「否定できない」のうさんくささ

「否定できない」という言い回しが苦手だ。

文脈から判断すると、断言はできないが可能性があるということをにおわせ、読み手側に一定の効果を及ぼすことを狙っているのだろう。

断言しているわけではない。だから言った側は責任を負うつもりはない。どうとらえるかは、読んだ側の判断だ。といったかなり狡猾な逃げを打ちながら、ある方向に読み手を誘導しようという魂胆が透けて見える。

「Aである」という文の意味ははっきりしている。「Aであることを否定」するとは、A以外のあらゆる可能性(BかもしれないしCかもしれない)があることを伝えることになるので、少し意味があやふやになる。それが「できない」と言うと、さらにあやふやになってしまう。

つまり、「Aであることは否定できない」は「Aである」と断言したくても何らかの理由があってできないと捉えるべきだろう。

断言するための根拠が力不足で得られないのか、根拠を得るべく努力している途中であるのか。あるいは、うがった見方をすれば、断言できない(あるいは、してはいけない)理由がうっかり出てきてしまったら困るからそれ以上調べないつもりなのか。

うさんくさい。

自分が文を書く際にはこの言い回しは使わないつもりだ。もちろん生涯にわたって絶対に使わないかと聞かれたら、「否定できない」のだけど。

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