平洋戦争(大東亜戦争)でも、日本は、東アジア諸国を欧米の植民地から解放して、アジア人による一大経済圏を構築して難局を乗り切ろうとしました。しかし植民地を持つ欧米諸国から見たら、それは秩序を壊す悪の企みになるのです。白人中心の世界秩序に挑戦する、黄色人の反乱…いわゆる完全な「悪」と捉えました。その後の東京裁判もすべて「正義」が「悪」を裁く図式として正当化されました。欧米人の物事の判断基準は、すべて正義か悪か…いわゆる「罪の文化」に根ざしているのです。

②日本人の良心 「恥の文化」

欧米人の「罪の文化」とは異質の判断基準を持つのが日本人の考え方です。ここでは、アメリカの女性人類学者ルース・ベネディクト氏が書いた著書「菊と刀 日本文化の型」を取り上げながら、日本人の物の考え方について考えてみたいと思います。ベネディクト氏は第二次世界大戦中に米国戦時情報局から日本研究の仕事を委嘱され、戦後、昭和21年にこの本を刊行しています。彼女はこの本の中で、日本人の文化は「恥を基調とする文化」、つまり「恥の文化」であり、欧米人の文化である「罪の文化」とは異質の判断基準であることを紹介しています。

日本には「みっともない」という言葉があります。「恥ずかしいから、みっともないことはするな」という意識は、大なり小なり皆さんの心の奥底にあることでしょう。そしてそれは、「人様に迷惑をかけるな」という考えに通じます。そこには、良いことなのか、悪いことなのかという基準よりも、人様に申し訳が立たないことをしていないか…が、行動基準になっていることを示しています。東日本大震災でも示された通り、自分の欲求よりも秩序を重んじて行動することが「良心の規準」になっているということです。これがベネディクトのいう「恥ずかしいか、恥ずかしくないか」という基準で行動を決定する「恥の文化」ということなのです。

日本人は恥をかくことを嫌います。人前で恥をかきたくないため、昔から控えめが「美徳」とされ、外国人に比べて引っ込み思案で自己表現が苦手でした。また、これに「正義より名誉を重んじる」という武士道の教えも加わって、歴史的に「恥の文化」が形成されてきたと考えられます。

③変容する社会 「欲の文化」

ただ、最近では日本もコンプライアンス(法令順守)などの考え方が定着しつつあり、「正しいか、正しくないか」という基準である「罪の文化」が徐々に取り入れられてきています。しかし、日本の伝統である「恥の文化」が持つ、「自制心」や「利他の精神」という美徳が薄れていってしまう危険性も心配されます。「恥の文化」が存在している限り、人目を気にすることにより公共の秩序は保たれることになります。しかし、日本人が「恥」をなくし、「恥」を感じなくなれば、秩序のない時代に突入することが十分考えられるのです。つまり、「恥の文化」の喪失が、「自分の欲求を満たすか満たさないか」という自己の欲求を基準に行動を決定するような「欲の文化」に移行する危険性があるのです。

昨今、コンビニで商品にいたずらをしたり、注意されているのに何度もドローンを飛ばして、それらの画像を投稿している少年たちの行為は「罪」の意識も「恥」の意識もなく、「私は有名になりたい」という自分の欲を基準に行われているようで、大きな危うさを感じます。

この傾向は大人の考え方にも表れています。富を持つことは良いことだ…という目的意識が己のための「欲の文化」を積極的に推奨する考えが目立ってきています。貨幣経済である以上、生活のためにはお金は必要です。しかし、生活等、目的意識のはっきりした用途以外のお金にどれだけの価値があるのか甚だ疑問です。「罪の文化」に置き換えてみると、神様が喜ぶお金の用途(利他)と、悪魔が喜ぶお金の用途(利己)では、その価値観に大きな開きがあるように思えてなりません。

キリスト教文化でも欲を戒めるカトリックと、富を容認するプロテスタントの違いはあります。欧米の中でもプロテスタント中心の国々は経済発展を成し遂げてきました。しかし、プロテスタントでも基本理念は、あくまでも富を分配する「利他の精神」にあります。それを、自己の欲望のために富を集積させることも良しとする考えは、理念の歪曲であり、いわゆる「欲の文化」の助長にすぎません。将来の日本の姿を想像する時、「欲の文化」による自己中心主義は、民族同胞の共同体としての国家の解体に繋がる危険性をはらんでいると警戒せざるを得ません。

④まとめ

いかがだったでしょうか。欧米型の「罪の文化」、日本型の「恥の文化」…それぞれ長い年月をかけて形作られてきた、道徳的価値です。神様が喜ぶことを行うという「罪の文化」も、人様に迷惑をかけてはいけないという「恥の文化」も、人が心しておくべき価値観です。そして、そういう道徳的価値観に挑戦する「欲の文化」。皆さんが幸福な人生を全うするための指針として少しでも役立てて頂ければ幸いです。最後に、ベネディクト氏の「菊と刀 日本文化の型」には日本古来の階層社会が創り出した道徳観が「恩」と「義理」であると記されていることをお伝えします。日本のよき伝統として、守っていかなければいけない美徳であると思います。今日もお読み頂き、ありがとうございました。


数多の若き英霊が海の藻屑となりました。感謝と鎮魂の誠を捧げます!合掌!