妄想でドレスコーズ「若葉のころ」を聴く(First of May in my own head)
※ こちらは楽曲解禁前の記事です。
みなさまこんにちは。あやめです。
ほかの三ヶ月記念noteはこちら。
「若葉のころ」が、ドラマを指していればの話ですが。っていう話を延々としますね。
お前は何と闘っているんだ
2023年8月8日、ドレスコーズさんのニューアルバム「式日散花」の収録楽曲タイトルが公開されました。
M3「若葉のころ」。
そろそろ初心者マークを剥がされる私が、志磨先生に食らいついていけるかという、ガッツを試されていると考えるべきでしょう。ええ受けて立ちましょう。こわいよー。
だから守るんだ、だから大切にするんだ
2017年、筆者はまたまた先輩に誘われて、光一さんと剛さんの20周年partyに入りました。相変わらず音楽について主体性がないです。
剛さんがファンとしてASKAさんのムック本に登場されたこともあったので、ご自身で書かれるソロは聴いていました。
筆者のひとまわり上のお兄さん世代のおふたりは、あけっぴろげで親しみやすいテレビ番組の印象が強かったです。
party直前に剛さんが突発性難聴を発症したことが発表され、当日ステージに現れたのは、タキシードを鎧のように着込んだ光一さんだけ。剛さんは別室からの中継でお顔を見せてくれました。
「どなたからも払い戻しが発生しなかったようで、ありがとうございます」ステージの0番に立って、踵を合わせて頭を下げる姿は、あらゆる感情を内側に押し込めているようで、凛々しくも痛々しかったです。
中盤まで、炎天下でタキシードを一度も脱ぐことなくひとりで歌い、踊り抜いた光一さんの様子には、"絶対にこの場を壊させない"という鬼気迫るものがありました。
言葉を選ばずに言うと、ステージにふさわしくないほど怖くさえ感じられました。
ある曲で、光一さんはセンターから上手に移動すると「つおしくんのパートは、みんなが歌って!」と客席に歌の大部分を託して、スタジアム中に張り詰めていた糸を切ります。
後から、移動後が光一さんの定位置であること、つまり前半の光一さんは剛さんの場所を守っていて、ファンにもそれをやらせてくれたんだよと教えて頂きました。
その楽曲は、かつてふたりが共演したドラマ「若葉のころ」のエンディングテーマ「FRIENDS」でした。
partyの5年後、25周年ライブは、ふたりが揃った「FRIENDS」で幕が開きます。
画面いっぱいにぶつけられる欲望
そんな因縁があるとは知らなかった筆者は、「若葉のころ」が見たくて見たくて、でも昔の作品なので手に入らなくて、実家近くのTSUTAYAまで探して、ようやく見つけました。
同級生のふたり、家庭環境は正反対、友情が深まるほどに憎しみは濃くなり、しかも実は異母兄弟……なんてグロいんだ。
光一さんが1月1日の早生まれ、剛さんが4月10日の新年度生まれなので、現実には有り得ないけれど、「ふたりが同じクラスにいたらいいのに」「ふたりが実は血が繋がってたらいいのに」そういう目で見られてたんだ。
若いふたりのプロ根性の記録でもありますが、ふたり(のガワを持つ少年たち)が残酷な運命にズタズタにされるのが観たいといわんばかりの欲望が、画面いっぱいに映し出されているようで、結局つらくて早送りしてしまいました。
今もなおリアルタイムでふたりのドラマについて呟いている方が多いですが、「たとえ芝居でも剛と殴り合うのは嫌だった」という光一さんのコメントを見た時は悲しくなりました。
迷子の甲斐と留加
「若葉のころ」が、ドラマを指していればの話ですが、その前年に放送された「人間・失格〜たとえば僕が死んだら」(以下「人失」)でも、ふたりは同級生の役を演じました。
貧しい父子家庭から名門校へ編入学する大場誠(剛さん)と、母の愛人からの援助で不自由なく暮らし、校内を支配する影山留加(光一さん)。
誠は校内のマイノリティゆえに、そして留加は美貌と精神の不安定さゆえに、校友に、教師たちに、大人たちに、苛烈なほど心身を侵食されます。
とはいえ、彼らは触れなば割れんの硝子細工ではなく、自分なりの力を尽くして、そして手に手を取って、時には手を差し出して、運命に抗おうとするのですが……。
「若葉のころ」は、人失を本歌取りしたような構造で、藤木甲斐(光一さん)に高圧的な医師の父親の存在が与えられています。また、蒔田泉(奥菜恵さん)が介在することによって、性の問題という軸が加わりますが、本記事では省略します。
父親の存在が与えられたにも関わらず、甲斐は留加と同様に、武司(剛さん)に不用意に近づいては傷つけ、何度も大切なものを奪ってしまいます。
自他境界の緩い甲斐と留加は、決して剛さん演じるところの「ともだち」を傷つける意図などないのです。
むしろ、彼は彼なりに、自分が受け取ったり教えられてきた方法で、愛そうとしているのです。それは金を使うことであり、競争に勝利することであり、性によって自己を差し出し或いは奪って、相手を利用することでした。
そして相手を失う段になって、その衝撃でようやく開眼したかのように、善性を備えた人間に近づいていきます。
甲斐の父親は、医院の後継ぎを強いることで父権的・強権的役割は果たしても、甲斐の過ちを父性によって正してはくれませんでした。
妄想に逃げ込まず、目の前にいる相手の視点で世界を見て、結んだ関係を守り続けるという愛し方を、甲斐は誰にも教えてもらえませんでしたが、武司は厳しい生活の実感の中で、それを理解していました。
甲斐が、武司に何度拒まれても、不思議な笑みを浮かべながらふらふらと近づいてしまうのは、「歩き方を教え、道を外れたら引き戻してくれる父性」を武司に見出し、求めていたのではないかというのが筆者の見立てです(「ほんとうは愛されたかった、父さんから」)。
あ、どれもこれも、「若葉のころ」が、ドラマを指していればの話なんですが……。
僕はメリー・バッドエンドじゃやなんだ
「若葉のころ」は、何度も甲斐(光一さん)が傷つけ、何度も武司(剛さん)が赦すことによって、絆が絶えることなくエンディングを迎えます。
ドラマに限らず、もうこの関係をやめようと思えば、やめればいいのです。「終わりにしましょう」と言い出して悪者になることさえ面倒ならば、音信不通になるだけでいい。
しかしあの日筆者が見たのは、優雅さもファンタジーもかなぐり捨てて、ただただ必死に"終わらせまい"と、大切なものを守るひとりの人の姿でした。
物語ならば、そんなに何もかもうまくいく道理があるかよ、と斜に構えて、メリー・バッドエンド(幸福なバッドエンド)仕立てもいいでしょう。
「幸福な王子」は人に与えるばかりで朽ち果て、彼を手伝ったがために北へ渡り損ねたツバメも、死んでしまいました。しかし、己が思う善を成して、天国へのぼったふたりは、それこそ「ほんたうのさいはひ」に触れたのではないでしょうか。
甲斐もまた、武司をかばって鉄骨に潰され、植物状態になるという(物語上の)償いを負わされます。しかし、その病室には泉ちゃんも、泉ちゃんと自分の赤ちゃんも、武司も付き添っていてくれます。
甲斐にとっては死にたくても死ねない、皮肉な「終われない」ルートに入って、ドラマは終わります。
だけど、本当の本当は、大切な人といつまでも共に在りたいし、明日もおはようとおやすみが言えることのさいはひに比べたら、物語的な文脈だの、美しい幕引きだの、クソ喰らえですよね。
そうじゃなくて、君にとって愛されることがどんなことかを分かる努力をまっすぐにして、そんな風に愛して、王子様みたいに(なれないなりに、格好悪くても)守りたいよね。
君が間違えるなら一緒に地図をみて、あなたが歩けないなら一緒に立ち止まって、あなたが話したくないならだまってケーキでも作って冷蔵庫に入れておくよ。
……と、甲斐が長い夢のなかで聴いているうた、を、筆者の妄想として、9月13日を待とうと思います。
おしまい🌳🪄︎︎💫
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