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俺が英国で変わったこと:2014-2021

タイトルは自分への備忘録+もしかしてこれから英国に行く人へのメモとして付けたんだけど、もし後者で読んだ人になんかで役に立てば幸いであります。

1.マイノリティに対する理解

そもそもこの国では、何をどうひっくり返しても、俺は見た目も言語の面や文化理解の面でも、(ホワイトな)ブリティッシュにはなりえず、常に「マイノリティ」になるわけである。この状況下と言うのは、日本人が日本に居るとわかりにくいのだが、まず日本では使わないカロリーを使う。そう、暴力に対する自衛の心構えだ。

だから、自分の仲間として、東アジアはもちろん、南アジアや東欧系の人々が抱えるヘイトクライムへの不安は、ものすごくシンパシーを感じるようになり、そして、自分がいかに日本でマイノリティの人々には無頓着だったかを知るようになる。

そんな状況下でもあの国が素晴らしいのは、「俺の村でそんなことは許さん!」と立ち上がる、コミュニティの活動が必ず起きることである。あれはマイノリティたる俺にどんだけ力づけてくれたか!

そうだ、俺も母国で、マイノリティの人々にこんなとこにエネルギーを使わせてはイカン!と、ヒシヒシと思ったりするようになる。


2.女性を取り巻く状況への理解

1にも近いのだが、メディアからも人々の態度からも、英国で初めて女性は「人類」だ、と気づいたと思うのだ。もちろん英国が完璧に男女は平等とは言えないが、それでも俺は女性=母か妻か性的対象という極端なステレオタイプをしていたと思う。あ、今も気を付けてはいるが、してる可能性はある。

と同時に、俺自身も「男性らしさ」にはクソ親父や当時の小学校の担任のせいで随分と悩まされたことに、今さらになって気づいた。それもあって、女性に対しての状況の想像力がずっと欠如していたのは、かなり反省するようになった。

奴らは「算数と体育は、通知表で5であるのが男子たるべし」という、頭のおかしい信念を持っており、どっちもせいぜい3しか取れない俺(たいていはどっちも2だ)にとっては、本当に苦痛でしょうがなかった。

そのせいでガキの頃の俺は自己肯定感は失われ、自分の生きる道の幅が狭まった可能性はあるぞ、あの野郎ども!


3.怒りのコントロール

オフィスで怒鳴り声というのは、英国産のコメディドラマではそこそこ見るし、また英国内でも職場によっても違うと思うが、俺が滞在した7年間はロンドンでもカーディフでも、訪問した数々の会社でも一度も無かった。

ただ一度、日本ならみんな怒鳴りまくるだろ、という、ある出来事が起きた。

「俺が当事者ならブチ切れて怒鳴りまくるぞ!なんでみんな怒らないんだ?」と聞いたら「いや、怒ってるよ。でもアグレッシブな態度は違うだろ」と言われ、ああ、この国で怒りの表現で怒鳴るってのは、ただの暴力であって、そりゃムカついたから殴るみたいなヤンキー的行為なんだな、と反省した。

よく欧米のゲームや映画で、昔の日本兵がやたら怒りの叫び声を上げているのだが、あれはおそらく俺らの理解の「気合」ではなく「感情をコントロールできず暴力的に狂っている」アイコンに誤解されて多用されているような気もする。

だが電話やスカイプで通話を切ったあと、相手から見えないことをいいことに「ふざけんなよ!ボケ!」と毎度日本語で怒鳴っていたので「オガさんはなぜ、日本との会話の後は、毎度ケンナーと叫ぶのか」と聞かれて、再度反省したこともある。


4.やかんに火をかける 

俺の英国滞在中に、マンチェスターで悲惨な自爆テロ事件があり、その翌日は英国中がお通夜みたいな雰囲気になった。外国人の俺すら落ち込んでいたのだが、朝通勤中に聞いていたBBC RADIO 2では、DJがこんな感じのことを言っていた。

「みんな今回の事件でいろんな恐怖を悲しさを感じたと思う。だからといって、塞ぎ込んだりしてはいけない。さあ、やかんに火をかけて。今日は普段と同じ日だ。なにも恐れる必要はない」

ああ、Put the kettle on.とは、紅茶を飲むことではなく、”パニックにならずまずは平常になりなさい”なのだなあ、とヒシヒシと感じた。ある程度そういう意味があるはわかっていたが、実感したのはこのときだ。

台所か庭かコンサバトリーで、小鳥の声をバックにダサいマグカップでドロンドロンの紅茶を飲む。あれは本当に素晴らしいひとときである。

しつこく言うが、みんなのイメージする英国式アフタヌーンティーではない。

日本ならきっとこのフレーズは「コタツでミカンを剥こう」だと思うのだが、俺もパニックでフリーズしそうになると、この言葉を思い出し、とりあえずコーヒーか紅茶を入れるようになった。


5.社交性の意味

英国では、日本よりもちょい社交性が求められる。社交性というとリア充みたいなのを想像してしまうが、”人がいることに対して気を配れ”という、やや日本人には難易度の高いやつである。

よく俺は同じオフィスのカーディフ・オカンに渡英初期に怒られたことは「オガさんはなぜ、挨拶は短いグランピー(不機嫌)なのか」である。あとあと考えるとこの2つは”無視”扱いになるのだ。

挨拶は基本、日本の職場では

1.おはようございまーす(呼びかけ)
2.おはようございますー(応答)

で終わるので、英国もそんなもんだと思っていた。


が、実は2では1の具合を聞くのが必須であり、さらにそれについての意見を言って初めて(同僚的な)挨拶になるらしく、オカンは2で終わる俺を毎度「私が”おはよう”言うてるやろ!」みたいな感じでよく怒られた。

そして、どうも人がいるときは最低限、人に気を遣う社交的な表情や行動を取るという感覚があるらしく(必ずドアを後ろの人のために抑えとく、とかもその延長だと思う)、不機嫌な態度というのは、その場にいる人々の存在を忘れて自分勝手な振る舞いに見えるっぽいのである。

俺は考え事をしていると険しい顔になるだけなのだが、そこをよく注意されたので、考え事は歩いてできなくなってしまった。

それが完全に治って日本の職場に戻ったら、たしかにみんな挨拶は短いわ、みんな不機嫌そうだわで、カーディフのオカンが「アカンで!」と言ったのを凄まじく理解したのであった。


最後に

英国に慣れるのには3年かかったと自覚はしているが、日本に帰ってきたら4-5ヶ月位でほぼ日本化してしまった(ミョウガと和菓子のせいだと俺は思っている)。

電車が1分遅れるだけでイライラしたり、エンターテイメントとしてショッピングをしたり、信号が赤なら車が居なくても止まったり…。数えればきりがない。

もちろん、英国も日本同様、とんでもなくヒドイところはたくさんあるのだが(ボイラーが故障とか、ボイラーの故障とか、ボイラーがまた故障とかだ)、それでも出来る限り1-5までは、きっとイイことだと思うので死ぬまで保ちたいわけである。

だがもしかしたら、それでもそのうち忘れてしまうのかな、と時々寂しい思いがする。

そんなこともあって、今日はなんかで忘れたときに自分で見直せるように、と備忘録的に書いておいた。

1-5を見て「あ、そうだったな」って思う日が来ませんように。

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