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オーナーの愛②(最終回)

「男女の友情は成立するのか、しないのか」

まだソクジンが地元の仲間と飲み歩いていた頃、すなわち、まだ恋人がいて幸せだった頃、よくその話題が酒の席であがった。そんな話を振る人間は大体、異性の友達に少々の好意を抱いているものだとソクジンは思っていた。「成立しない」の答え欲しさに、己れの感情を正当化したいがためにそんな質問をするのだろうと。だから彼はそんな時決まって「成立する」と答えた。「俺とみきえを見てみろ」と。

そして、彼は今まさに「成立しない」の一例を自分が作ってしまったことを後悔している。

さっきまで情熱的に求め合うキスをしていた唇が一旦離れると、ふたりはお互いの顔も見ることができない思春期の子供みたいになった。みきえは微かに息を切らしながら背を向け、無理に平静を装って鍋を取り出したり落ち着かない様子だ。

「みきえ…ごめん」

その言葉に、みきえが一瞬ぴくっと反応した気がした。

「いいのいいの。私こそごめんね」
「…俺、帰るわ」
「うん。片付けとかいいから、そのまま帰って」

ソクジンは逃げるようにして店を出た。


その日、ソクジンは久しぶりに死んだ恋人の夢を見た。

ふたりで旅行の準備をしているのだが、一番やらなくてはならない仕事を済ませていなくて胸がザワつく。そして結局、そのせいで飛行機に乗れない。彼女は「仕方ないよ、気付かなかったんだから」と慰めるが、自分は罪悪感で苦しくなる。そんな夢だ。

これまでも似たような夢を何度も見た。そしてそのたび、彼女との北海道旅行を前に両親が家に乗り込んできた日のことを思い出す。

「自分がもっとしっかりしていれば…」ソクジンはいつだって自分を責めていた。心のどこかで、彼女の死が自分のせいだと、そんな自分が幸せになるのは間違いだと、そう思っていた。

いつもの通り真夜中に目覚め、彼はみきえを思った。LINEを開き、何か書いて送ろうと思ったが、兄弟のように無邪気なやりとりをしている履歴を見て何と言葉をかけるべきか全くわからなくなった。

そのまま彼はメールもせず、電話もせず、顔も合わせず、時が解決してくれるのを待とうと、現実から逃げた。


寒い冬が過ぎ、木蓮も桜も散り、瑞々しい若葉の匂いがする季節になった。

あの日以来、ソクジンはみきえと会っていないし電話でも話していない。あの一瞬の衝動によって、彼は長年の大切な友人を失ってしまった。彼は以前にも増して孤独を感じた。

ただ、この数ヶ月でビストロを取り巻く環境には変化があった。

まず、ホソク氏の紹介でソクジンは2店舗目の出店を計画している。このところ毎日、まかないの後は事務所にシェフとアツを呼んでのミーティングだ。アツの提案により、今のところオープンキッチンのバルみたいな店にしようと考えているが、彼女によればオープンキッチンにジョングクを立たせることが絶対条件だと言う。

「あいつは腕がええからリーダーくらいの立場やらせてもおかしくないんやけど、調子に乗るタイプやからなぁ、そこだけが心配や」
「大丈夫ですよ。グク君、責任感強いから」
「あとは、気が大きくなって春香ちゃんにプロポーズしてまうんやないかって心配やわ」
「つまりシェフもそんな感じだったんですね」
「やかましい」
「ちなみにおふたりにだけ話しますけど、グク君よりもギャルソンが先に結婚すると思います」
「は!?まじか?」
「やー!テヒョンとアツが夫婦に!?」
「みんなにはまだ内緒ですよ」

その日のディナーでは面白いことがあった。ついに謎の常連客の正体がわかったのだ。

常連客はその日、多分初めて夜の時間にこの店に来た。例に漏れず女性を連れていたが、その女はいつもの女たちとは雰囲気が違い堂々としていて、寧ろ常連客の方がずっとソワソワと幸せそうなのである。

「やー、どんな女だった?」

オーナーとシェフは春香やアツがホールからパントリーに戻るたびに常連客の様子を聞いた。

「歳上っぽいけど凄い綺麗な方ですよ。背も高くて、あのお客さんと雰囲気も似てて」
「じゃあ、お姉さんとかか?」
「いえ、オーナー。あれは完全に恋人同士の雰囲気です」

その夜は配達人のナムジュンもディナーの予約を入れていた。彼が恋人を連れて窓側の席に向かった時だ。

「わっ!うそっ!」

ナムジュンは常連客の席近くで口を手で押さえ、目を見開いた。

「パクジミンさん、ですよね」
「あ、はい」
「うわぁ〜、僕大好きなんです!」
「あ、はい。ありがとうございます」

ナムジュンは終始「わー」と感動する様子だった。店を出る時、ナムジュンはこの店の人々に常連客の正体について熱っぽく語った。

営業を終え、シェフはジョングクを呼び、新店舗のコックリーダーを任せるつもりだと伝えた。

「ありがとうございますっ!頑張りますっ!」

ジョングクはキラキラした瞳を細くして喜んだ。春香と並んで店を出る彼の足取りは軽かった。

ソクジンはユンギと戸締りして店を出た。街の灯りが空に反射しているような明るい夜空で、上弦の月はいつもより輝いて見える。

「若いってええなぁ」

ユンギは月を眺めてそう呟き、バイクに跨った。

「やー、俺までオヤジ扱いするな」
「はぁ?俺の方が数ヶ月若いんやけど?」
「はは。まあな」
「そう言えば、最近みきえさん来てないんとちゃう?」
「ああ」
「なんか、あったん?」

ユンギはよく勘の働く男だ。

「いやまあ。うん、ちょっとな」

ソクジンは作り笑顔で不器用な反応をした。

「何があったか知らんけど、大事にせえよ…お前はみきえさんみたいな人と一緒にいるのがいいと思うねん。じゃ」

・・・

家に帰り、暗い部屋に電気をつけるのがソクジンは嫌いだ。だから彼は玄関の照明は人感センサーに変えている。家に帰れば見もしないテレビをつけるし、それほど酒が好きなわけでもないのに必ず酒を飲む。

ああ、こうして自分一人老いていくのだろうかとふと虚しさが彼を襲った。テヒョンの結婚の話や、ジョングクと春香の仲睦まじい様子や、ナムジュンや常連客の幸せそうな顔を見た今日は、いつもより自分の孤独を感じて感傷的になってしまう。

冷蔵庫を開けた。が、缶ビールがない。

どこかに開けていない焼酎があったはずだとキッチンの収納を探すと大量のタッパーが出て来た。全部、みきえの惣菜が入っていた空き容器である。ソクジンはふっと独り笑いし、みきえに会いに行こうと決めた。


翌日の昼過ぎに、ソクジンは大きな袋を携えみきえの店へ行った。「準備中」とプレートがかかっている扉をごめんくださいと開けて入ると、厨房からみきえの父が顔を出した。

「お、どうした。久しぶりだな」
「ご無沙汰してます」
「何かあったか?」
「これ、みきえに返すものがあって」
「あ、そうか。その辺置いとけ」
「みきえは?出かけてますか?」
「ああ…実は、みきえ、入院してんのよ」
「え?」
「甲状腺にガンが見つかってね、明日手術」

みきえの入院する病院へ向かいながら、ソクジンは自分の感情を整理しようと努めた。でも、心配ばかりが心に重くのしかかって何も考えられない。そもそも、みきえの父に面会はできないと言われたのに、今、無心で、病院へ向かっている。

病院の駐車場で、彼は小さく並ぶ無数の窓を見上げた。そして、みきえに、電話をかけた。

「もしもし?」
「あ、みきえ?」
「…どうしたの?」
「お前、具合は、どうだ…」
「あぁ、父さんに聞いたのね。大丈夫よ」
「大丈夫って…明日手術だって」
「父さんったら、また大袈裟に話してる。大丈夫よ、先生もよくある手術だって言ってるし」
「おう…」
「でも、電話、ありがと」
「いや…」
「なんか、ぎくしゃくしそうで、ずっと連絡できずにいたの」
「みきえ…あのさ…手術終わって落ち着いたら、俺と、ドライブ行こう」
「ふふ。うんわかった、行こ」
「いや、違う。そういうことじゃない」
「え?」
「デートに誘ってる」
「え?」
「その部屋、窓あるか?」
「あるけど?」
「窓の外、駐車場?」
「そうだけど…」

みきえは窓辺に行って外を見下ろした。車のない駐車スペースに大きく手を振る男がいる。

「え?」
「見えたか?みきえ、何階だ?」
「4階。多分真ん中あたり」

遠い距離で二人は目が合い、ソクジンは動きを止めて優しく微笑んだ。

「みきえ?」
「うん」
「俺さ、前の彼女が忘れられない訳じゃないよ。自分に向き合うのが怖かっただけだ、多分。でも今日、みきえのこと聞いてすごく怖くなった。みきえと付き合ってみんなに冷やかされることよりも、おじさんに睨まれることよりも、みきえを失うことの方がずっと怖い…だからさ…みきえは、俺の近くに、ずっといろ」
「…うん」
「明日、頑張れよ」
「やだもう…私死ぬの?ジン君のせいで逆に怖くなっちゃったよ」
「やー、馬鹿なこと言うな」
「ふふふ、大丈夫。王子様とデートできるんだもん、何が何でも生きてやるわ」

翌日、手術が無事終わったとみきえの父から連絡があり、その後みきえからも電話があった。ソクジンはデートの計画を話し、みきえは嬉しそうに笑った。

何年ぶりだろうか。その日、ソクジンは真夜中に目覚めることもなく、朝までぐっすりと眠った。

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