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となりを歩く覚悟はあるか?-上田麗奈 2ndアルバム「Nebula」に寄せて-

上田麗奈さんの2ndアルバム「Nebula」が発売された。


上田麗奈ファンの間ではもはや伝説になりつつある1stライブ「Imagination Colors」。その終盤のMCで制作中である旨が明かされて以来、5ヶ月間ずっと待ち続けてきたアルバムだ。

幸いにも、「解釈違い上等!」的なことを上田さんも仰っていたし、今回は自分なりに「Nebula」から読み取れた「物語」を考察しながら、感想も書いてみたい。

ぼくが一番伝えたいことは「総括」に記載した。お急ぎの方はそちらだけでも目を通していただきたい。

※インタビュー記事やラジオの確認は可能な範囲で行ってますが、あちこちで記憶漏れがあると思いますので、明らかな認識違いや誤解もあると思います。どうか温かい目で読んでいただけると幸いです。


1. うつくしいひと

1stアルバム「Empathy」で幸せいっぱいにトリを飾った「Walk on your side」から若干期間を空け、穏やかな日常が続いている。一見そんな情景が思い浮かぶ曲だ。

しかしながら歌詞を読んでいると、1曲目にして既に若干の影を感じられる。

子供のころに描いていた「理想」に近づこうとした結果、傍から見れば「理想」に見えるが、自分の中では決して「理想」ではない状況に陥った。それどころか「自分の居場所」や「自分自身」を見失いつつある...。

歌詞からはそのように読み取れた。上田さんご自身を投影した曲らしいが、程度の差こそあれ、共感できる方は多そうだし、少なくともぼくは共感できた。

「①『自分の居場所』がどこか。」「②『自分自身』がどうあるべきか。は、「Nebula」におけるもっとも大きな難題であり、物語の「主人公」の苦悩の原因として立ちはだかることになる。以後の曲の感想はそれを意識しながら読み進めていただきたい。

ちなみに、歌詞には上田麗奈楽曲のお決まり要素である「色」、「夢」ともに早速盛り込まれている。かつてこんなお気持ち表明をしたことがあるぼくとしては見逃せない(唐突な宣伝)。


2. 白昼夢

歌詞の要点はこんなところか。

すぐ傍にいる者でさえも、自分の苦悩には気づけていない。周囲からの冷たい視線に「ただ怯えるだけ」の自分がまず最初に行ったのは、目の前の苦悩が浄化されるように祈ることだった。

「冷たい視線」が本当に冷たいのか、単に冷たく思えてるだけかはわからない。ただ、「冷たい視線」を無機質な「ラララ」で表現しているのはなかなか刺さった。

そういえばぼくは「あまい夢」ガチ勢なので、曲名だけを聴いて以下のような予想をしていた(いずれもアルバムの2曲目である点も重要だ)。

改めて2曲を聴き、歌詞を見比べた上で、「あまい夢」が「夢幻のような現実が叶っている」曲とするならば、「白昼夢」は「現実を夢幻にしたいがそれすらも叶わない」曲とでも表すべきか。

作詞者も違う2曲なのでこれはただの偶然な気もするが、しっかり対比されているということにしよう。


3. Poème en prose

インストだが「Falling」や「Another」とはまるで毛色が異なる。ライナーノーツ公開時に驚嘆するほかなかった曲である。

上田さんの強烈な悲鳴が耳に刺さり、助けを求める信号を想起させる電子音が断続的に聴こえる。本当にとんでもない曲だ。

一方で「anemone」を始めとした他の曲の歌詞も聴こえるのは、「この状況の打開策は案外すぐそばにある」という暗示だろうか。

いずれにせよ、「主人公」は誰にも救われず、打開策を見つけることもできなかった。やがて電子音が途絶え、「主人公」は救われるのを諦めてしまう。

一応、物語としてはこんなところだろうか。

祈っても願っても苦悩は消えない。仕方がないので無我夢中で周囲に助けを求めたが、やはり誰も来なかった。


4. scapesheep

「怒り」の曲。

ただし、上田さんとしては直接的な「怒り」ではなくドロッとした「怒り」を表現されたらしい。

確かに、曲調も相まってか終始ジメジメした印象を受ける曲だ。

そういう曲だからか、歌詞の読解難易度は「Nebula」の他の曲と比較しても群を抜いて高かった。それでも強引に言語化するならこんな感じか。

自身が苦悩している様に気づかない周囲の人間に対して「怒り」の感情を抱いている。いっそみんな自身の苦悩を味わってしまえばいいのに。そんな思いすら湧いてくる。

ズレてたとしても責任は持てない。あしからず。

それはさておき、ここまであからさまな「怒り」や「不機嫌さ」を込めた曲はこれまでの上田麗奈楽曲には無かっただろう。ゆえに、現時点のぼくはこの曲をライブで歌う上田さんやそれを取り巻く会場の雰囲気が全く想像できないでいる。

そういう意味では「Nebula」の全曲中ライブが最も楽しみな曲だ。


5. アリアドネ

これまた凄まじい曲だ。

メロディは軽快だし、歌詞の世界観も絵本やおとぎ話にありそうなゆるふわ感を感じる。ただ、歌声は明らかに病み切っているので、内面部分の痛々しさと「悲しみ」を否応なく感じてしまうのもまた事実だ。そのギャップで頭がバグりそうになる。

この曲もまた、ライブで歌われれば確実にもう一段階上の次元で輝くことだろう。

歌詞の世界観はざっくりこんな感じか。

自身の内面が壊れつつあるのを自覚していたが、人前では頑なにそれを隠している。実際の自分とのギャップに苦痛を感じながらも、「皆が自分を演じているのだ」と言い聴かせて懸命に堪え続ける。

ところで、ギリシャ神話において「アリアドネの糸」は迷宮からの脱出に使われた糸である。アルバムの収録曲が発表された際に(次曲が「デスコロール」であることに違和感を持ちながらも)この曲は「救い」の曲になるのではないかと予測していたのだが、結果的にこの読みは完全に外れた。

なぜこの曲は「アリアドネ」なんだ。肝心のここが未だにわかっていない。読み解けた方がいらっしゃったら是非教えてください。


6. デスコロール

「scapesheep」では「怒り」が、「アリアドネ」では「悲しみ」が表現されているというのは上で触れたとおり。

「怒り」にしても「悲しみ」にしても感情の発露にはエネルギーを使う。そのうちエネルギー切れになるのは明らかである。

「デスコロール」はエネルギー切れになったあとの「無」や「諦め」を表現した曲だ。個人的に、この一連の流れは痛いほど共感できる。

物語においては以下のような感情が表現されたパートになるだろう。文字に起こしてみるといっそう痛々しい。

何をやってもうまくいかないし、もう疲れてしまった。全てがどうでもいい。なるようになれ。

そういえば、レコーディングの際には一層悲壮感を感じさせるバージョンもあったという。こちらはこちらで是非聴いてみたかった。


7. プランクトン

上田さんもインタビューで仰っていたが、水に流されるだけのプランクトンがそれでも懸命にもがくイメージの曲である。確かに「デスコロール」と比べても明らかに歌詞から能動性が感じられる。特に曲の最後においては「諦め」の感情は欠片も残っていない。

ところで、「Nebula」には「プランクトン」と対照的な曲が一つある。
「アリアドネ」だ。

目の前の難題に対し、自分を偽ることで誤魔化そうとしたが結局うまくいかなかった「アリアドネ」と、自分を徹底的に見つめ自分の進みたい方面に進むことで僅かながら解決に近づいた「プランクトン」。

思えば、「うつくしいひと」より抱き続けていた「難題」は「自分自身を見失っている」ということなのだから、自分を偽るのではなく自分を徹底的に見つめ直すほうが解決に近づくのは実に合理的だ。

その結果は、残り3曲で至上のカタルシスとなって現れることとなる。

いつまでも自暴自棄でいても仕方がない。自分は何者なのか。自分の居場所は何処なのか。思考を巡らせながら、ただ自分が思うがままに歩みを進めた。自分でもよくわからないが、なぜかそれで良い気がした。


8. anemone

大正義。とにかくこの一言に尽きる。

MV公開時は、「MVにこの曲を選んだ理由とは?」とも思ったりもしたが、今になって思えば、尖った楽曲があまりに多い本アルバムにおいて、過去作の流れを引き継いだ世界観のMVを作成するならばこの「anemone」が最良だった。

肝心の曲の内容だが、個人的には「プランクトン」に対する回答的意図を感じる。

「プランクトン」では明確な根拠がなくとりあえず行われていた「とりあえず思うがままに進んでみる」という行為。

結果的にこれが正しかったということを「anemone」は示しているのだ。(「特別な準備はいらない」、「これまでに零れた欠片が道標になる」などの歌詞がわかりやすい)

これに限らず、(作詞作曲者がそれぞれ異なるにもかかわらず)連続する曲同士がしっかりと線で繋がるのはこの「Nebula」の魅力だろう。

より大局的視野に立ってみる。「うつくしいひと」で触れた、「①『自分の居場所』がどこか。」「②『自分自身』がどうあるべきか。」の2つの難題。「anemone」は①の解決編にあたる。解答としては以下の通りだ。

進んだ結果こそが自分の居場所、それでいいじゃないか。やっぱり自分のやりたいように進むのが正しいのだ。


9. わたしのままで

残された難題である「②『自分自身』がどうあるべきか。」の解決編にあたるのがこの曲だ。

その話をする前に、「うつくしいひと」と「わたしのままで」の対比について触れておこう(どっちもひらがな七文字なのも素敵)。具体的には、「星」についての話だ。

2つの曲において「星」は「自分自身」を喩えたものだと考えている。

「うつくしいひと」において「わたし」が見ていたのは「架空の星」。すなわち実際には存在しない「理想の自分自身」を探求していた。だけどもそれは追っても追っても見つからず、「胸の空洞」が生じるばかり。結局「わたし」は絶望の底に落とされていった。

それに対して「わたしのままで」における「星」は決して架空のものではない、「現実の自分自身」だ。それをついに見つけるまでの流れが1曲を通して表現されているのである。

それでは「現実の自分自身」とは何か。言い換えれば、「自分自身」がどうあるべきか。その解答は曲の最終盤に示されている。すなわち以下の通り。

結果的に理想の姿と異なっていても構わない。変に取り繕わず、ただそのままのわたしでいればよいのだ。


10. wall

「Nebula」という物語のEDにあたる曲である。

難題を解決したあとということもあり、とにかく開放感が素晴らしい。あとはやっぱり上田さんの「Jump over the wall」が好きすぎる。カタカナ英語であることをご本人は気にされていたが、これはむしろこれでよい。この歌い方もまた開放感を感じさせるのに寄与しているのだから。

歌詞は「Nebula」の物語をざっくりとまとめた内容になっている。最後に語りかける形で締められるのは、「Nebula」で見つけた解答がぼくたち聴衆に向けたメッセージでもある、ということかな。


総括

我々は上田麗奈に覚悟を試されている。

ぼくが「Imagination Colors」と「Nebula」を経験して、まず抱いた感想だ。

「Imagination Colors」終盤のMCで上田さんは、

・「チーム上田麗奈」がファンをも含んでいる。
・ファンには「Walk on your side」で描かれているように、自分の「となり」から活動を見ていてほしい。

といった話をされていた(他にも重要な話はあったが)。あのライブの最重要シーンの内の一つである。

一方、同じタイミングで制作中であることが明かされた「Nebula」。この作品は間違いなく「問題作」だ。物語の流れに鑑みれば納得はできるが、あまりにも暗部が表現されすぎている。上田麗奈の深淵が見せつけられすぎている。

だが、当のご本人は自覚されているのだろう。「上田麗奈の深淵」はこの程度にはとどまらない、と。実際、ぼくとしても、声優・アーティストいずれの活動においても、上田さんの「底知れなさ」を感じさせられる場面は多々ある。おそらく、今後も見せつけられることだろう。


上田麗奈は問いかけている。

「この程度の深みに留まるつもりはない。となりを歩く覚悟はあるか?」

ならば、どこまでもついていこうじゃないか。覚悟はできている。



そんなぼくの決意はともかく、この「Nebula」の感想を書くためにきちんと歌詞を紐解いてみると、結構しっかりしたストーリーが見えてきて驚かされた。

曲によって作詞作曲者が異なるにもかかわらず、ちゃんと一本の話ができているのは、上田さんをはじめとする製作陣の皆さんのこだわりの賜物であろう。ありがとうございました。

ご本人の狙い通り、この「Nebula」は間違いなく一つの「映画」を見たような気持ちにさせられる傑作だと思う。


当然今後のアーティスト活動への期待値もますます高まるばかりだが、しばらくは既存の曲と10/6に発売される1stライブBDを回しながら、この底が見えない沼に浸かることにしよう。

それでは、また会いましょう。

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