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生産を洗って観る。

あと、締め切りまで2日である。そして、まだ、その締め切り原稿が出来ていない。毎回、早めに原稿に取り掛かろうと思うのだが、動画を撮るから、その時のことを書こうとか、あのイベントがあるから、その時のことを書こうとか、ついつい、先延ばしになってしまう。文章を書いている人は、少なからず経験することではないだろうか。

そんな思いで、先送りしてきたものの、書きたいと思うような印象に残ることがないと、一行目がなかなか決まらない。書きたい内容が予め決まっていても、実際に書きたい気持ちが起こらないと、進められないのだ。自分の場合は。

昔から、優柔不断な所があると自己分析しているが、それは優柔不断ではなくて、ギリギリまで考えたいという衝動なんだと自己肯定している。書くことが決まってしまえば、実際に書き上げるのは一日で出来る。小説を書くわけではなく、専門的なコラムであれば、2000文字にも満たない。書くことが決まって、こんな風に書いていこうとなれば、話は早いのだけれど、そういう所まで行くまで、いつもぐずぐずしてしまう。

AB型の蟹座はみんなそうだと思う。

さっさと締め切り前の原稿を書け。と思っている人も多いかと思うが、今、このコラムを書きながら、締め切り前の原稿を何にしようか。自問自答しながら、同時進行しながら、考えてはいるのですよ。

でも、ただただ、黙って、「何にしようか?」「どんな風に書こうか?」と何も進まないまま、時間が過ぎていくよりも、ここのコラムを書きながら、推敲していた方が、何かを生産している分効率的ではないかと思った。万が一書くことが決まらなくても、このコラムは完成する(予定)のだから。

気分が乗るというモチベーションを僕はとても大切にしているということだ。

さだまさしの歌の中で、「恋愛症候群」という歌があるが、血液型のタイプ別に恋愛シュミレーションが展開される名曲であるが、AB型以外の血液型は実に面白おかしく歌詞になっているが、AB型は「今日と明日では自分自身に意見が分かれて、熱しやすく冷めやすいAB型」と愛嬌もくそもない。A型のさだまさしはきっと、AB型の人にあまり良い思い出がないに違いない(笑)

別に血液型について書こうとしているわけではない。調子に乗って、さだまさしを調べ出して、夢中になり、余計な時間を使ってしまった。これは全く生産的ではなく、実に余計な事だ。

こういうことですよね。

自分のいけない所。

クリーニング屋さんというのは、なかなか難しい仕事なんです。物を売る仕事とは違い、お客様の私物をメンテナンスするのだから、プロの技術と同時に、お客様の気持ちを、メンテナンスするものから汲み取らなくてはならない。それが、洋服の数だけあるのだから、実に大変。

ここまで書いて、力尽きて、本チャンの原稿がスタートしないまま寝てしまった。そして、仕事から帰り、晩飯を食べ、オリンピックの野球、金メダルに喜び、椅子に座って数時間。

ようやく、神様は降りていらっしゃった(笑)
お帰りー。
待ってましたよー。

てな具合で、

今回は仕事の終着点という話になった。

原稿全体的には「しみ抜き」の話になっているが、「しみ抜き」を「仕事」として捉えてもらっても、通じるのではないだろうか。同じような話を違う視点で書くことがあるけれど、今回もある意味、本質の捉え方のスピンオフのような、そんな感じだ。

読者に伝わればいいな。

僕の話はきれいごとだと言う人がいるが、自分的はきれいごとではないと思っている。寧ろ、現実的で、石橋を叩いて渡るブリジストン。だから、いつも、いろんなものに目が行って、キョロキョロしている。

そして、間違って、人を困らせたり、怒られたりするのが怖いから、自分の発言が正しいかどうか、裏どりをしてしまう(笑)

陰気だー。

さだまさし。

AB型のさだまさし。

僕らの仕事というのは「汚れ」という存在するものを「無」にする仕事である。これはちょっとややこしい。普通、仕事というのは無い所から、何かの形のあるものを生産するという事が多いと思うが、しみ、汚れなんていうと、在るものを無くすわけだから、自分が生産したものがピンと来ない。

在るものを無くすんだもんね。

僕はこの仕事をこう思ってみることにした。

汚れているものというのは「負」のイメージがあるものだ。
絶対そうだとは言えないけれど。

それがきれいになっていると、その周りに纏わりついている、いろんなイメージが「正」になり、「生」を持つようになる。

洋服や着物も車と同じように、古くても愛着が湧いてしまうものがある。

そういったものが、汚れていたとして、それが新品のようには戻れないのだけれど、「きれい」という状態になった時に、それが例え古びていても、古いなりにその時代に「正しく存在」する状態に在るようになったら、それは立派な生産と言えるんじゃないかと。

存在を作り上げたんじゃないかと。

そして、それが正しくそこに存在してくれることで、それをもう一度着たいという想いが実現し、「静」から「生」という、魂のような、オーラのような、そんな何かがモノに宿るような気がするんです。

もう、これは立派な生産者ではないかしら。

僕、気づいちゃった。

そして、この原稿もなんとか生産出来た。


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