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外見コンプレックスの私、ボディコンテストに出るってよ1

私、外見コンプレックスなんです

あなたは、自分のことが好きだろうか?
好きだという人、一部ではなく全面的に?

反対に、何かにコンプレックスを持っている人はどれくらいいるのだろうか?

私は、自分とちゃんと向き合うようになった今、昔に比べて自分のことは好きだし大事に思うけど、自分の「見た目」は”まだ”好きになれない…

今年の1月、友人が主催する撮影会に行ってきた。主に、自分でビジネスをしていたり発信したりしている人たちが、ホームページやSNSのアイコンに使う素材を撮るような撮影会だ。

私がこの撮影会に参加しようと思ったきっかけは、「今年は例年より早めに恋活をスタートする予定」だったからで(笑)撮ってもらった写真をアプリのプロフィールに使おうと思ってのことだ。

(なぜか毎年4月5月の暖かくなる頃から秋にかけて恋活を続けて今年で4年目。もしかして、虫なのかな?笑)

カメラマン2人に、参加者のスマホ数台で「何台カメラあるの?」っていう、超豪華マルチアングル撮影会だったこともあって、翌日には一部の写真が早々に関係者に公開された。

代々木のすごく素敵なリノベマンションを会場にした撮影会のロケーションは最高で、雰囲気もあって天気も良くて…

何もかもベストなコンディションだったはずなんだけど。

はずなんだけど。。

やっぱり自分の写真にはネガティブな感情が渦巻いて渦巻いて、気持ちが上がらず、むしろイヤ〜な感情がゾワゾワしてきてしまう。

もちろん、カメラマンの腕やライティングの問題ではないし、メイクも、プロデューサーの腕も間違いない。一緒に撮影したメンバーの写真はすごく素敵だと思えたから、私の目が世界の全てをブサイクだと捉えているわけでもなさそうだ。

それなのに。

それなのに、どうしても、自分の写真を見るのがツラい。苦しい。

これは、どう考えても私の思考が「私をステキだと思うこと」を拒否してるんだと思った。

(私は、何をそんなにこだわってるんだろう?)

だんだん、「どうしても自分を認めたくない」と思っている自分にイライラしてくる…

その時、私が考えた「なぜ私はいつまでも自分の外見を否定し続けるのか」という理由は2つあった。

1つは、「私の審美眼舐めんなよ」。

私は「美しいもの」(この場合たぶん、感性に訴えるようようなアートとしての美しさではなく、黄金比にみるような普遍的なデザインの美しさ)を捉える心の目を持っている。それが、この程度のもの(私)を美しいと認めてしまってはお話にならない。だから、私はこれ(私)を美しいとは認めないという説。

もう1つは、「いつまでも可哀想な自分でいたい」だ。

幼少期の傷か何か知らないけど、「可愛いあの人」と「ブサイクな私」の構図を潜在意識が手放したくない説。「ブサイクな私」を言い訳にすればナニカと向き合わずに済むのかもしれないけど、こっち(意識下の私)はしんどいだけなので、もしそうだとしたら、そこにしがみつくのはいい加減やめて欲しい。

で、だ。

こういうよくわからない2択はあまりアテにならない。笑(友人に「〇〇するか、もしくは〇〇か、どうしたらいいと思う?」とはじめから2択で相談される時、解決策は大体そのどちらでもない)

ツラい苦しい世界にいる時は、その時見えている以外の選択肢が見えてこない。

だから、私は友人に助けを求めた。

しかも、特別仲のいい”あの子”と”あの子”、ではない。

100人からなる「友人グループ」に投稿したのだ。

どうしても「自分をステキだと認識できない(というかもはや「したくない」)」時、その人がそうすることで得られているものってなんだと思う?
私の場合じゃなくて、一般的に考えられることでも全然OKなので、もし何か思い浮かんだら暇つぶし程度でもコメントもらえると嬉しいです。
いい加減、こういう自分を変えたいです。
※ステキだと思える写真もあることはある
※ステキだと思える人の視点で自分を見てあげたい(切実)

Facebookグループの投稿より

案の定、出した2択は本質をついていなかった…

その投稿には、なんとも頼もしいことに100件以上のコメントがついた。

私と同じように外見コンプレックスを抱いている人もいれば、乗り越えたよ!という人もいるし、外見てそこまで大事かな?って感じのスタンスの人もいて、狭い自分の思考から抜け出すにはもってこいの多様性だ。

そもそも自分の顔が好みじゃない。でもその「好み」自体は世間の評価も影響しているかも…という意見
自分は”こっち側”だと境界線を作ることで努力しなくて済む…という意見。「努力してないわけじゃない!」と言い張りたい心!笑 めちゃくちゃ美人で美意識も高い友人Cからは「追求する過程が楽しいからそれでいい」とのコメントも付いたけど、私みたいに現実が変化してない人は変化しない努力をしている(努力の方向性間違えてる)可能性が高い。 
実際に外見コンプレックスを解消した友人ゆかよしからの貴重なコメント。コンプレックス=好きになりたいところ、という前提。確かに「どっちでもいい」ことにコンプレックスは抱かないよね
何かうまくいかないことがあった時にコンプレックスのせいにできる…という意見。本当の理由に向き合わずに済むという甘い蜜。。
コンプレックス以前に、人は自分には特別厳しいらしい…ということ。覚えておきたい
劣等感が生まれるのはより高いものを知っているから、という前向きな意見
上と同じで才能あるところにコンプレックスあり…という意見。また、プロカメラマンであるこの友人Uからは「見たことのない角度」に拒否反応を示す人が多いという、超有益な情報も!!
自分を客観的に見て、どう活かすかを考えればいい…という意見。そして大事なのは、「ブスに写った写真は消去する」ってこと笑

それぞれのコメント(をくれたみんな)のお陰で、自分の枠を超えてありとあらゆる角度から自分の外見コンプレックスを検証できた。(ありがとう…!)こんな風に人から意見をもらい概念を発散(ブレスト)させたことが、本当に大事なステップだったと思う。

「コンプレックス」を持ち続けることの利点

私は、みんなの意見をまとめてみた。

似ている意見はまとめ、近しい意見は近しい距離に書き込んでいく。

雑な字で申し訳ないが、このページは私にとってもはや宝物である
  • ポテンシャルがあることはわかっているのに表現できてないまたは認められない

    • 表現できていない場合は「私の審美眼なめんなよ」「求めるレベルが高すぎる」「好みじゃない」という感じになる。その場合、自分を高めるためのモチベーションになることも

    • 認められていない場合は”自分じゃないもの”、他者、地域、年代(流行り)など世間が基準になっているため基本、減点方式になる

  • 何かしらの「美人になりたくない」理由がある

    • 美人は虐められる、嫌われる、性格が悪いというイメージがあるなど

    • 外見の他に評価されたい部分がある

    • 何かが手に入らなくても「ブスだから」という言い訳が使える

  • いつまでも「可哀想な自分」でいたい

    • コンプレックス持ちの”弱い存在”(殊勝さ)アピールができる

    • 「そんなことないよ!」と周りの人に構ってもらえる

    • 「こんな私でごめんなさい。だから責めないで」という防衛策

  • 思考のクセ

    • そもそも人は自分に対して評価が低くなりがち

    • セルフイメージは心身の健康に左右されるため、体調が悪かったりメンタルが不安定だと自己評価が下がってしまう

うん。ここまで網羅されるとなんかもはや、気軽に「私、外見コンプレックスがあるんですぅ」とは言いがたい雰囲気がある笑

もらった意見を客観的に検証するためには、一度外見コンプレックスのネガティブな感情から抜け出し、フラットになる必要があった。そのため、この作業で私はとても冷静になれた。

ある程度の冷静さを取り戻した私は、自分の本音と向き合う準備ができたので

「外見コンプレックスで私が得られているものは何か?」

というテーマで、セルフコーチングをしてみることにした。

セルフコーチングにもいろいろなやり方があるが、今回私はカードを使ったストーリーコーチングという手法をやってみる。

通常の内省だとなかなか自分の思考の枠から抜け出せず、思い悩んでいることほど客観性が保てず精度が下がったりする。なぜなら、悩んだり迷ったり、心が動揺してる時ってそもそも自分の本音に耳を傾ける余裕がないからだ。

そうなると、人は現実を見ることを避けてしまいがち。(”理想”に走りすぎるとかね)…だけど、現実を変えたいなら、まずはしっかり現状を把握して、ダメな部分を受け入れる必要があるのだ。

そういう意味でコーチングは、自分の思考の枠から抜け出しやすい=新たな視点に気づきやすい、とてもいい方法だ。(自分に正直にならなければいくらでも歪められるので、あくまで気づき"やすい"というだけだけど)

そして、今回の私の場合、みんなに意見をもらっていたおかげで、既に(耳を塞ぎたくなるような笑)新たな視点を得まくっており「思いがけないこと」への耐性と、気づきを得ることに対する心の準備ができていた…!!

続く

補足

コメントスクショに出てくる「事実と妄想の区別がつかない」という記事はこちら↓

感覚派の方は、相対的に【現代文】が苦手な場合が多い。って書いてあるけど、私は現国が一番得意だった。文脈を読むのが得意なので主人公や作者の言いたいことはよくわかる。

だけど、自分の心の中に流れるストーリー(自分が体験していることへの解釈)が全般的にネガティブ寄りだなと気づいたのは、だいぶ大人になってからだ。人のことはわかるのに、自分に関しては客観性を失ってしまう…そういう気質なのだ。

そういう特性が、ここでいう「妄想」の部類に入るのだろう。

ちなみに、自撮りをしまくって自分の見た目と和解したという友人吉田ゆかり(ゆかよし)は、子ども向けの学習塾の運営やママさん向けの講座、個人向けのビジネス講座などを開催している。

いつもめちゃくちゃ人気で募集前に埋まっているので(口コミの方が早いらしい)、興味がある人はこちらをチェックしてほしい。


アーティストがその感性を磨くがごとく、自分の輪郭を顕に生きることに情熱かけてます。共に自分を生きようぞ