(不安障害の)労働の日々
労働の日々は過ぎてゆく。
今年は去年より寒いと、ラジオで言っていた。
けれども、今通っている仕事場は、がんがんに暖房が効いており、通勤のために厚着をして行くと、少し汗ばむくらいだ。
昨年の今頃は、暖房も何もないところで、せっせと1人で掃除の仕事をしていた。
朝2時間ばかりだったけれども、雑居ビルの5階から地下一階まで、順序よく掃除をこなしてゆくのは、好きだった。
あのときは、誰とも関わらなかったから、のびのびと働いていたと思える。
誰かの目がなければ、ひとりで効率を考えて、様々に工夫をするのは、全く苦じゃない。だから、1人で、こんな風にしたら早いかも、早くてきれいにできるかも、ここもやったほうがいいかも、とか、何だかんだやっていた。
ラジオを聞きながら仕事できるのも、良かった。ラジオだったり、音楽を聴きながら、手順を無言のうちに組み立てて、反芻し、からだを動かす。すると、動いた分だけ、きれいになる。
たいして広くない雑居ビルだったし、ゴミの量もたかが知れていたから、何の苦痛もなかったんだろうと、思う。
今日は、職場に、外部の方がたくさんいらした。
わたしは全く応対しなかったのに、ずっとバックヤードにいたというのに、始終なぜか緊張しており、どうしようどうしようと、昼休みにはおろおろした。
どうもこうもなく、わたしは何もしなくていいよ、と言われているのに、人がたくさん出入りしていて、身の置き場がないことが、どうも、不安だったみたいだ。
おこられる、と思ってた。
誰に、かは、わからない。
応対していないのだから、もちろん怒られるわけもなく、誰とも顔を合わさずに、家路に着いた。
そして熱いお湯を浴びて、髪を乾かして、ソファに寝そべっている。
帰り、コンビニで一服していたら、野良猫が降りてきた。高い塀の上から降りてきたわりに、ずんぐりむっくりしていて、首輪はなかったけれど、野良というよりは、家と外を気ままに出入りしているタイプの猫に思えた。
たばこを吸いながら、じっ、と猫を見つめた。
猫もこちらをじっ、と見つめながら、ぎゅう、と丸くなっていた。
わたしが居るからそこから動かないのか、元々そこが定位置なのか、それ以上どこかへ行く様子もなく、たまに風に揺れる葉に驚いては、空を見遣り、また、丸くなっていた。
地べたは寒かろうよ、はやくおうちへお帰り、と、目線で伝えて、その場を離れた。
あの猫は、いま、暖かい場所に居るだろうか。
わたしはいま、怒られることなんてなんにもないよ、怖かったね、でももう大丈夫だよ、と、自分に伝えているところ。
ぎゅう、とかたく縮こまった自分に、暖かいところに居るからもう大丈夫だよと、伝えている。
投げ銭?みたいなことなのかな? お金をこの池になげると、わたしがちょっとおいしい牛乳を飲めます。ありがたーい