20230823

今回は、私の写経です。
連日推しの供給頻度が高すぎて正気ではいられなかったので、ちょっと思考整理しようと思って筆を取った次第にございます。
オタクの話です。

落ち着いたら加筆するかも。





推し(おし)とは、主にアイドルや俳優について用いられる日本語の俗語であり、人に薦めたいと思うほどに好感を持っている人物のことをいう。

Wikipediaより引用

上記を踏まえてみると、私の”推し”への考え方っていろいろある。
wikiにある通り誰かに薦めたい推しもいるし、私1人で楽しんでいたい推しもいるんだよなあ。

それはさておき。
その”推し”とは何なのか、というお話です。

存在しうる考え方としては、
・ビジュアルが好き
・その人や物のコンテンツの在り方が好き(原作主義)
・キャラクターとして落とし込んだ上で好き(二次創作が好き)
・人間性が好き(オフの姿が好き)
・恋愛対象として好き
などがパッと思いつく範囲かなと。
基本的に”推し”というものは「全部ひっくるめて大好きだぞ」になりがちだけども!
正直おれもそうだよ!
まあ、どの考えもあっていいものだと思う。
そこで私がどれになるかと言うと、明言するのは難しいが多分「コンテンツとして好き」がメインになる、かも。
現在の推しAは完全にそれ。
その人のエンタメに面白さを見出して楽しんでいる。
(いやこれ深堀りしたら、Aそのものの在り方じゃなくてAが生み出すAとしてのコンテンツっていうなんとかかんとか…というオタク早口トーク)

ただ、この考え方でいるには怖いことがある。
「楽しんでいたものが崇拝や盲信になる」ことがままあると思っていて、ぶっちゃけこの現象に私はちょっと悩んでいる。
ハマりたての頃ってこちらも見極めながらだから理解できる範囲のものから見ていく。
それを続けていくと推しのやる事成す事すべてに意味を見出し始めてしまうから、推しが正解に、正義に見えてくるのだ。
まるで宗教のようだ、としばしば思う。
私は人間関係において一番信用がおける人というものは、欠点を知られていて私も相手の欠点を知っている、ことだと考えている。
それなのに、大好きな推しに対して自分から信用を蹴るような目で見てしまうようになるのは、なんとも不健全だ。
擁護と贔屓は違う。
推しが崇拝対象である神に成り上がったら、もうそれは宗教戦争待ったなしである。
何においてもアンチというものは付き物なのだから、自分の正義を護るために攻撃的な考え方を持ってしまうだろう。
推しは庇護対象ではないんだぞ。
他にも、推しが非行に走ったら後を追う他なくなってしまう。
それがこわい。
今そのぎりぎりにいる自覚がある。
だから、「一緒に死ぬって言えなくてごめんな」っていうスタンスであり続けることが私の”推し活”である。

一定の距離感でいることが最大限楽しめる推し活だと思っているので、私が道を踏み外しそうになっていたらビンタして止めてください。