二〇一四年六月

scene 1

「アイ、どうするか、今日は決めてもらうぞ」

タバコの煙と落書きに彩られたバラックの部屋で、ミギが話し掛けてきた。この三年間不法占拠してきた「ジャズ研究会」の部室だ。大学に入って最初に知り合ったミギ~右田義春~と意気投合し、部員がいなかったジャズ研究会を発見し、勝手に入部してその部室を乗っ取った。その部室を根城に音楽活動を開始したのがちょうど三年前だった。ミギがヴォーカル、俺がギター。
入学時の集会で「ベースギターできるやつ!」と大声で叫んだミギに、はいよと手を挙げて応えたキタ~大北一樹~がベーシスト、ミギの後輩のリョータロー~山崎良太郎~をドラマーとして押しかけてきて、その年の学園祭で俺たちのJET BLACKはデビューした。
実際、ミギには才能があった。バンドの曲のほとんどを書き、ヴォーカルにしても非凡だった。そして何より、フロントマンとしての押しの強さは学園祭バンドのそれをはるかに凌駕していた。そして、俺たちのJET BLACKは確実に学園祭バンドからライブハウスのレギュラーへと進化していった。
「おまえは確かにバンドやりながらも最低限授業は出てたもんな。単位も大体あるんだろう?それもわかるけどよ、俺は、おまえと一緒にやりたいんだよ」
JET BLACKはミギのカリスマとしっかりした楽曲で、東京郊外のライブハウスではちょっとした人気バンドになっていった。深夜番組ながら、二回ほどテレビ出演したこともある。インディーズバンド紹介を看板にしていた音楽サイトでは常連で、「ミギ・アイ・キタ・リョータロー」というメンバーそれぞれのバンドネームはすっかり有名になっていた。
俺が雪江に出会ったのはその頃、一年半くらい前。
「知ってるだろう、BBミュージックから話がきてんだ。デビューできるんだよ、一年で。おまえも言ってたろ、いつまでも学祭バンドじゃ、ライブハウスバンドじゃ、ってよ」
我ながらギターは巧いと思っていた。それにミギには及ばないながらも曲も書ける。俺たちの代表曲、"Straight Flash"は俺が書いた。何よりJET BLACKはミギと俺のバンドだという意識は強かった。
ステージアクトの旺盛なミギと静かなステージングの俺は、いいコントラストだったと思っている。俺たちの記事が載った音楽雑誌には動のミギ、静のアイと書かれていた。

「徳永愛郎、大学四年。就職先未定」

ミギが茶化した。もう六月になっている。求人が多いとは言えない世だ。たいていの学生は大学三年の夏には就職先が決まっている。

しかし俺は生来の優柔不断で、音楽で身を立てるか、どこかの会社にでも就職する普通の生活を取るか、答えを決めかねていたのだ。

「永久就職って手があるさ」

俺は無理やり笑って答える。だが、大事にしなければならない。雪江のことを。


scene 2

雪江は友達に連れられて俺たちのライブへやってきたのだそうだ。ライブハウスでの人気が右肩上がりの頃だ。雪江を連れてきた友達のほうは何度か顔を見たことがある。古株のファンで、リョータローの彼女を自称していた。ライブがはねたあと彼女たちと居酒屋にくりだし、したたかに酔っぱらい、気が付いたときには俺は雪江の隣で寝ていたのだ。それから俺は雪江の部屋に居着いたのである。
俺は埼玉の所沢にある実家から大学に通っていたが、もう練習やライブで家に帰るのは二週間に一度くらいだった。ほかのバンドメンバーの部屋を泊まり歩く日々だったのだ。雪江の部屋に居着くころには、俺の着替えや荷物はだいたいがミギの部屋にあったくらいだ。
実家の両親と兄貴はもはや何も言わなかった。俺が実家に近寄らないほうが近所に恥ずかしくないのだと兄貴が言っていた。俺の髪は、そのころにはもう見事なロングの金髪だったから。
この間、雪江の部屋にいかつい顔をしたオヤジがいきなりやってきて、俺を見るなりいきなり怒鳴り出した。訛りがきつくて何を言ってるのか全くわからなかったが、雪江がそのオヤジと同じ訛りで怒鳴り返し始めたのには正直びっくりした。どうもこのオヤジは雪江の父親で、雪江の部屋に俺が転がり込んでいることが原因で怒っているのだという事が理解できた頃には、怒鳴り合いは終了して雪江はさめざめと泣き、オヤジは何事か口走って部屋を出て行ったのだった。
オヤジの言葉の中に「勘当」という単語が出てきたような気がするから、多分雪江は勘当されたのだろう。
「雪江、大丈夫か」
「うぅん、大丈夫なごどは大丈夫だげっと…」
雪江は訛りを隠すこともなく話しはじめた。何とか、理解できる程度の訛りだ。
「おまえ、田舎は」
「ウン、やまがだの、寒河江ってゆて、山形市内がら少し離っでっけど…」
なにやら普段と違う言葉を話す雪江が薄気味悪いような、かわいらしいような、複雑な気持ちだった。
「今の、親父さんか」
「うん」
「はっきり言って何をしゃべってんのかさっぱりわからんかったが、怒ってたな、俺のことか」
「…なにつまらねおどごどちちくりあってんなだ、ほだなごどさしぇるためおまえばとうきょうのだいがぐさやたなんねんだ、ってやっだな」
「わりいけどよ、さっぱりわかんねぇ…」
雪江が少し落ち着いたらしく、微笑んだ。
「だからね、つまんない男とセックスしやがって、おまえをそんな娘にするために東京の大学にやったんじゃないぞ、って言われたのよ」
ようやく普段の雪江に戻った。
「おまえ、やっぱすげえな」
「何が」
「二ヶ国語しゃべれるじゃん」
「バカなこと言ってるんじゃないよ。相手が山形弁使わないと、出ないよ、こっちも」
「勘当って言うのはわかったんだがな」
「うん、二度と帰ってくるなって」
「そうか」
「だから、帰るところなくなった」
「そうだな」
我ながら間抜けな答えだとは思ったが、気の利いたせりふなど全く思いつかなかった。
「大事にして」
「わかった」
なんだか、こんな短い会話だけで通じているのがおかしかった。俺は雪江にのしかかっていった。
「つまんない男がするぞ」
「つまんない男とじゃなきゃ、しないのよ、あたし」
俺の下で雪江が笑った。
三回やった。


scene 3

「アイ、もう一回言ってくんねぇか…」
例の部室のなか、ミギが俺の顔を覗き込んだ。
「なんか信じられない言葉が聞こえたよ」
ミギの声には怒気が混じっている。
「…抜けさせてもらう…」
雪江の親父に怒鳴り込まれてから二週間くらい経っていた。リョータローがドラムを叩き鳴らし、キタが散発的にベースを弾いている。俺たちの会話は聞こえていないようだ。
「正気か、アイ」
ミギが怒りを抑えるように、静かに尋ねる。
「あぁ、マジだ」
俺はミギの眼に正確に視線を集中させ、静かに答えた。
「ざけんじゃねーよ!」
ミギが激昂する。リョータローはシンバルを叩いたところで驚いてドラミングをやめ、キタは間抜けなフレーズをつまびき、ベースアンプをハウらせた。
「悪いとは思うが、決めた。抜けさせてもらう」
傍らに置いていたギターを引き寄せ、俺はネックをつかんだ。指がフレーズを正確にトレースする。
「なんでだ、アイ」
大声を出して我に返ってしまったミギが姿勢を正して俺の前に座る。ミギという男はこういう男だ。動のミギ、と言われてはいるが、ステージではすべて計算ずくで暴れている。感情的に動くのはむしろ静のアイと言われた俺のほうだ。
「何だよ、その話」
リョータローがスティックを回しながらやってきた。キタが続く。
「抜けるって、JET BLACKを抜けるってことか」
「アイが他に抜けるってったら、アレくらいなもんだろ」
ミギが手を軽く握り、上下させて茶化した。だが眼は笑っていない。俺だけがへへへと笑った。
「言えよ、理由」
キタが伏し目がちに尋ねる。ベーシストのイメージをそのまま擬人化した、寡黙な男だ。キタだけが髪の長さも色も服装も、まったく「普通」だ。
「雪江と、結婚する」
三人に取り囲まれた俺は、それだけ言うのがやっとだった。リョータローが大きなため息をつき、左の二の腕に入れたばかりの髑髏のタトゥーをなでた。
「アイがそんな事言うとは、正直、思わなかった」
俺と雪江が知り合うきっかけを作ったのは、リョータローだ。実際リョータローの彼女は雪江と親しいわけではなく、友達の友達、程度だったらしいのだが。リョータローはその女のことなどほとんど忘れている。メンバーの中では一番若いが、女性関係は派手な男だ。
「女と結婚するためにバンド抜けるって、今更どうするんだよ」
リョータローが銀色の髪に手をやり、またタトゥーをなでる。
「今から丸坊主になって、スーツ着て就職活動かよ?」
「必要ならやるさ」
アンプを通さないギターの音は寂しい。
「仕方ないだろ」
キタがつぶやくように言った。
「ミギ、そうだろ」
ミギは押し黙ったままだ。
「ずっとやってきたけど、バンドってそういうもんじゃないの」
キタは核心をついた一言を言ってのけた。
「そうだな、キタ。お前の言うとおりだ」
ミギがようやく口を開いた。
「中坊のころからバンド組んではヤメ、組んでは抜け、また入りだったな」
「あのボウイやXジャパンだって、抜けたやつはいるんだよな」
我ながら間の抜けたフォローだ。
「もういい、アイ」
ミギが立ち上がる。
「抜けたいなら仕方ない。勝手にしろとしか言えねぇ」
リョータローは俺をにらみつけている。
「アイ、俺はミギについてきた男だけどよ、あんたのこともキタのことも大好きだったよ」
リョータローだけが唯一大学生ではなく、いわゆるフリーター、まだ二〇歳になったばかりだ。ミギが昔やっていたバンドのドラマーで、アーティストとして、人間としてのミギに心酔している。
「たかが女のことで命より大事なもん辞めるなんて、見損なったわ」
あごを突き出し、挑発的な態度を取るリョータローに、俺はキレた。無言のまま立ち上がり、前蹴りでリョータローを蹴り飛ばした。静のアイではないのだ、俺というやつは。
「口のきき方に気をつけろ!」
「殺すぞこの野郎!」
リョータローはメンバーでは一番気が短く喧嘩っ早い。対バンとの喧嘩沙汰はリョータローの担当だ。俺に蹴られてしりもちをついたかと思うと、あっという間に立ち上がって俺につかみかかった。そしてそのまま倒れこみ、床を転がる。
「たかが女だとこのガキ!」
「悪いか、ヘタレが!」
リョータローの蹴りが俺の腹に決まる。
「よーし終わりだ、お互い蹴りが一発づつ!」
ミギが叫んだ。相変わらず、いい声をしている。リョータローがぴたっと動きを止めた。
「リョータロー、お前も口を慎め。たかが女なんて、そういう言い方は雪江ちゃんに失礼だ」
尊敬するミギにやんわりと怒られたリョータローは、下を向いてうなだれる。雪江は俺の彼女として、JET BLACKのメンバーたちは身内扱いしている。身内をけなすなということだ。
「アイもキレるのが早すぎんよ」
「悪かったな、リョータロー」
俺もミギには逆らえない。素直に謝った。リョータローもわりぃ、と小さな声で俺に謝る。
「わかったよ、アイ。お前は真剣に考えて雪江ちゃんと結婚するって決めたんだろ」
「あぁ、それだけは本当だよ」
「雪江ちゃんと結婚してなおかつJET BLACKでブレイクするってことは、お前のシナリオにはなかったわけだな」
「ないわけじゃないさ」
実際、それが最も理想的なのだ。
「雪江は一人娘なんだよ。田舎の山形じゃ名家らしい。結婚するには俺が婿養子になるしかない。雪江を幸せにするには、バンドマンじゃだめなんだよ、結局」
リョータローの蹴りはやはり強烈だった。声を出すのが億劫になる。
「そうか、そこまで考えたんならもう何も言わねぇよ」
ミギが初めて微笑んで俺を見た。
「JET BLACKがブレイクした後に結婚が発覚したら、イメージダウンになるだろ」
俺はつまらない冗談を飛ばす。キタが小さく笑った。
「結婚式には、いかねぇからな」
ミギがまじめな顔で言った。
「呼ばないでくれ。山形なんてド田舎に行ってる場合じゃない」
「わかったよ」
俺が旧家だと明かした、雪江の家格のことを思っての冷たい言い方であることは良くわかった。
「今度のキモノ・マーケットのライブが最後だ。そこでアナウンスするぞ。いいな」
「わかった」
「お前の後釜はな、もう決めたよ」
リョータローにタバコをねだり、火をつけてもらってミギが事務的に言う。ミギは喉をいたわるために去年からタバコをやめているはずだ。
「えらく早いな」
俺もタバコをくわえた。
「決めたというより、そいつしかいないのさ、お前の後は」
「俺が知ってるやつか?」
「いや。だけどリョータローは知ってるな」
「コトブキ?」
リョータローがすばやく答える。
「ピンポン」
「ミギの知り合いか」
キタが尋ねる。
「リョータローとバンドやってるときギター弾いてたんだ」
ミギが煙を吐きながら答える。
「コトブキなら文句ねぇよ」
リョータローは急にはしゃぎ始めた。
「コトブキならいい」
俺のほうにちらりと視線を流し、ミギに話しかける。
「今、どこにいるんだっけな」
「今はやってない。バイト専門だ」
「ミギが声かければ、すぐに飛んでくるな」
「アイ、キモノまで、一曲作れるか」
はしゃぐリョータローごしに、ミギが声だけで俺に問いかけた。
「引退記念に、作れ。絶対だぞ」
「わかった」
俺もミギを見ずに、小さく答えた。


scene 4

「今、なんて言った?」
雪江が俺の顔を覗き込んだ。
「結婚してくれるか」
「誰と」
「お前とだ」
「お前って、私」
「あたりまえだ」
「私と、あなたが、結婚する」
「嫌か」
「ううん」
「じゃあいいんだな」
「いいんだけど」
雪江は何か判然としない様子だ。
「JETは、抜ける」
「え」
「今日、ミギと話した」
「それって」
「頭丸めて、就職活動する」
「じゃあ」
俺は精一杯おどけて言ったつもりだが、雪江の言葉は涙で詰まった。俺は少しもどかしくなったが、続けた。
「とりあえず大学は卒業できるかもしれないけど、就職だけは、今年はもうどうしようもない。親父さんにも詫び入れるから」
「山形さ…」
山形を【しゃまがだ】と発音した。
「山形がどうした」
雪江の言葉を軽く受け流し、俺は雪江を抱きしめた。
「愛してる。一緒にいよう。一緒にいてくれ」
「来てけんだがした…」
雪江は涙声で、山形弁で言い、俺にすがりつく。雪江の発した切れ切れの単語がどういう意味かはわからなかった。この言葉が「あなた、山形に来てくれるのね」という意味のことであると理解できたのは、だいぶあとのことだった。


scene 5

翌日、俺は大学のゼミに顔を出した。幸い、指導教授は俺をまだ覚えていた。
「徳永君、だったね」
篠崎というこの教授は、古代インド哲学史という全く実用的でない学問の研究者だ。たしかに、どことなくインド人を彷彿とさせる彫りの深い顔立ちをしている。
「残念だけど、卒業は無理だよ」
「わかってます」
俺は自らの金髪に手をやり、ざっとなで上げた。
「どうしたのかな」
篠崎教授はおだやかに続け、俺に椅子を勧めた。一礼して教授の前に座る。
「色々ありまして、大学はちゃんと卒業しようと」
「うんうん」
「今さらですが、心入れ替えて勉強しますので、面倒をみていただけますか」
「しかしねぇ、前期の試験は終わったしなぁ」
「えぇ、とりあえず、卒業は来年の秋でもかまいません」
金髪をなびかせてすり寄る俺に、篠崎教授がちょっと引いた。
「いったいどうしたんだ、今までの君はバンド一筋だったじゃないか。あの右田君に比べればまだ講義にも出ていたけどね、君は」
「ですからいろいろ」
「有名人だからね、君たちは」
ロック好きな学生には大人気の俺たちの存在は、たしかにこの大学では浮いていた。
「実は、結婚しようと」
「はぁ?」
教授の口が全開になり、あごががくんと落ちた。
「惚れた女と、結婚します。バンドは脱退します」
教授の口はまだ閉じない。
「就職先を探しますんで、この頭もきれいに丸めますよ」
「本当かね」
ようやく教授が言葉を発した。
「マジですけど。何なら今ここで髪切りましょうか?」
「それは勘弁してくれ。迷惑だから。ただ、本気なんだね?」
「はい」
俺は少しうんざりしたが、我慢して続けた。
「とりあえず卒業させてもらいたいんです。できることは何でもしますんでよろしくお願いします」
教授に向かってもう一度深く頭を下げた。雪江のためだ。
「じゃぁねぇ、ひとつ判断材料ということで」
教授は傍らの書棚から分厚い本を取り出し、俺に渡した。タイトルは「阿育王の研究」とある。
「この本を読んで、古代インド王朝の成り立ちと原始仏教の伝搬について論じてください」
「はぁ?」
今度は俺のあごが下がる番だ。
「これは僕の先輩にあたる先生の著作でね、古代インド哲学史では必読の書なんだよ」
「はぁ」
「一週間後、提出。A4一枚二〇〇文字、二〇~二五枚。その出来を見てから考えましょう」
目の前が真っ暗になった。


scene 6

大学の学費だけは、親が払ってくれている。だが当然小遣いなどは一切なく、俺は事実上、実家から勘当されている状態だった。雪江の部屋に転がりこんではいるが、居酒屋のバイトとバンドの練習で、部屋にはただ横になるためだけに帰っているに等しい。そのために雪江と俺はちょっとした倦怠期の夫婦みたいにすれ違いの日々だったのだが、バンドを脱退宣言してからは雪江と過ごす時間が増えていた。
篠崎教授に渡された分厚い本を抱え、雪江の部屋の扉を開ける。玄関に男物の革靴と、小ぶりな女物の草履がある。俺はいやな予感がして、室内に入れかけた脚を引き戻そうとした。
「あーくん?早く入って!」
雪江の声はいつもより少し冷たく、厳しいような気がした。俺は意を決して、室内へ入った。
「はじめまして」
雪江にそっくりな中年の女性が俺を見て微笑み、挨拶を投げかけてきた。その隣で仏頂面をして座っている男は、前に一度この部屋で出会った。つまりこの二人は、雪江の両親だ。
「こ、こにちわ」
俺は緊張のあまり口が回らなかった。
「あーくん、ここ、座って」
雪江が凛とした声で俺に言った。俺は素直に従う。早くも「ムコ殿」である。
「何、この本」
座るとき、何気なく前に置いた例の本のことを雪江が尋ねる。
「いや、今日、教授に卒業のことで相談しに行って…。この本を読んでレポート書いて、その出来で判断するってことに」
「へぇ、まぁ、アショーカ王の研究って、すごい本ね」
雪江の母が本のタイトルを覗きこんで言う。俺は「アイク王」と読んでいた…。
「あらあら、ごめんなさい、あらためてご挨拶するわね。わたくし、石川菊江、雪江の母です」
「は。どうもこの度は大変なことで…」
混乱してめちゃくちゃな受け答えをする俺の頭を、雪江が横からひっぱたく。雪江の母はくすくす笑いながら続ける。
「で、横でぶすっとしてるのは、知ってるわよね、雪江の父、石川権兵衛」
仏頂面が無言のまま、あごを少しだけ引いて挨拶の代わりとした。俺は無言で平身低頭する。
「話は雪江に聞きました」
雪江の母の話す言葉は威厳を帯びた調子で、訛りもない。地味な柄の和服をさらりと着こなすその雰囲気は、ドラマとかに出てくる名家の女主人そのままだ。「阿育王」をあっさり「アショーカ王」と読むあたり、教養もかなりのものだろう。
「雪江の決めた男の方ですから、私はいいと思っております」
雪江の母がいきなり切り出す。雪江は俺を見て満面の笑みをたたえる。
「とくながあいろうさん、でよろしいのよね」
「はっ、よろしいございますです」
舞い上がってまたおかしな言葉使いになる俺の後頭部を雪江がまた叩く。今度は仏頂面も少し笑った。雪江の母も口元に手をやってくすくす笑う。
「いえ、もしかして違った読み方をなさるのかなと思いましてね」
そう言うと雪江の母は居ずまいを正し、俺に向き直った。
「雪江と愛郎さんの結婚は、基本的には認めます。ただし条件があります」
「は」
俺もつられて背筋を伸ばし、上官の命令を待つ新兵のように上を向く。
「一つには、愛郎さんには石川家へ婿入りしていただきます。つまり徳永という姓は捨てることになります。よろしいのかしら?」
「は。自分は次男でありますし、今はほとんど勘当の身でもありますし、特に名字にはこだわっておりませんです」
「まぁ、この件は親御様にもご相談なさってください。日を選んで私どももご挨拶に伺いますし」
「は。ありがとうございます」
「それに付随してですけど、結婚後は寒河江の石川家で、私どもと祖母と同居していただきます」
「は。問題ありません」
雪江と結婚すると決め、バンドも脱退し、気の遠くなりそうなレポートまで命じられた俺は、もはや自暴自棄に近い状態だった。何でも来い、という気分だったのだ。
「二つ目は、そのレポートとも関係しますかしら、かならず大学を卒業すること。留年は許しません」
「は。それが一番問題であります」
「卒業に必要な単位はいくつ残っているの」
「は」
「は、はもういいから」
雪江の母が苦笑する。俺もその言葉にようやく緊張が解けてきた。
「愛郎さんは、専攻は何なの」
「えーと。何だっけ」
「ずぶんなしぇんこうもわがらねなが、おめだば」
仏頂面がはじめて口を開いたが、何を言っているのかはわからない。笑っているがその笑いには嘲りの色がついている。
「文学部史学科でしょ」
雪江が仏頂面をにらみつけて助け舟を出した。
「そうそう。インド思想史講座です」
「で、単位は?」
「えーっと、ムロン卒論と、インド古代史と、東洋史、原始仏教論かな」
「インド古代史が、そのレポートね」
「えぇ、試験が終わっちゃって。あとの二つは後期の単位なんで何とか」
「わかりました。ちょっとその本を見せて」
雪江の母親は本をパラッとめくって著者名と履歴のところを読み、なにごとか気がついたようだった。ハンドバッグから携帯電話を取り出し、電話をはじめた。
「あぁ、おっさまだがっすー。石川の菊江でしたー。んだなっすー。んだのよー、東京の雪江のどごさきったのよっすー」
今までの流暢な標準語が、いきなり聞き取り不能な外国語になった。
「おっさまのどごさ、宍戸賢明てゆう人の、アショーカ王の研究、てゆう本あんなんねがず?おっさまだら読んだどおもうんだげっと。んだんだ、東大の、シシド、ケンメイ。んだねっす、昭和五〇年ごろの本だねっす」
「浄妙寺のおっさまさかげっだんだが、お母さん」
雪江が仏頂面に話しかけた。雪江が山形モードになる。
「んだな。あのおっさまだらめっぽう学あっさげの」
「あっかっす?んだどおもた。あんだら、ひとづたのみあんのよっす、おっさま」
雪江の母が携帯から顔を離し、俺に向き直って言った。
「愛郎さん、レポートのテーマは?」
また完全な標準語に変わる。俺はノートにメモしたテーマを棒読みで読み上げた。
「古代インド王朝の成り立ちと原始仏教の伝搬について、だいたい五千字くらいで」
「あのよ、古代インド王朝のなりだづどよ、げんす仏教の伝搬について、その本ば読んだ上で論じよ、てゆう課題なのよ。おっさま、ちぇちぇっと書ぐいべ?頼むっす、しぇーべ?おっさまだらすぐ書ぐい、頼むっす」
雪江の母はそのあとひとしきり世間話をし、電話を切った。そして俺に向き直り、静かに言った。
「そのレポートに関しては、代筆をしていただきます。後日郵送しますので、愛郎さんはそれをパソコンなり手書きなりで清書してお出しなさい。石川家が檀徒総代を勤める、浄妙寺というお寺のご住職に依頼いたしました。住職はその本の著者の先輩だそうですから、よくわかっていらっしゃるでしょう」
開いた口がふさがらなかった。
「後期の東洋史と原始仏教論は、通信教育で行きましょ。テキストをあらかじめこちらに教えてください。愛郎さんはちゃんと授業に出て、ノートを送ること。それを学院の佐藤に添削させます。卒論も、教授にテーマを出してもらいなさい。そのテーマによって、住職か佐藤に代筆させますわ」
「あ、あの、学院の佐藤って、誰ですか」
それだけ言うのがやっとだった。
「学院とは、学校法人石川学園寒河江中央学院高等学校のことです。石川家の先先代が創立した学校です。創立時は寒河江私塾といいましたが、戦後、学校法人化しました」
「佐藤先生って、私の担任だったの。世界史の先生よ」
この母娘は、俺に話すときだけ見事な標準語を操る。
「そして、あなたには教職課程を取っていただきます」
「はぁ?」
またあごががくんと落ちた。
「あなたは大学をきちんと卒業し、その後雪江とすぐに入籍し、来年度早々、寒河江中央学院高校に新採の教師として着任していただきます」
あまりのことに、全身から冷や汗がしたたり落ちてきた。
「明日私も大学にお邪魔します。単位の取得状況と教職課程の詳細についてお伺いしますわ。ついでに愛郎さんの指導教授の方にもご挨拶させていただいて。よろしくね」
俺は座ったまま気絶していた。


scene 7

雪江の母のバイタリティはものすごかった。次の日俺を引っ張って学生課へいき、とっくに締め切っていた教育課程の申し込みをねじ込み、大学に隣接した付属高校での教育実習までねじ込んだ。教育課程を取る学生があまりいなかったのがラッキーだった。
その後に篠崎教授の研究室へ乗り込み、俺の義母になることを声高々と宣言したのである。そして茶のみ話にかこつけた話題にさりげなく教授の専攻分野の話を入れ込み、例の課題を代筆してくれるという住職の話に及んだ。
そのとき教授のあごが、またがくんと落ちた。その住職というのは、教授が生涯をささげているインド哲学史とかいう学界において、在野の巨人と言われるくらいの研究者らしい。その巨人に、俺の卒業のために家庭教師のかたちで協力させると言う話を聞き、教授は平身低頭した。結局、問題のインド古代史は、レポートの提出で単位取得を認められることになった。教授への見返りは、在野の巨人への紹介だった。
「おかあさんって、すごいですよね」
義母と一緒に駅へ向かって歩きながら俺が話しかけた。「おかあさん」という呼びかけが、自分でも不思議なほど自然に口をついたことに少し驚く。実の母親のことを「おかあさん」と呼んだのは中学の半ばくらいまでだったろうか。。
「何が?」
この義母は、まさしく二十数年後の雪江だ。俺を見るしぐさの一つ一つが、雪江そっくりだった。
「いや、教養あるし、行動的だし」
「石川の女だもの」
雪江そっくりの笑顔で笑った。
「愛郎さん、石川家はね、明治のはじめあたりからずっと女系なのよ。うちのお父さんも、お婿さん」
「えぇ?そうなんすかぁ?」
そういえば、雪江の親父というのは、この名家にしては少し武骨に過ぎるような気がしていたが。
「お父さんはね、地元の大きな農家の次男坊。あなたたちみたいに恋愛なんてできなかった。ある日突然母が、婿が決まった、って言っただけよ」
「はぁ、時代ですな」
「いい人なのよ、お父さん。あんな風でちょっとコワモテだけど」
「そうですか…ところでおかあさんって、ぜんぜん訛ってないですよね」
「無理してんのよ」
義母は明るく笑った。
「私も、雪江と同じ学校に行ってたもの」
そういえば雪江の通う短大は、東日本では一、二を争う「お嬢様学校」だ。俺と違って雪江はまじめに学校に通っている。俺さえうまく行けば、俺たちは同時に卒業ということになる。
「短大に行ってたあの頃が一番楽しかったなぁ…」
「おかあさんはどうだったんですか」
「何が」
「恋愛ッスよ」
「えぇ、男と住んでたわよ、私も」
ものすごくあっさりと、ものすごい事を告白している。
「その人学生運動やっててね。そんなことやってるの珍しくなってる時代よ。酒飲んで真面目に革命を語って…ある日突然いなくなったけど」
「何だか…」
「なぁに?」
「おかあさんって、すごいっすね」
「女って、すごいのよ、キミが思ってる以上に。…さぁ、もうここでいいわ。私、もう少し東京で遊んでいくから。お父さんとも合流しなきゃ」
「はい。ありがとうございます」
「がんばってね、あーくん!」
また義母の姿が雪江と重なった。
「よろしくお願いします、おかあさん」
俺は駅に消えていく義母の後ろ姿に向けて、腰を直角に曲げて礼をした。

(「二〇一四年七月」に続く)

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