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外見コンプレックスの私、ボディコンテストに出るってよ2

幼少期から外見コンプレックスをこじらせまくっていた私が、ボディコンテストに出ると決めるまでをまとめています。前回は、「コンプレックスを持っている自分」にいい加減に嫌気がさしてきた、という話を書きました↓


見えてきた「外見コンプレックス」の役割

みんなに、外見コンプレックスを持ち続けることの利点を聞いて冷静さを取り戻した私。今がチャンス!とばかりに、「私が外見コンプレックスから得ているものは?」をテーマにセルフコーチングを行った。

そして、そこから出てきた私の答え。それは、

「傘としての役割」

だった。

天気は外界の事象のメタファーで、降り注ぐ雨は他者からの視線や言葉。傘は雨に打たれないために必要で、外界から自分を隠してくれるアイテムでもある。

これまでの私にとっての外見コンプレックスは、手放さなきゃいけないものではなく「必要な時に使いたいもの」だったみたいだ。

そりゃ、いつまでも乗り越えられないわけだよ。苦笑

で、全てのコーチングセッションの1番のポイントは行動を変える部分にある。"実行可能な"アクションを決めて、その後実際それをやってみるのだ。

(コーチングは自己実現のための一手法であって、悩み事の原因解明はゴールではない。「そうだったのかー」で終わって何もしなければ、一瞬心が軽くなったように感じるかもしれないが、実際は何も変わらない。しばらくして結局同じところでグルグルすることになる)

このセッションで導き出された私のアクションは

「外見コンプレックス=傘だとした時に、何(どんな雨)から身を守っているのか考える」

というものだった。

1つ前の記事で書いたとおり、私は友人たちからいただいた意見を、1つ1つ自分のシチュエーションに照らし合わせながらまとめる作業を行った。

「外見コンプレックスを持ち続けることの利点を教えて!」という投稿に、100件近くコメントの応酬があった

「1つのコメントごとに自分を改めて観察する」を何度も繰り返したから、「外見コンプレックス=傘だとした時に、何(どんな雨)から身を守っているのか考える」のは存外簡単だった。

さて、何から身を守っていたのか?

私は昔、当時の「世界のルール」であった、”5つ上の姉”にバカにされることが一番嫌だった。

その姉は自分のことを可愛いと言って憚らないタイプで、今も昔も姉と私は全く似ていない。そして、姉は昔から人をからかうのが大好きだった。

姉は"自分は可愛い"という話とセットで、可愛い自分と真逆の素材を持つ洋香(ヒロカは私の本名です)は可愛くないという話をよくしていた。ブスとか目つき悪いとか顔色悪いとか声が低いとか老けてるとか…パターンはめちゃくちゃ色々あるけど、意図としては「可愛いらしい私」と「可愛くないあなた」の構図だ。

補足しておくと、姉の顔の造作は確かに可愛いが、別に絶世の美女ではない。単に昔から自己受容度が異様に高い上に、単純に人をからかうのが好きなだけなのだと思う。(基本的には妹に甘い、いい姉である)

それで私は、そういう経験の積み重ねが自分の「外見コンプレックス」のきっかけになっていることを、これまでも自覚はしていた。けれど、今回の「助けて!」という投稿からセルフコーチングまでの流れでは、新たなポイントがわかってきた。

私はずっと、私にマウントとってくる(ように私が感じる)人に対して

「わかってる、わかってる。私がそれほど優秀じゃないことは自分でもわかってるよ。あなたが見てるその世界、私もちゃんと理解してる。私はバカじゃない(だから私とあなたは対等)」

というようなことを思っていたということ。

そのための、わかりやすくて使い勝手のいいツールが「外見コンプレックス」だったということだ。

ある程度乗り越えたと思っていた外見コンプレックスが、写真を見たことで急にぶり返して爆発したのは、姉にあーだこーだ言われるタイミングも、写真を見ながらであることが多かったからだということに思い至った。

私の横にはもう、私をブサイクと呼び、私をバカにして笑う人はいないのに(姉は生きている(笑)が、あの頃のような節操のないからかいは今はない)、私は「どうしても自分が綺麗だとは思えない」と発言することで

(あなたが感じている「こいつブサイクやな」という気持ち、私はちゃんとわかってるよ!)

というアピールをやり続けていたことになる。

長年培った癖と、条件反射。世界への信頼のなさ…

これが、私の外見コンプレックスの根底にあったものだ。

気づきは得た。で、どうする?

そして、ここに気づいただけでは今までと同じ”不要なパターン”(だから私は〇〇なんだ…)を強化するだけなのだが、今回はその続きがある。

私がこうやって自己防衛してるのにも関わらず、自分でもしんどくなるくらい苦しんでる本当の理由だ。

それは…

私の一番深い部分は自分を可愛く思っているし、美しいと感じているのに、表層の私が、他者に「自分はバカじゃない」とアピールしたいがために自分を否定し続けているというところにある。

これって言ってみれば

自分(感じるままの心)より、自分じゃないもの(バカにされるという痛みから逃れること)を優先してしまっている状態だ。

本来は、どんなにマウントを取られても、他人に自分が大事にしている何かを否定されても、「え、マウント?ハイハイ」といなすことができれば特に問題ないはずで。

心の苦しさは、”他者の言動”に左右されているのではなく、”自分がどういう状態か”にかかっている、ということである。

(実際バカにされた時、自分の内側が「バカにされたくない」を最優先事項としているか、”バカにされても”「自分は美しさを享受していい」と思っているかによって心が苦しかったり苦しくなかったりする)

少なくとも今までの私は、世界のルールである「お姉ちゃん」に認められたい一心で、自分を可愛いと思い、美しいと感じる心、それらを享受する価値のある自分を檻の中に入れ続けていたことになる。

あぁ。それがわかったら、これからは自分の「外見コンプレックス」に対処できる気がするのだ。不要なタイミングで傘を開いている自分に気づいたら、畳んであげればいいのだから。

ここへきて、私は初めてフラットな場所に立てた。視界がクリアになって、自分がいる世界が真っ直ぐ見えるようになったのだ。

そうなったら、抽象的なまま(メタファー)で終わらせてもしょうがない。改めて、自分が撮影後の納品データを見てコンプレックスを大爆発させた流れを振り返り、いくつか気になった点をまとめてみることにした。

1つ目、外見コンプレックスは自分の写真を見た時に発動する。

鏡に関しては克服しつつあるのと、先述のように写真を見ながら揶揄されることが多かったからだと思われる。

2つ目、良きも悪きもとりあえず「撮ったやつ全部共有するね!」スタイルで大量の写真を共有されると発動する。

友達と食事をした際に店員さんに撮ってもらう2〜3枚の写真で過剰反応したことはないけど(撮らなくてもいいとは思っていたけど)、長い時間カメラに意識を向け続ける必要のある撮影会や、逆にいつの間にか撮られていたイベントなどの写真には愕然としてしまう。

3つ目、自撮りへの抵抗は前ほどないが、他撮りの時のオドオド感がすごい。

怖いのか諦めてるのか、撮ってもらった写真をその場で確認できない。確認できたら「もっとこうして」とか「もう1回撮って」とか言えるだろうに…(現に同じ撮影会に参加していた撮られ慣れている友人Tは、その場でごく自然に自分の撮影データを見せてもらい、写りを修正していた。)

こうやって書き出してみると、単純に撮られ慣れていないことが心理に大きく影響している気がする。「どうしたらいいかわからない」から被写体として上手に写れない(魅せ方をわかっていない)というのがありそうだった。

あと、そもそも身体が丸くなっていたり顎周りがもたついたりしてることは(外見コンプレックス以前の問題で)自分のイメージより劣化している自分を見ることを嫌だと感じてしまう。

今まで写真を避けてきたのだから撮られ慣れているはずがない。それなら撮られ慣れるしかない(めちゃくちゃ嫌だけど)

そして、余計な脂肪は、なくす努力をするしかない(面倒だしそれも嫌だけど)

そう思った。

何かを変えたいなら、普通にできることやる。なんだかんだ、それしかないのだ。そうして私は、しばらく修行することにしたのである。

ボディメイクする
できる限り撮影会に参加する

幻滅しない体を手に入れる
撮られ慣れる

いい感じに写れる自分を体感する

ここまでいけたら、なんか違うこと見えてくるでしょ、と思った。思考と考察がある程度片付いたら、グダグダしててもしょうがない。次は仮説の検証である。

そして、ここで初めて

「私の審美眼舐めんなよ」

だって登場できるってものだ。笑

続く

アーティストがその感性を磨くがごとく、自分の輪郭を顕に生きることに情熱かけてます。共に自分を生きようぞ