見出し画像

二〇一五年一月

Scene 23

山形の石川家で婚約の発表をしたわけだが、雪江はそのまま実家に残って年明けの結納という儀式に備えるという。俺は実家からせっせと居酒屋のバイトに通い、そのまま年末を迎えて数年ぶりに家族と正月を過ごした。
そして正月が明けて最初の週末、結納のために徳永家全員で山形へ移動する。両親、兄、前橋の伯父さん夫婦とともに、また山形新幹線に乗った。
車中で話しているうち、母親は高校卒業後、家出同然で東京へ出てきたと語った。実家とは縁を切ったと言う。そういえば、母の郷里に行った記憶はなく、帰省といえば前橋の伯父さんのところだった。俺が家に寄りつかないでいる間に、母方の祖父母は相次いで亡くなったので、完全に縁が切れたと薄笑いで語った。母が家を出た理由は決して聞くまいと思うほどの、ちょっと怖い笑顔だった。
「愛郎、お前は帰ってきていいんだからね」
山形新幹線の車中で、母親が俺に語りかけた。
「もし石川家にいられなくなったら、うちへ帰っておいで」
あやうく涙がこぼれそうになり、俺は車窓から雪を眺め続けた。
電車が山形駅に着く。今回は、ローカル線の左沢線には乗らない。山形駅まで石川家の車が迎えに来るという。
改札を出ると、例の孫兵衛さんが「徳永家ご一行様」と見事な筆文字が書かれた看板を持って立っている。孫兵衛さんは俺を発見するなり「愛郎様」と大声で叫び駆け寄って来る。
「よぐござってけだなっす、愛郎様、こんで、石川の家も安泰だはー、ありがどさまっす、ありがどさまっす」
看板を振り回して喜ぶ孫兵衛さんに、両親、兄、前橋の伯父夫婦が完全に固まっていた。
「もうしわげねっす、ご両親様どごすんせぎがっす、ぶぢょうほうしたなっす、もうすわげね」
「…たぶん、ご両親と親戚の方ですね、失礼いたしました、すいません、と言ってます」
飛躍的に上達した山形弁聞き取り能力で、俺は孫兵衛さんの言葉を通訳してやった。
「あ、こちらこそ失礼いたしました、愛郎の父です。母と、兄、そしてこっちが、私の兄夫婦です。私、早くに両親を亡くしてまして、兄が親代わりで」
「んだがっす、んだがっす、ほいづはしぇらい苦労したなっす、んだら、車さ乗ってけらっしゃい」
孫兵衛さんはすたすた歩いて行き、階段を降りて駅前ロータリーの車溜まりへ俺たちを案内する。
ロータリーには車がおらず、でかい観光バスが一台、エンジンをかけたまま停車していた。
「愛郎様、なにしったのっす、寒いがらはやぐ乗らねど、風邪なのひがれっど困っからよぉ」
観光バスのドアが、プシューと音を立てて開く。フロントグラスには「徳永家ご一行様」とやはり達筆で書かれた紙がでかでかと貼ってある。ついでに、「寿」という金文字も貼ってあった。
「孫兵衛さん、ウチ、六人ですけど」
「寒河江の石川が乗用車だのタクシーだので、むご様ど親戚の旦那衆むがえやった、なていわっだら、ほれごそはずがすくて、寒河江ばあらがんねはー」
石川家は婿と親戚を最大限の敬意を持って迎えるのだという意味だと通訳すると、徳永家ご一行様は苦笑しながら、大型観光バスの前の方の座席にこぢんまりと寄り添って座った。
バスは雪の街を走る。国道の標識で、寒河江市まで十八キロと出ている。国道は結構車が多く走る。
「えれえ田舎なんかと思ったけんど、前橋のはずれのほうととたいして違わねぇ」
伯父さんがようやく緊張を解いたようで、くだけた上州弁で言った。
「でも雪が多いわね、ホント」
母親は完全に旅行気分で周りを見回している。
「こだなもんではねぇっす、ほんて、おおゆぎになったら、こだなもんではすまねのよっす」
「本当はもっと積もるって、雪、こんなもんじゃないって」
ほぼ反射的に同時通訳ができるようになっている俺。
「どのくらい積もるんです?」
父親が孫兵衛さんに尋ねる。
「ほれ、あの月山のほうさいったらなれ、ほれごそ背のたがさの倍がっとつもんなださげ」
正面にうっすら見える山を指さし、通訳する。
「あの月山の方だと、背の高さの倍以上に積もります」
孫兵衛さんの方は標準語が理解できるのに、こっちは方言が理解できないというのは少し理不尽だが、致し方ない。
「孫兵衛、そろそろ着ぐさげ、あどあんまりしゃべんなは」
運転席からドスの効いた声がする。総合建設業の代表取締役である軍兵衛さんの声だ。
「すいません、気が付きませんでした。軍兵衛おじさんでしたか、運転されてたの」
俺はバスの運転席の方まで降りて行き、バスガイドが立つ位置で軍兵衛さんに頭を下げた。
「愛郎くん、いいがらいいがら、すわてろ、俺は大型特殊がらなにがら、エンジンついでで動くものは全部運転するいさげの、こういう時はアニキの手伝いすんだ」
「社長は高校でで自衛隊さ六年いで全部の運転免許取ったんだもの、戦車がらブルドーザーがら選挙カーがらなえだて運転すんのよぉ」
孫兵衛さんはずっと年下である軍兵衛さんを「社長」と呼んだ。そういえば軍兵衛さんは株式会社左沢石川組の「社長」である。実際は「組長」にしか見えないのだが、元自衛官だったとは。
軍兵衛さんが運転する大型観光バスは最上川を越え、寒河江市に入った。広いバイパス道路を行かず、脇の狭い道へ入る。
「南門だと、旧道のほうがしぇーなだ」
旧道と言われた道は、すぐ脇を例の左沢線が走っており、上り列車が雪を蹴立てて走り去った。これまで走っていた広い国道に比べてだいぶ狭い道だが、両側には民家が連なっている。
道の先の方に、重要文化財のなんとか城の大手門かと見まがう門が見えてきた。軍兵衛さんが門の前で一時停車し、リモコンを取り出してスイッチを入れる。門の扉はシャッターがはめ込んであり、これがゆっくりと開いた。バスはゆっくりと門をくぐる。
「もとの扉は、県の博物館さある。文化財指定だ」
バスのサイドブレーキを引いて、軍兵衛さんがひとりごとのようにつぶやいた。
「んだら、おっでけらっしゃいっす」
孫兵衛さんが先導して徳永家御一行様を降車させる。相変わらず、この家の駐車スペースときたら、大型観光バスが一台停まったくらいでは埋まった感じがしない。先に到着済みの招待客の車がもう数台駐車しているにもかかわらず、である。
「なに、この家…」
母親が絶句している。俺とて、所沢の実家は決して狭くはないと思っていた。都内にあるミギの実家の倍近い敷地だ。しかし石川家は、その所沢の家よりもっと広い山形の一般庶民の家の、十数倍の敷地なのである。石川宗家の住所は、寒河江市屋敷で終わり。番地もなかった。
「聞きしに勝るとはこのことだな」
父親も呆然と周りを見ている。
「ささ、こっつだっす」
孫兵衛さんが腰をかがめて案内する。雪はきれいに掃き寄せられ、白い歩道が玄関に続いている。その玄関もまた、時代劇なんかに出てくるお屋敷のような造りなのである。
おそるおそる玄関を上がり、以前訪れた仏間の方へ向かう。今日も部屋の間のふすまが取り払われ大広間が出来上がっていた。お膳が並べられた広間は、さながら温泉ホテルの宴会場だ。
招待客がぞろぞろとやって来る。去年のお披露目の時よりは少ないようだ。
「結納ださげ、しんせぎ中心だ。支持者関係ど学院関係はこねぇ」
義父がそう言いながら俺の隣にやってきて、徳永家ご一行を席に案内する。
床の間を背に、石川宗家と徳永家が着席し、四十名ほどの客が一斉に頭を下げた。徳永家は俺以外ガチガチに緊張している。
「ほんじづはお寒いどごろ、当家結納の儀にご参列いだだきまして、まごどにありがどうございます」
義父が挨拶する。俺に対してはぼそぼそとしかしゃべらないので忘れていたが、政治家だけあってよく通る声だ。
客がまた一斉に頭を下げる。そして義母が一礼し挨拶を始めた。
「本来ならば、結納の使者を立て品を揃え、儀礼に則りましてことを行うべきでありますが、時代の流れと申しましょうか、今回は儀礼をすべて省略させていただきまして、皆様方への婚礼ごあいさつとさせていただきますことをご報告いたします」
義母はきれいな標準語でスラスラと話すが、案外大変なことなのではないか。事実、客の中からはあからさまな抗議の声が上がっている。
雪江が一礼して話し始める。
「そもそも、結納の儀礼を省略してほしいと両親と祖母に願いましたのは、私でございます」
抗議の声を上げていた客は、今度は大きな舌打ちを響かせた。雪江はまったく動じる様子もなくその客に一瞥をくれ、話を続けた。
「私は古来の儀礼を軽んずるつもりは一切ございません。憚りながら、結納のやり方に関しては、祖母や両親から早くに教えられておりました。ただ、一部の儀礼内容が、残念ながら現代においては時間の浪費でしかないということでございます。儀礼を正確に憶え次代に受け継いでいくことは非常に重要と考えますが、実際に実行しなくとも問題はないのではないかと、父母や祖母と幾度も議論をいたしました」
よどみなく論理的に話す雪江に、声を荒げるものはもういなかった。
「雪江からこのことを提案されました時、権兵衛は非常に怒りました。雪江に甘い祖母も、さすがに咎めました。しかし、私自身、私の結納の時に同じことを感じていたのでございます。親子というものは似るものでございますわ」
義母が上品に笑う。
「けっきょぐお母さんもおっかさまも賛成にまわて、おなご三人からやんやんゆわっでは、わだくしももう反論ができませんでした。今回の儀礼の省略は、わだくし石川権兵衛のせぎにんでございます。ご列席の皆様には、よろしくご了承のほどお願い申し上げます」
義父の礼に続いて石川宗家が客に頭を下げた。徳永家も慌てて頭を下げる。
「権兵衛殿、お美事也!」
やはり最上座に鎮座していた、氏家了兆が高らかに言い、ぱんぱんと手を打つ。
「ご英断である、お美事也。有職故実に通暁しながらもあえて当代の風に従う、さすがは石川宗家のご刀自よ」
祖母が住職に頭を下げる。
「あたしはね、若いものにすべて任せることにしたのさ。それでこの家がなくなったってかまやしないさね。でも、雪江とこの色男じゃ、今よりますます栄えちまいそうだよぅ」
祖母の軽妙な江戸ことばに、客席がどっと湧き拍手が起こった。とりあえず一時の険悪さは消えた。
「五分家の皆様は得心か?」
住職が分家筆頭の佐兵衛さんに水を向ける。
「ああ、きいっだったべず。おらも最初おどろいだげっとよ、けっきょぐはおっさまのゆたとおりだねっす。有職故実に通暁するも敢えて当代の風に従う、だねっす。そもそもおらえなの、俺の代でしまいだす」
ユウソクコジツ、とかいう難しい言葉のあたりだけ一切訛らなくなるあたりが学者らしい佐兵衛さんである。
「時間の浪費はすべきでねぇっす」
冷静な経営者の顔で吉兵衛さんが言う。
「ほだな、宗家のすぎにしたらしぇーっだな」
日焼け顔の又兵衛さんは、この件にはまったく興味が無いようだ。
「アニキがきめだんだら、俺は何もやねげどよ」
軍兵衛さんは義理事がらみは非常に大事にするらしいので、実は少し不満なのだろう。
「知識があっても実行しないのは知らないのと同じだと喝破したのは、陽明学だったかな」
都会的な装いでこの席でもっとも浮いた感じの五兵衛さんがさらっとインテリぶりを披露する。
「東京、陽明学と仏教は思想的に相容れぬところが多いのだぞ」
住職が笑い、佐兵衛さんの音頭で乾杯となり、予想に反し実に普通の宴会が始まった。
招待客は酔って大騒ぎするわけでもなく、宴は和やかに進行し、徳永家ご一行もようやく緊張がほぐれたと見え、酒を注ぎに来た軍兵衛さんに父が質問を投げかける。
「先ほどバスから降りるとき、あの門は文化財とかおっしゃってましたね」
「おぉ、南門は、やまがだ城の大手門ばうづしてきたなださげ。明治になってからぶずぐされるっどごば、宗家が買い取ったんだど」
軍兵衛さんが訛り全開で説明する。上座の住職がすかさず補足説明を入れる。
「山形城は平城としては全国有数の規模だ。三の丸までの面積は江戸城の内郭と大差ない。その大手門ゆえ、いくら豪農の石川家とはいえ移設して日常使うのはおそれ多いということで、大東亜戦争後までお偉い方しかくぐらなんだ。年に一度開けるかどうかだったそうだ」
住職の説明に、父と前橋の伯父さんが心底感心したという感じで嘆息する。
「石川家は、江戸時代の初期に改易になって没落した最上家の直参家臣が帰農した家だ。全国に散った旧臣の末裔とも交流がある。今でも関西にある最上宗家へは、中元歳暮を送っておる」
父と伯父は住職のほうへ移り、酒をついでやりながら歴史談義に花を咲かせ始めた。
「先祖代々の甲冑と刀槍、馬印やらは、先代がやまがだのはぐぶつかんさじぇんぶ寄付したなだ」
義父がぼそっと言って酒をあおる。俺は酌をしてやりながら尋ねた。
「お父さんの実家も、やはりそんな感じですか」
義父も婿だが、大きな農家なのだと義母が言っていた。
「俺の実家は、もどは侍ではなかったそうだ。庄屋だったさげ、侍の株を買って、なまえだげは侍だげっと。ほんでも、俺の兄貴で九代目だ」
義父は俺に酒を注ぎながら訥々と語る。
「ウチなんかは、前橋の伯父さんしか知らないしな」
「愛郎くんよ、どだなうづでも、必ず親がいて子がいて、それが連綿とつづいできたのよ。たえだうづもあっかもすんねげっと、必ず流れはあんなよ。流れは、きらさんねなだ」
義父が政治家らしいレトリックでさらりと言う。その言葉は、雪江と二人で流れを守れという意味なのだろう。俺はまた、軽く挑戦的に義父の方へ盃を向け、乾杯の仕草をしてきゅっと飲んだ。横目で俺たちを見ていた雪江が、にっこり笑って義父の方へ盃を差し出し、同じように飲んだ。
「頑張りますとしか言えませんが、よろしくお願いいたします」
俺の返事を聞いた義父がおもむろに立ち上がり、政治家の声で話し始めた。
「ごれっせぎの皆様がだにご報告申し上げます」
その声に客は談笑をやめ、義父の方へ向きなおる。
「本来ならば結納金を遣り取りいたしまして、生活道具を揃える慣わしでありますが、先ほど申しましたように、儀礼はしょうりゃぐであります。両家話し合いのもど、若い二人に出資するかたちで一金を贈呈し、生活道具などの購入にあててもらいます」
客が拍手で応えた。今度は俺の父が立ち上がり、話し始める。
「高い席より恐縮でございます、徳永愛郎の父でございます。このたびはこのような晴れやかな席にお呼びいただき、まことにありがとうございます」
俺の父は営業マンなので、こういう場でもすらすらとしゃべる。
「石川のお父様よりお話ありましたように、今回は儀礼を省略させていただきました。恥ずかしながら、私どもはこうした儀礼にはまったく疎く、ご迷惑をかけることを危惧いたしておりました。さきに石川のお父様よりこのお話をお伺いいたしまして、正直胸をなでおろしました」
客から笑いが起こる。
「じづは、二人への出資、という提案は、とぐながのお父様からのご提案でありました。学校を出たての息子になんの財力もあるはずがなく、石川家におんぶにだっこで生活させてもらったのでは、親としてこごろぐるすいと、せめて愛郎君に持参金を持たせたいと」
俺の父が続ける。
「加えて石川のお父様が、それでは両家同額、二人へ祝いということでどうかとおっしゃられました。決して私の提案などではございません」
父は懐から祝儀袋を取り出した。やけに分厚い。雪江を促して立たせ、恭しくそれを差し出す。
「徳永のお父様、お母様、ありがたくいただきます。お父さん、お母さん、おばあちゃん、ありがとう」
雪江がそれをさしいただいて、涙声で礼を述べる。満場拍手喝采の嵐、軍兵衛さんと孫兵衛さんは肩を抱き合って号泣している。
雪江のドラマじみた演技で場が盛り上がり、結納の儀はめでたく終了したのである。


Scene 24

その日、徳永家ご一行様は石川家に宿泊する。結納の席で供された仕出し料理の残りと、飯と漬物の夕飯である。石川家はたしかに名家なのだが、雪江にしてもこの家族にしても、決しておごっているわけではなく、生活はむしろ質素だと感じる。
義父を兄と慕う軍兵衛さんが居残っているが、ほかの分家の方は帰った。石川家に投宿する五兵衛さんは、外に飲みに行くと言って出かけた。
場にならって親父はめずらしく日本酒をちびちび飲んでおり、顔を赤くしている。前橋の伯父さんはもとから酒好きなので、にこにこしながら盃を重ねている。義父の方も、目に見えて上機嫌だ。
「んだもんで、石川家ってのは女系家族なのよっす、前橋のアニキ」
義父は前橋の伯父さんを「前橋のアニキ」と呼び始めた。
「ほう、すると石川のお父さんも婿さんなんかい」
伯父さんはだいぶ山形弁に慣れたらしく、ほぼ会話が成立している。というか、伯父さんも上州訛りがきつくなってきた。
「二六んどぎに家のオヤズとアニキがらよばっで、石川さむごいげ、一言で終わりよ」
「あら、イヤだったの?」
義母が標準語の発音で艶っぽく笑う。
「寒河江で、石川のお姫様ばしゃね野郎なのいねっだな。あのような美人が俺の」
義父はそこまで言うと真っ赤になってうつむいてしまった。押しの強い政治家が普段の義父の顔だが、義母にベタぼれしていることは最初からバレバレだった。
「私もお父さんが婿に来てくれる、って知った時は嬉しかったよ。すごく逞しくって、ハンサムで、このあたりじゃ有名人だったんだから」
義母はにっこり笑って義父にしなだれかかる。義父はますます赤くなり、座が大笑いになった。
「でもね、ホントお父さんは、私たちが中学から高校の頃の地元のアイドルみたいな感じね。岡村先輩は成績優秀だから、偏差値トップの山形の霞城高校に通ってたの。寒河江駅に毎朝女の子が集まって、左沢線に乗る岡村先輩を見てたんだから」
「あーそれ櫻乃のママからも聞いたぁ。ヨリチカ・ファンクラブがあったんだってぇ。櫻乃のママ、お父さんと話すときは目がうるうるしちゃってたもん」
雪江もまぜっかえす。そういえば、義父はいかつい雰囲気ではあるが、よく見ればなかなかの美男子なのだ。
「いや、じづは昔それはきいてたげど、俺らの高校はおなごどつぎあってだなてゆたら、軟弱者扱いさっだんだっけ。んだげずーっと無視しったなだ」
「お父さんは、私が中三のときにはもう仙台の大学に行ったから、もう幻のアイドルになっちゃったのよね。私が東京の女子大に行くのと入れ違いに卒業して帰ってきて、私が卒業して寒河江に戻って、たしか一年かそこらで決まったのよ」
「俺はもう先生のとこで秘書やってだがんなぁ」
義父がようやく落ち着いたらしく、前橋の伯父さんに酌をしながら言った。
「菊江は本気で嬉し泣きしたからねぇ、岡村頼親先輩がお婿さんになってくれる、って」
義祖母が音もなく俺の側に現れ、笑いながら酌をしてくれた。
「いや、俺だてうれすいごどはうれすいかったんだ、本気でよ。んだげっと、どうにもオヤズだげはおっかねぇがった。おらえの先生ばハナタレ小僧扱いだっけ」
「あたりまえだよ、今野なんざ。あれの親父だってうちの人の前じゃ脂汗たらして直立不動さ。石川が自由国民党を支持する、って言っただけでここいらの票が全部自由国民党に流れるんだ」
義祖母が穏やかに笑う。
「先代は私にも雪江にも、当然おばあちゃんにもベタベタだったけどね。女に甘いのが石川家の男なのかしらね」
義母が俺をちらりと見て、雪江に語りかける。
「当たり前でしょ、私にべた惚れよ、ね、あーくん!」
少し酔っている雪江が俺にぴったり寄り添って笑う。俺の両親も前橋の伯父さんも兄貴も、優しく笑った。
「ウチは男系ですねぇ。兄貴のとこも男二人、ウチも男二人、私自身も兄貴と二人だし」
親父がお袋の方を向いて笑いかける。
「ホント、むさ苦しいったらないですわ」
お袋も笑う。
「失礼ですけど、お兄様は、ご結婚のご予定は?」
義母がさらりと兄貴に問いかける。
「いや、お恥ずかしい話ですが、まったくモテませんで」
兄貴がめずらしく明るく笑って言った。俺たち兄弟はまったく顔が似ておらず、俺がどちらかと言うと親父似、兄貴はお袋に似ている。若いころは親父の勤務する商社の事務員として、親父以外からもプロポーズを何度か受けたというお袋は、たしかに不細工な顔立ちはしていない。そのお袋に似ている兄貴は、高校時代に結構な数のバレンタインチョコレートを貰うくらいはモテていたはずだ。当時小学校高学年だった俺にたくさんチョコをくれた記憶がある。実際背は俺よりも高く、太っているわけでも髪が薄いわけでもない。
「そういや、兄貴に彼女がいるって聞いたこと無いわな」
俺もめずらしく兄貴に話しかけた。兄貴が大学に入学した頃から、俺達兄弟はほとんど会話をしていないような気がする。べつに嫌っているつもりはないのだが、俺よりもお勉強ができて爽やかな容姿の兄貴に、俺は劣等感を抱いていたのだ。
「おまえだって、雪江さんと出会うまで彼女いたのかよ」
雪江がその言葉に敏感に反応し、俺を見据える。
「…いない」
雪江がガッツポーズを取った。その姿にまた笑いが起こる。
「おまえ、ギターばっかりだったもんな」
兄貴は、なんだかんだ言って俺を見守っていたのだ。俺はずっとギターを弾くことに熱中していたため、女のことを考えることを忘れていた。初体験は大学に入ってミギたちとバンドを結成した後、女遊びが大好きなリョータローが勝手にあてがったくれた女とだった。雪江との出会いも似たようなものだが。
「でも兄貴はべつにモテなかったわけじゃないだろ、昔チョコレートたくさん貰ってきたじゃん」
「そうよね、お兄様はあーくんとまったく似てないから、モテると思う」
雪江が身も蓋もないコメントを発する。
「なんてのかな、女性と何の話していいかわからないんですよ、男ばっかりの中で暮らしてきたし、高校は男子高で大学も男だらけ学部で」
兄貴がまじめに答える。
「それに市役所には、おばさんしかいないし」
「私の知り合い、紹介しましょうか?」
雪江は真面目な顔で兄貴に語りかける。兄貴がさすがにしどろもどろになった。
「い、いやその何と言うか」
「学校でけっこう仲のいい子が、たしか埼玉から通ってきてたな…」
「いや、雪江さんの大学みたいなお嬢様学校の子とか無理でしょ…」
「別にウチはお嬢様学校じゃありませんよ?タマに政治家の娘とか大企業の社長の娘いますけど」
雪江がさらりと言う。政治家の娘はたしかにここにいるわけだが。
「一度、東京でお会いしましょう?ね、決まり」
やはり雪江も義母と同じように、強引に話を決めるところがある。兄貴は呆然としていた。
「道郎、良かったわね」
お袋がにこにこしながら兄貴と雪江を見比べる。
「あんつぁ、しぇがったな、ユキのともだづだば美人に決まてんべ」
軍兵衛さんが完全に酔っ払いになって兄貴の背中を叩く。
「おらえの嫁なんど、こだなだはげ」
軍兵衛さんは自分の顔を両手で押さえて、顔をねじ曲げてみせた。
「おばちゃんなのすばらすぐ美人だどれよー」
雪江はネイティブの山形弁で返す。方言を話す女子というのは案外かわいいものだとあらためて思った。
「おまえしゃねがらゆうんだ、あいづなの俺より力強いんだじぇ、格闘術なのWACだど思わんねっけ」
「WAC、ってのは女性自衛官ね、おんちゃんたちは職場結婚なのよ」
雪江が注釈を加えたとき、大柄な女性が居間に入ってきた。
「誰がWACでねぇってが、父ちゃん」
女性は軍兵衛さんの背後に回ると、するするっと軍兵衛さんの右腕に両腕を絡め、がっちりとホールドした。軍兵衛さんが絶句する。
「いづまでもあんつぁの家で酒飲んでいんなって、いづでもゆてんべよ、父ちゃん!」
たしかに大柄で筋肉質な女性だとは思ったが、軍兵衛さんの奥さんは非常に美人だ。
「姉さん、ほんてごめんなぁ、いつもいつもごっつぉなてばりいでよぉ」
奥さんは軍兵衛さんの腕を極めながら義母に謝る。
「さすかえないづぅ、おらえのお父さんだてなにがていうど左沢さ行ってごっつぉなてっどれー」
義母がにこにこして返答する。
「われがった、われがった母ちゃん、参った」
軍兵衛さんがギブアップして、奥さんをタップするとようやく関節技がほどかれた。奥さんは居住まいを正し、あらためて徳永家に挨拶をする。
「左沢石川の翔子と申します、これからもよろしくお願い申し上げます」
これまたきれいな標準語の発音で挨拶した奥さんは、丁寧に頭を下げた。頭をあげると俺の顔をまじまじと見て、雪江に話しかける。
「うわーしぇーおどごだったらやー、雪江ちゃん、しぇーおどご見つけでいがったったらよぉ」
「んだべ、おばちゃん、んだべ?おばちゃんもこいなおどごすぎだべ、ほんて」
「わがっか?おばちゃん、お父ちゃんみでなの、じづは好みでねっけのよ~んだってお父ちゃんだば俺ど結婚してけねど死ぬてゆうはげ、仕方ないっけんだぁ」
翔子さんの言葉に、皆が爆笑した。山形弁がわからない徳永家も、何を言っているのかニュアンスで理解できたのだろう。
軍兵衛さんが腕をさすりながらも赤くなって照れている。義父と同様、妻にベタぼれしているのだろう。
「お父ちゃん、ほれ、帰んべはぁ」
軍兵衛さんは背が低い方ではないが、夫婦並ぶと、明らかに翔子さんが背が高い。軍兵衛さんは翔子さんに手を引かれて帰っていった。
「いつも翔子ちゃんが迎えに来るのよ」
義母がくすくす笑いながら標準語で答える。
「株式会社左沢石川組の専務なのよ、翔子ちゃんは。軍兵衛さんはあんまり人相良くないし、無愛想なトコあるから、営業とかは翔子ちゃんの仕事」
いろんな意味で最強の営業ウーマンだろう。

Scene 25

翌日、両親と兄貴、前橋の伯父さんは周辺の観光に出かけた。選挙の時は選挙カーとして使うという石川家所有のワンボックスカーに乗せてもらい、孫兵衛さんが運転していく。
雪江は親友に会うというので、俺も当然連れ出される。大きな車を苦もなく運転する雪江を助手席から眺める。
「あーくんも車の免許取ってね。山形じゃ車がないと不便すぎるから」
雪江が運転しながら俺に言う。
「運転上手いね」
「そう?はじめて言われたわ」
雪江が俺の方をちょっと見て笑う。
「この車って、高いよね」
「高い車を買ったら、そのセールスさんは確実に一票入れてくれるでしょ?」
「なるほどね」
石川宗家の自動車保有台数も常識はずれである。義父・義母・雪江のそれぞれが日本の主要自動車メーカーの高級車を所有し、サンダル代わりの軽自動車が一台、農業用の軽トラックが一台、選挙活動用として使うというワンボックスカーが二台とマイクロバスが一台である。小さいレンタカー会社が開業できそうだ。
「東京から大先生が来た時に使うベンツが、倉庫の奥にあるよ」
「大先生?」
俺の問いに雪江は俺が中学生の頃の首相の名をさらりと口にした。俺はまた頭を抱えた。
「お父さんが修業時代にお世話になったんだってさ」
「偉い人大会だな」
「子供の頃から大先生見てたから、最初はなんで大先生がテレビに何度も出てくるか不思議だったね」
「名家だよな…あらためて思うわ」
こんな名家に俺が入ってきていいものか、いまさらながら真剣に不安になってきた。
「たしかにウチは十八代続いてる家よ、それは事実。でも私もお父さんもお母さんもおばあちゃんも、普通の人間だからね」
雪江が俺の不安を見透かしたように、静かに言葉をつなぐ。
「別におカネが余ってるわけじゃないよ?土地だって私達が食べる分の田んぼと畑、あのお家があるだけ。あのお家だけは、私の居場所だから、ずっと守っていきたい、それだけよ」
石川の家は、たしかに質素な生活をしている。貧乏なわけはないが、求めて華美にしていることだけはない。雪江の最初の印象は、美人だけど地味、だった。俺はそこに惹かれたのだ。
「ヘマをいっぱいすると思うけどよ、最初はガマンしてくれ。俺、雪江のムコさんとしてお父さんたちに恥かかせないように頑張るから」
俺はぽつりと言い、シートに身をうずめた。雪江は左手を伸ばして俺の右手を掴んだ。
「あーくん、大好き」
俺の手を掴む雪江の右手には、力がこもっていた。
車は繁華街を走る。繁華街といっても、飲み屋と食堂、コンビニがちょっとある程度で、たしかに所沢と比べたら相当の田舎町だ。繁華街の一番はしっこ、という感じの立地の店の駐車場に入った。この街にはちょっと珍しい、センスのいいレストランだ。ネオン管で書かれた店名は「トールパイン」と読める。
「一番仲の良い子がやってるお店」
エンジンを止めて雪江が言う。
「正確には、一番仲の良い子の兄がオーナーなんだけど、その子と彼氏が店を切り盛りしてるの。寒河江じゃ一番人気のレストランよ」
「所沢にもこんなかっこいい店は少ないな」
俺と雪江はそんな会話をしながら店のドアを開けた。
「いら…きゃーユキ、きんな結納だっけねー」
これまたかわいい女性が雪江を見て嬌声を上げる。
「んだー、やっとオワタず」
雪江は地元モードになっている。
「いがったー、ほんてんいがったー」
ほんてん、というのがホントに、という意味なのだということがわかってきた。最後の、ん、が省略されることが多いということも。
所在なげに突っ立っている俺に、彼女がようやく気が付き、また嬌声を上げる。
「うわー、なになになに、実物初めてみだー、うわーなになになにカッコしぇーどれーやっぱりミュージシャンだどかっこしぇーんだがー」
しぇー、というのはいい、という意味だと理解した。
「マネージャー、騒いでねではやぐ席さ案内すろちゃ」
ドスの利いた声がカウンターの中から響く。彼女がようやく気がついて俺達を席に誘う。
「店長、私少しユキどしゃべてでしぇーべ?」
彼女は店名の入ったエプロンのまま、向かいの席に腰掛ける。
「かまねげっと、お客さん来たら戻れよ」
店長と呼ばれた男が、水の入ったコップを三個盆に載せてボックスにやってきた。彼女は店長の盆からコップを取りテーブルに置く。店長は、軍兵衛さんとはまた違ったタイプで、かなりの強面だった。年齢は俺の兄貴くらいだろうか。あのコトブキを思い出す雰囲気だ。真っ黒な髪を綺麗にオールバックにまとめ、黒いワイシャツとパンツははきっちり折り目が付いてシワひとつない。洋食系の黒い前掛けには店名が金糸で刺繍してある。店長は俺を一瞥してさっさとカウンターに戻った。
「はじめまして、荒木櫻乃でえす、ユキとは幼稚園の頃からの付き合いでえす」
彼女が女子高生のようなノリで自己紹介する。ただ、標準語で言っているつもりなのだろうが、訛りがまったく抜けていない。
「サクラ、ムリムリ。あんた標準語ムリだがら」
雪江がネイティブの発音で櫻乃に突っ込む。
「ほだなごどないべした、バッチリ標準語だっけべ」
櫻乃は俺に同意を求める。
「んーちょっとつらいかも」
「んだがしたーショックだちゃー」
櫻乃はまったくショックを感じていない風でそう言って笑う。雪江の親友だというが、本当にものすごい美人である。雪江もそこそこだが、櫻乃と並べたら雪江は普通以下に見えてしまう。
「サクラ、美人でしょ?」
俺の心の中を見透かした雪江が、俺の耳をねじ上げる。
「中学高校の頃、ファッション雑誌に載ったのは一回や二回じゃなかったのよ」
櫻乃はにこにこしながら俺達を見ている。
「自慢だげっと、スカウトなてほれごそいっぱい来たんだじぇ」
「なじぇしたて訛り抜けねくて、がっかりしてみな帰ったんだは」
雪江がネイティブ訛りで突っ込むと、櫻乃も爆笑した。
「んだ、旦那さん、名前なんていうんだっけが。ユキ、あーくんてしか言わねっけがら」
櫻乃があらためて俺に尋ねる。
「あぁすんません、徳永愛郎です…ってそのうち徳永じゃなくなるか」
「あいろう…どだな字書くな?」
とびきりの美人が訛り全開でしゃべるというのは、とても新鮮な感じがする。
「あい、はその、愛してるの愛でして…」
そういったところで、櫻乃が愛してるだどーと言って雪江の手を取って笑う。とにかく明るいタイプの性格のようだ。
「マネージャー、あんまり騒ぐなず」
店長がコーヒーを運んできた。まだ注文はしていないのだが、雪江は身内同然なのだろう。
「いいべしたー、誰もお客さんいねものー。ユキと久しぶりに会ったんだじぇ」
櫻乃は可愛らしく抗議する。店長はコーヒーを俺と雪江の前に置くと、櫻乃の隣りに座る。
「まぁいいげどよ…愛郎さん、ですか、これからよろしく、店長の安孫子です」
店長は俺に軽く頭を下げる。
「オニシロウちゃん、あーくんをよろしくね」
雪江が俺に寄り添って、店長に笑いかける。店長の方は笑っていない。
「俺さ面と向かってオニシロウって呼ぶなは、ユキだけだがんな」
ようやく店長が少し表情を緩める。
「キヨシローちゃん、ごしゃがねの」
櫻乃も店長に頬を近づけて言う。キヨシローちゃんと呼ばれた店長が真っ赤になった。
「マネージャー、店では店長て呼べって」
店長はそそくさと立ち上がり、カウンターに戻る。
「あーくんはバンドやってだんだっけべ?」
櫻乃はもう俺をあーくん呼ばわりする。
「うん、JET BLACKっての。もうすぐメジャーデビューするよ」
「なんか聞いだごどあるちゃー、JET BLACKって」
「ツウの間では大人気なんだっけじぇ」
雪江は櫻乃に合わせているのか、完全にネィティブの訛りで話し続ける。
「ユキなのツウでもなんでもないどれー」
「んだげっとね。雑誌さも載ったんだじぇ、何回も」
「何回も、っても三回だよ」
店長がつかつかっと歩み寄り、テーブルに音楽雑誌を広げた。
「これだべ」
去年のキモノ・マーケットでのライブの記事だ。櫻乃がそれを食い入る様に読む。
「かっこしぇー、メジャーデビュー発表、ギターのアイ引退、だど」
「オニシロウちゃん、よぐ持ったっけね」
雪江が店長を見上げる。
「俺はツウだがらな」
店長はニヤリと笑って俺を見た。
「俺はJET BLACKのごどは結構注目しったっけんだ。まさか脱退したギタリストがユキの旦那だどは正直驚いた」
「いや、お恥ずかしい」
「でも、あーくんはマジでギター上手いのよ、プロなんだから」
「こんどおしぇろ、ギター」
店長が真顔で言う。本当に怖い顔だが怒っているわけではないようだ。
「店長、顔怖いず」
櫻乃がまぜっかえし、店長も笑った。笑顔も怖かった。
「いい感じのお店ですよね、ここ」
俺はようやく店長の怖い顔に慣れてきたので、何とか話をつなげる。
「俺とオーナーで作り上げた店だ、昔がらの夢だっけ」
店長は得意げな表情になる。
「オーナーて、オラのオニイ。店長と同級生なんだ」
櫻乃が続ける。
「隣に不動産屋があるでしょ、オーナーは不動産屋さんよ」
雪江の言葉がなぜか標準語に変わる。
「社長はもう隠居して、不動産の方もオーナーが仕切ってる…呼ばっか、ちぇっと」
店長は携帯を取り出し、オーナーとやらに連絡をとった。
「すぐ来っど。隣ださげ」

Scene 26

本当にすぐオーナーはやってきた。店長と同級生ということだが、ノーネクタイの背広姿でビジネスマン然としている。短髪に細身のフレームレスのメガネが、少しワルっぽく見せている。店長が大ワルだとするとちょいワルだろうか。
「ユキ、結納おめでとうな。昨日はオヤジが行ってた」
「ありがとう陸兄。この人が、私の夫になるヒト!」
雪江が満面の笑みで俺に抱きつく。
「と、徳永愛郎です、よろしくお願いします」
「荒木です。こちらこそよろしく」
荒木は俺に名刺を二枚くれた。片方は「株式会社アラキ・リアル・エステート 専務取締役 荒木 陸王」とある。もう一枚は「カフェ・レストラン トールパイン オーナー RIKUO "RICKY" ARAKI」だ。なかなかファンキーなビジネスマンだ。
荒木は櫻乃を席から追い出し、自分にもコーヒーを持ってくるよう言いつける。
「徳永くん、まぁ近々石川になっちゃうんだから愛郎くんでいいか。それとも若旦那」
「いやお好きなように」
荒木というこの男、若くして不動産屋を切り回してこの店のオーナーになるなど、ビジネスマンとして優秀なのだろう。気さくな雰囲気で、好人物であることは間違いない。
「旦那様から君のことは色々と聞いたよ。バンドマン辞めて雪江を選んだとか」
雪江がキャーと叫んで俺に抱きつく。
「あと、君の大学」
「ははは、お恥ずかしい三流大で…ご住職や学院の先生方のお陰でなんとか卒業できそうですが」
俺は頭をかく。
「たしかに三流大だな。その三流大で俺は留年したけどな」
荒木がニヤリと笑って俺を見る。
「あぁ、そうか、陸兄とあーくん同じ大学だ。最初あーくんの大学聞いたとき、なんか聞き覚えあったのよね」
「し、失礼いたしました」
俺は冷や汗をかいて荒木に頭を下げる。
「いやいや、気にするなって、三流大なのは残念ながらゆるぎない事実だ。俺も君と似たようなもんでな、商売に熱中して単位落としたんだよ」
「はぁ?商売」
「バイトしてたスナックでママに可愛がられてね、店をひとつ任されたの。赤字がでたら丸かぶり、上がりは半々って約束。そんでいろいろ考えてさ、昼間はイタリアンのランチ出したり、夜はいろんなイベントやったり。ゲイ・ナイトやったらどこで聞いたか知らないけどめちゃくちゃホモの客きたよ~。売上倍増したから上がりをママ6にしてあげた。ママ嬉し泣きしちゃってさぁ」
荒木は屈託なく笑った。きっと、ママとやらもこの笑顔に参ったのだろう。
「陸王が大学行って三年目、初めて帰省してきて、会って最初にゆたのが、店やっぺ、だがらな」
店長が荒木のコーヒーを持って来て話に加わった。
「俺も高校出でがらは家の田んぼ手伝ってただげで、無職のチンピラだっけし、もどもど飲食店ばやっだいど思ったっけがらな、調理師免許だけは取ったっけんだ。二人でどういう店にすっか話し合ってな」
「メシも酒もうまいレストランにしようって。清志郎は山形の名店に修行に入った。俺が留年したから一年修行期間が延びたけど」
荒木が楽しそうに話す。
「荒木さんと店長は同級生だって言ってましたよね」
「あぁ、清志郎は寒河江中央学院高校をシメてて、三年の時はついに山形市の高校まで全部シメた。オニシロウのあだ名がついたのも当然だわな。いまだに山形の不良業界じゃ生ける伝説だから」
「昔の話なのやめろ陸王、はずがすいったら」
店長が照れくさそうに笑う。
「伝説のオニシロウちゃんも、サクラにはデレデレ」
雪江がニヤニヤして店長を指さす。
「うっせ、関係ないべほだなごど」
店では店長と呼べとさっき言っていたが、二人の時には「サクラちゃん、キヨシローちゃん」と呼び合っているのだろうか。
「櫻乃が高校一年の時、清志郎と付き合いたいって俺に言ってきたんだけどな。清志郎は高校で友達になって、家にもよく遊びに来てたから気になってたんだろ、小学校の頃から」
「やんだ、おニイ、はずかすいがら語んな~」
今度は櫻乃が真っ赤になって店長に抱きついた。店長の顔がえらいことになっている。
「櫻乃があれだけの美人でも一切オトコがが寄って来なかったのは、オニシロウの彼女、ってのが知れ渡ってたから」
雪江が解説する。
「最初はな、一六歳の娘と二一歳の男の交際っていいのか、って思ったけど、今くらいになると別に普通だわな、五歳の年齢差は。そのくらい年の離れた夫婦はぜんぜん珍しくないし。清志郎、お前いつサクラと結婚すんだよ?」
荒木が店長に声をかける。店長はうっせ黙ってろと小さな声で答え、櫻乃とキッチンに消えた。
「そういう陸兄は結婚しないの?彼女は?」
雪江がコーヒーを飲みながら荒木に尋ねる。
「バカヤロウ、俺はお前と結婚するつもりだったんだよ」
雪江がむせる。俺は荒木の目を見た。半笑いで言った言葉だが、冗談を言っている目ではなかった。
「やめてよ陸兄」
雪江が呼吸を整えながら、荒木に笑いかける。
「ははは、あのママと結婚しちゃおうかと思ったんだけどな、あん時ママ四〇過ぎてたしな」
荒木はそんな馬鹿話をしてさっきの言葉を薄めていた。
「荒木さん、ホント、春からはお世話になります」
俺はあらためて荒木に頭を下げた。荒木が想っていた女性を奪ってしまった謝罪の気持ちもある。
「いやいや、そんなあらたまんなくていいよ。でも、俺とは付き合うことになるからね。ウチの業務は、けっこうな割合で石川宗家と県内四分家の不動産管理と運用だから」
荒木はビジネスマンの顔になって言った。
「陸兄のとこが、明治の終わり頃からずっと石川の不動産管理してるんだって」
「戦前の、石川家と分家の土地所有面積がピークだった頃は、ここにでっかい社屋が建ってたそうだわ。この店はその建物の一部」
「荒木さんは石川家とご親戚なんですか?」
俺はふと沸いた質問を口にした。
「いや、縁戚関係はないはずだよ。荒木はもとから東京で、東京石川に紹介されてひいじいさんが山形に来たそうだから。ちなみに俺は東京の荒木本家の者で、寒河江に来たのは高校から。訛ってないでしょ?俺、養子で来たのよ寒河江に」
なんだか聞かなくてもいいことを聞いてしまったような気がして、とりあえず謝った。荒木は気にしないでと笑った。
「ちょっと店の中見ていいですか?」
荒木はどうぞどうぞと答え、俺は立ち上がり、バーカウンターの方へ行った。壁に、金色のレスポールがディスプレイしてある。店長に頼んでそれを見せてもらった。驚いたことに、本物のギブソンである。
「これ、本物っすよ」
俺はギターを抱えて椅子に座り、ほとんど無意識のままフレーズを弾いた。弦には錆が浮きチューニングもメタメタだが、さすがに本物だけあってボディの鳴りが良い。型は古いが、むしろ俺のやつよりもいいかもしれない。
「キャーあーくんやっぱりギター持つとステキー」
雪江がそう叫んで俺の隣に飛んできた。
「ほほう、やっぱプロだね」
荒木が感心している。
「やっぱりそのギター、本物だがした。われごどしたな、あいづさ。ちぇっと貸せ、つってそのままなんだ。高校出て県外行ったからもういいがぁ」
それは借りパクという。
「入籍終わって落ち着いたらさぁ、ここで軽く弾いてくれるかな?学院の軽音部の連中にたまにやらせてるんだけど、ヘタでなぁ」
「喜んで。今度来たら弦張り替えますね」
この街にやってくる理由が一つ増え、俺は嬉しかった。

(「二〇一六年三月」へ続く)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?