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オーナーの愛①

「オーナー、みきえさんがいらしてます」

ランチ営業が終わる頃、ギャルソンは事務所にいたソクジンを呼んだ。店のフロントにダウンコートを着たみきえがいる。

「おう、どうした」
「ちょっと近くに予定があって、はいこれ」
「やー、これはー」

ソクジンの背後からテヒョンが覗く。

「もしかして、モツ煮ですか?」
「今日はテヒョン君の分もあるよ」
「わ〜、みきえさんのモツ煮、めちゃくちゃ大好きなんですよ」

みきえは頑丈そうな紙袋からタッパーをいくつか出してソクジンに見せる。

「あとね、これも、これも好きでしょ?ちゃんと食べてね」
「おう。いつもすまんな」
「うん」
「昼、食べたか?」
「何言ってるの。もう3時だよ」
「今からまかないなんだ。みきえも一緒に食べてけ」

まかないはビストロの個室で食べる。そこまで広い部屋ではないので、食べるときは大家族のお昼時みたいな風情である。今日はそこにみきえが参加した。満腹だと言う彼女に、シェフはお得意のクレームブリュレを用意した。

「みきえさんってオーナーの幼馴染なんですよね?小学校の同級生とかですか?」

ソクジンの隣で全員のまかないが用意されるのを手持ち無沙汰に待っているみきえにアツが話しかけた。男が多いこの職場において、会話を始めたり広げたり雰囲気づくりするのはいつもアツの仕事なのである。

「ううん、近所なだけで学校は違うの。近所の子供がボッサボサでヨレヨレのジャージ着て近くの学校行くのに、ジン君だけは短パンの制服にハイソックスみたいなカッコで私立通ってたの。私たちから見ればもう、王子様みたいなもんよ。顔もこの通り、昔から美少年だったから」

ソクジンは困ったように苦笑いしている。

「じゃあ、ご近所さんで家族ぐるみの付き合い、みたいな感じなんですね」
「そうね。まあ、そう言われてみるとジン君のご家族とはそんなに接点がないんだけど…うちにはよく、ご飯食べに来てたよね?」
「おう。夕方くらいにみきえの家からい〜い匂いがして来るんだ」
「ふふ。だからそのモツ煮込みも、ジン君のちっちゃい頃からの好物」

みきえは下町の女らしくハツラツとして、このビストロにも数回訪れただけなのにすでに全員と馴染んでいる。だから、彼女がこうしてたまにオーナーに惣菜を持って来ることについて、全員が彼女の世話好きな性格や気前の良さ故であろうと考えていた。

ソクジンはみきえを通りまで見送った。

「お父さんは元気か?」
「うん、おかげさまで。よくジン君の話してるよ」
「うわぁー、怖いなぁ」
「最近は朝の釣り、行ってない?父さんが気にしてた」
「うん、まあ、休みの日に気が乗れば行くくらいかな」
「そう、なら良かった…あ、いつか父さんの相手もしてあげて」
「おう」


午前3時。

真っ暗な寝室でソクジンは突然ぱちっと目を開けた。彼は毎日、真夜中に起きる。もう何年も前から、目覚ましも必要なしに、必ず、である。

このビストロを開店する前、彼は軽いうつ病を患っていた。

大手商社に勤めて2年目の冬、彼は大学時代からずっと付き合っていた彼女を亡くした。突然の事故だった。しかも彼はその時仕事で海外におり、やっとの思いで日本に帰って来た時には愛する人はすでに灰になっていた。

彼女の実家は北海道の積丹町という小さな町にあった。新千歳からJRで小樽まで行き、そこから2時間もの間バスに揺られ、やっと着いた時にはすっかり日が暮れていた。普通の革靴で来てしまったソクジンは街灯の少ない暗い雪道をずぼずぼ埋まりながら歩いた。

彼女の家族はソクジンという恋人の存在を知らなかった。

「あの子、私たちにはなんにも話してくれなかったけど、東京で幸せな思い出ちゃんと作ってたんだね…」
「うちの娘は小さい時から賢くて、この辺じゃ神童って呼ばれてたんだ。ちょっときかないとこもあったけど人懐っこくてめんこかったから人気あったんだよ」

悲しみに暮れていた家族は大切な娘にソクジンのような恋人がいたことを喜び、ここにいない娘の自慢話をした。それを聞きながら、彼はやるせない気持ちになった。なぜなら、彼女が家族を一番喜ばせるはずの結婚話をできなかった、その理由が自分にあるからだ。

大学時代に付き合い始めた頃から、彼は彼女との結婚を望んだ。しかし、家族の猛反対にあった。彼の実家は名家で、単純に、北海道の田舎出身の彼女を気に入らなかったのである。

帰りは彼女の兄が札幌駅まで送ってくれた。

「まだ若いんだから、妹のことは忘れて東京で頑張ってください」

彼女の兄のその言葉を頭では理解できたが、彼の体は言うことを聞かなかった。眠れない日々が続き、入眠剤を飲むようになって症状が少し改善すると、今度は早朝に目が覚めるようになった。

仕事を続けながら自分の鬱症状に悩む日々をニ年ほど経て、最終的に彼を救ったのはみきえの父親であった。

東京の下町で飲み屋を営むみきえの父は、朝早く目覚めてしまうというソクジンを釣りに連れて行った。海に向かって竿を投げるだけで、あとは動かず、静かに、無心で、待つ。そして魚が釣れた時の、あの一瞬の高揚感。夜明けの一番最初の陽の光を全身に浴びることも、適度な疲労を得ることも、彼の心身に良い影響を与えた。

少しずつ生活を楽しめる気持ちが戻ってきた頃、ソクジンは会社を辞め、ビストロを開業しようと決意した。彼の状態を理解していた家族は、不満な顔は見せたものの反対はしなかった。


今日は久しぶりにみきえの父と釣りへ来た。みきえが店にやって来た数日後にお誘いの連絡があったのだ。みきえの父は所謂下町の頑固おやじみたいなタイプだが、彼にとっては本当の父親よりも父親のような存在である。余計な話をしないところも、居心地が良く、好きだった。

「最近は朝釣りやってないって、みきえから聞いたが」
「はい。魚を仕入れる仕事があるので…」
「じゃあ結局朝は早く起きてるのか」
「はい」
「うむ…」
「でも大丈夫ですから、心配しないでください」

みきえの父は何か言いたげだったが、それ以上は話を続けなかった。

「今日はうちの店寄ってけ。釣った魚、一緒に食おう」

帰り道に寄った日帰り温泉でみきえの父にそう誘われ、彼は久しぶりに生まれ育った下町にやって来た。

昼から新鮮な刺身をつまみに酒を飲む。酔いも回っていい気分になった頃に店にみきえが現れた。

「あら、ジン君、来てたの」
「おー、みきえ」
「やだ、ふたりとも酔っ払ってる?」

みきえは食材の入った大きな袋を2つ厨房に置き、エプロンをかけてふたりが食べ終えた食器を取りに来た。

「やだ、ちょっと父さん、凄い酔っ払ってるじゃない。もぅ、あっちの部屋で寝て来て。あとは私がやっておくから」

ソクジンはみきえの父親を奥の個室に運んだ。並べた座布団に横たわりすぐにいびきをかきはじめた父親を見て、みきえは呆れ顔だ。

「まったく。飲み屋の主人の癖にお酒に弱いんだから」

焼酎と酒の肴はまだ少し残っている。ソクジンは元の席についた。

「今日はもう予定ないの?」
「うん、帰るだけだな」
「どうだった?久々の釣り」
「やっぱりいいな、釣りは…まあ、そんなに釣れなかったけど」
「ふふ、そうなのね。あ、ゆっくりしてってね」

静かな店内にトントントンと耳に優しい包丁の音が響いている。ビストロでは木のまな板を使わないので、この音を聞くのは久しぶりだ。最後にこの音を聞いたのはいつだろう、と記憶を探ると、死んだ恋人の後ろ姿が瞼に浮かんだ。

大学時代、彼女はボロアパートに住んでいて、ソクジンはその狭い部屋に入り浸っていた。家にあるものを何でも100均で買い揃えていた彼女の部屋には不釣り合いな分厚い檜のまな板。上京する時に母親に貰ったのだと、彼女は大切に手入れして使っていた。

静かに厨房に入っていくと、料理するみきえの後ろ姿が見える。

「わっ!びっくりした!」
「おぅ、ごめん」
「どうかした?」
「いや、何作ってんのかなーと思って」
「なんもよ。キャベツ千切りしてるだけ」

そう言って、みきえはまた作業に戻った。

「この間の惣菜、なんか、新しいものが入ってただろ」
「うん、どうだった?」
「めちゃくちゃ旨かったよ、あれ」
「へへへ。私の新作メニュー」
「あれは、流行るよ。みきえ、もうこの店継ぐことにしたのか?」
「そうね。会社勤めよりこっちの方が性に合ってるみたい」
「結婚は?」
「何よ、そんなこと聞いて」
「いや、まあ、この辺で結婚してないの、みきえくらいだろ?」
「…痛っ」

みきえの指からじんわりと血が滲んでいる。ソクジンは咄嗟に彼女の手を取り、血を水で洗い流し、絆創膏はどこかと尋ねた。

「もう、大袈裟なんだから」

みきえが奥から薬箱を取り出すと、ソクジンは無言でそれを奪い、みきえの指に優しく絆創膏を巻きつけた。

「ジン君は?結婚しないの?」
「俺は…しないな」
「まだ忘れられない?」

一瞬でソクジンの表情が曇ったので、みきえは明るい声を出した。

「ごめんごめん、変なこと言っちゃった。これだから結婚できないのよ、私は」
「いや…感謝してるんだ、みきえにも、おじさんにも」
「家族みたいなものだから。私たちにとって、ジン君は」

目をまっすぐに見つめて優しく微笑むみきえの口角に、ソクジンは思わずキスをした。みきえは目をまん丸に見開たまま動かない。

一度離れた二人は一瞬見つめ合った後、また吸い寄せられるように唇を重ねた。この衝動はどこから来たものなのか。一瞬だけ、自分を見つめる背の低いみきえが死んだ恋人に見えたからかもしれない。昔を思い出して寂しさが募ったからかもしれない。単純に酒のせいかもしれない。そんな風に発作的な行動をとったことに罪悪感を覚えながらも、みきえに拒むそぶりがないとわかるとソクジンもこの甘い行為に溺れた。

(次回に続く)

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