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人生はおわらなきゃ頑張れない

死ぬのが怖かった。

死ぬって、

今、当たり前のように視界に入るカフェの光景や
外の色がすべて夢物語のようにまっさらになる。

大切な人たちともう二度と話せなくなる。

とにかく怖い。

そういうものだと思ってた。

でも今はその感覚が過去形になりつつある。
去年までは当たり前に死ぬのが怖かった気がする。
だけど今はなんだかぜんぜん怖くない。

理由は、頑張らなきゃいけないようなことも
するようになったからだ。

いつか死ぬから頑張れる。
人生が終わらないなら、死なないのなら、
私はこの水準では生きないだろう。

仕事も速攻やめてごろごろして、お金がなくなって
住む家も無くなったらホームレスになるだろう。

頑張るってのは重い腰を持ち上げてよっこらしょって
ことだから、一生永遠によっこらしょは無理なのだ。

今だけだから、ライフステージに向けてここまでには
こうなりたいって気持ちがあるから頑張れるのだ。

一生死なないのならライフステージもくそもない。
何ステージ創造させるつもりだろうか。

最初は頑張れたとしても、社会からの目も
モチベーションもたぶん人生75年目あたりで
どうでも良くなると思う。

そしてホームレスになって、何もかも諦めた解放感に
一時天国気分を味わうが、たぶん人生135年目あたりで
自由にも繰り返される三大欲求にもうんざりして、

「生きるの飽きたなー」

って真顔で言うと思う。

話が逸れたが、私がいま社会の目からの
自己ブランディング(働く)ができているのも、
夢があるのも、やりたくないことをやるのも
全部最後は死ぬからである。

この考えに及ぶ前は、ぐーたらすることもあったが
もちろん頑張っていた時期もあった。
けれど、生きることに少し力が入っていた気がする。

力が入っていて、外が見えてなかった。
何も知らないから怖かった。

今ももちろん知らないことはたくさんある。
だけど社会の中での自分の心の置き場所が見えてきて
すこーし生きることへの力が抜けて、
すこーし外を俯瞰できるようになって、

あ〜生命体がたくさんいるだけなのに
建物があって雰囲気がつくられてすごいなあって
なんか心がふわふわするようになった。

心がふわふわすると生への執着も
ふんわりするようになった。

心がふんわりして
コンスタントに頑張りが必要になる時間がある
イコール、死を受け入れられる、
いや、死を必要とするのだなと
計算式が私の中で生まれる。

この話をしていると
よく「死なないでね!?」と心配される。

大丈夫です、ぜんぜんそんな発想はうまれてません。
90近くまでは生きていたいし、
痛いのも苦しいのも嫌いです。

老いも厄介そうだから、
できればこのままの体で90歳になりたいけど。

ただ、生物が抗えない「死」に対する恐怖が
ゆるくなって、
頭の中がにょんにょんするようになりました。
というおはなし。

ついでにいつか死ぬならどうせ死ぬなら、
そこまでの数十年間の待ち時間ひまだから
ちょっとこだわってみるか。
というおはなし。

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