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実は敵なんてどこにもいなかった

世の中はあらゆることが競争原理で動いている。仕方がないよね、僕ら自身も生まれる過程すら淘汰の上でここにいるんだから。

そして、幼少期からの教育の過程でも自然と競争は織り込まれている。かけっこも、球技も、勉強のテストも、身長や容姿だって採点してるし採点されている。

これはもう、競争ってのが最初からインストールされちゃってる機能だからね、ほっておけばすぐに競いはじめちゃうようにできているんだと思う。


SNSでもやっぱり数が目に見えちゃうから、どうしても自然と競争の土台に上がらざるおえない。

同じジャンル、同じ属性でより目立つ人がいれば後発は不利ってのも事実だしね。

仕事だってそう。コンペの勝者は1社だし、僕が外された仕事は誰かが受けてて、誰かが無理だった仕事が僕のところに来たりする。

そう思うと、なるべく負けずに勝ち続けなきゃいけない、敵は全て滅ぼさなければいけない、っていう極端な思考に少し振れちゃうのもわかる気はする。


殲滅した先にあるもの

さて、じゃあ勝ち続けて、敵をすべて滅したら、安寧なくらしが待っているのだろうか?

たとえば、近隣の同業ライバル会社がすべてなくなったとして、さらに隣町のライバル会社も潰して回って、自分のところだけがオンリーワンになったら?

たしかに、もう嫉妬する対象も、競い合う相手もいなくなるのかもしれない。でも、それってLvをカンストさせたRPGみたいに、やることのないつまらない世界になっちゃう気がする。

殲滅し続けた先の焼け野原には、もう何も残らない。


実は敵なんていない

要するに、実は敵なんていないんだ。仮想敵って言ったりするけれど、あるのはイメージだけなんだろうな。

ライバルとか、ベンチマークとか、あぁいうのは一種の遊び相手なんだよね。

遊び相手がいなくなったら、待っているのは退屈と孤独。

だから、一緒に遊ぶって感覚が本当は大事なんじゃないだろうか?

同じ業界の同業他社も、利害関係で競うことになる相手も、その相手がいるからこそ遊べる場所が維持されていたりする。

ここら辺は、先日ちょっと話した「愛されること、許されることこそ、役立つこととは差別化した生存戦略」とも近いね。


とはいえ...

ついついそう言う事を忘れて「敵はすべて滅ぼさねばならないっ!!!」ってなっちゃうのも、また人間っぽいけどなぁ。

ようちえんで友達とケンカをしてお互い泣いて、その5分後には仲良くなってまた遊んでいる娘たちを見て、そんな事を思った。

敵って実は遊び相手なんじゃない?
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