「体育」からの真なる解放

 私は運動がすごく苦手で、体力もなくて、やる気もなくて、だから体育の授業がすごく嫌いでした。物心ついたときからずっと運動への苦手意識は払拭できず、劣等感を確かに感じていたのです。
 今でも苦手ですし、できればやりたくありませんが、できないことに対する過度な悔しさというか劣等感というか、そういうのから解き放たれました。

 きっかけになったのは、研究室対抗の野球大会です。
 私は、チームプレイの球技で壊滅的に運動ができない「女(ここでの女は、保護されるべき対象なので面白に昇華すらできないという文脈です)」が、いかに腫れ物扱いされるかを重々承知しておりましたので、できれば参加したくありませんでした。でも、そういったイベントに一番下っ端の私が参加しないのもまた違うので、やむを得ず出ることにしました。
 野球大会までの間、先輩たちはたまに研究の合間にキャッチボールをしていました。私のことも誘ってくれたのですが、キャッチボールは片方が投げたり捕ったりできない場合、ドッチボールに変わってしまいますので、
「キャッチボールきらいです」
とかなんとか言って断っていました。そしてなんでそんな言い方をしてしまったのだろうと反省する毎日でありました。
 
 そんな中、野球大会に向けて、一度だけ研究室の学生みんなで練習をする日がありました。大学のグラウンドを借りて、キャッチボールしたり玉を打ったりするものでした。
 そこで、研究室の先輩であり、私と同じくらい運動が苦手な先輩が、一生懸命頑張っているのを見ました。先輩はいっぱい練習して、苦手なことでも頑張っているから、私より上手かったです。
 私は、ここなら出来なくても受け入れてくれるのだと実感しました。やるだけやってみようと思いました。今まで、動きがキモいとか頑張ってるのに下手くそとか思われるのが嫌で、頑張ることを放棄していましたが、それは「逃げ」でした。傷つくことを恐れては何も得られなかったのです。

 そうして迎えた野球大会ですが、結果として私はなんの役にも立ちませんでした。フライでは走っちゃ駄目らしいのに全力で走ってしまいましたし、全然玉をキャッチできませんでした。
 でも、それでいいと思いました。先輩たちは、上手くなったねと言ってくれました。私は結局役立たずに変わりはありませんでしたが、つまらなさそうにしていて協力的でないクズから、まだやる気のあるクズになれたのです。
 私は、運動したあとの清々しさというものを初めて味わいました。結果より過程が大事なのです。ジョジョはいろんなことを教えてくれます。

 やはり何事もちょっと無理して頑張ったら、その結果がどうであれ、回避してなにもしないよりもいい気分になれますね。私はそれに気づくのがすごく遅かったけれど、気づけてよかったです。
  

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