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二〇一四年七月

scene 8

篠崎教授に指定された期限日に、俺は住職が書いてくれたレポートをきちんと提出した。バカな俺でもわかるように書いてくれたと見え、雪江のパソコンを使って清書しているうちに俺にも一通り内容が理解できた。
レポートを一読した教授はただ一言、「完璧だ」とつぶやいた。「家庭教師のおかげで」と俺が笑うと、教授は真剣な顔で「君はすごい家に婿入りするんだから、がんばりなさい」と言った。そして、最大限協力する、結婚式にもかならず出席させてもらう、と何度も繰り返した。
もう七月になっている。バイトのシフトを変えてもらうよう店長に頼まなければならない。思えば、これだけ向学心に燃えたのは、入学してミギに出会い、バンドを組むまでの二ヶ月だけだった。大学四年の残り八ヶ月だけ、また向学心に燃えることになるとはついこの間までは考えられなかったわけだが。
もうひとつ、問題は残っている。俺の実家のほうだ。実家からは勘当同然である俺なので、この二ヶ月の間の激動に関しては、何一つ実家に報告していない。そろそろ、報告をしなければとは思っているのだが、長いこと実家に足が向いていないので、なかなか踏み切れないでいた。
バイトを終えて雪江の部屋に戻ると、雪江は課題のレポートを熱心に作成してるところだった。
「あら、お帰り」
雪江はパソコンのモニターから目を離さず、俺に声をかけた。
「ごめんね、もう少しで終わる」
「何のレポート?」
バイト先の居酒屋からもらって帰る余り物の食い物を冷蔵庫から出して、手早く皿に並べながら俺は尋ねた。
「うん、シュレーディンガーの猫に関する論理学的考察」
それがどんなレポートになるのか想像もつかなかった。「猫」以外の単語の意味がよくわからない。
「おまえさ、ホント頭いいのな」
「あら、バカだと思ってた?」
雪江がパソコンのモニターから視線を外し、俺を見て笑った。
「バンドマンにヤられちゃって、そいつと同棲してるような女はバカ?」
「そういうわけじゃねぇけどさ、おかあさんも学あるし」
「私、高校のときはほとんどトップだったから、テストは」
初耳だった。
「石川の娘だもの、トップ以外は認められないのよ」
「石川家って、すげぇのな、やっぱ」
「でも、普通の家だよ」
雪江は料理の並べられたテーブルにつき、炊飯ジャーのふたを開ける。
「普通とは思えないがね」
石川家は江戸時代の中期から続いている、と義母がいっていた。
「でも、お母さんが高校の理事長で、お父さんが市議会議員なだけよ。こないだ来た時は、党の本部に挨拶行ったって言ってた」
「ほら、普通じゃないよ」
「子供のときからそうだったからねぇ。おばあちゃんは田んぼと畑やってるよ。このお米はおばあちゃんが作ったやつだもん」
雪江が、いただきます、と飯に手を合わせた。
「おまえの家ってさ、いわゆる地主様とかなわけ?」
「そうだよ。戦後農地解放のとき、ほとんどなくなったって。死んだおじいちゃんが言ってた。うちの市の四分の一は石川家の土地だったって」
危うく飯を吹き出すところだった。
「それって、半端なく大金持ちじゃん」
「大昔の話だよ。おばあちゃんが子供の時は、東京の家に住んでたって言ってたな。広尾のあたりだって」
俺はまた気絶しそうになった。
「没落地主ってやつよ、石川家は」
考えてみれば、雪江はときどき難しい言葉を使う。
「今はね、自分の家で食べる分の田んぼと畑と、古い家が残ってるだけよ」
「俺の家はただのサラリーマン家庭だからな」
「そうそう、あーくんの家にごあいさつ行かなきゃ」
「うん。わかってる」
「いつにする?」
「夏休みだし、いつでもいいよ。土日なら親父もお袋も、兄貴もいるだろうし」
「じゃあ、今度の日曜にしよう」
相談があるので今度の日曜に帰る、と親父に電話をした。家に電話をしたのは二年ぶりだった。親父はいぶかしがりながらも、待っていると言って電話を切った。

scene 9

俺は埼玉県の所沢市で育った。親父は新宿のはずれにある二流商社に勤務していて、お袋は地元のスーパーでコロッケを揚げている。五つ年上の兄貴は俺よりもだいぶ偏差値の高い大学を出て、所沢の市役所に勤務している。
俺は小さい頃、お袋にべったりの甘えん坊だった記憶がある。中学に入った頃、兄貴が途中で放り出したギターを貰い、それに熱中した。その頃から俺はギター以外のことに興味を示さなくなり、家族に関しても冷淡になったような気がする。
高校に進学して本格的にエレキギターを始め、ロックにのめり込んだ。俺は所沢という街がだんだん嫌いになっていた。新宿や池袋まで電車で三十分足らずで出られるとはいえ、郊外には田んぼと畑が広がる、中途半端な田舎が気に入らなかった。ロックンロールとギターに生涯を捧げるつもりになっていた俺は、西武線ではなく中央線に近いところに住んでいなければいけないとか、本気で考えていた。
結局、なんとか二流で踏みとどまっている感じの大学に引っかかり、俺は晴れて東京へやってきた。大学は中央線沿線ではなく、東京ではなく神奈川だと言われた町田だったが。それからの俺はほとんど勉強をせずJET BLACKの活動を中心に生活してきて、ついに勘当同然の状況になり、雪江と出会ってから大きく転換していき、ついに俺は結婚へ踏み出すことになったのだ。
そして今、俺は雪江とともに西武線にゆられている。所沢からさらに二つ先の、懐かしい駅で俺たちは電車を降りた。
「ちょっと、やることがある」
雪江にそう言い、俺は駅前を歩く。
「そうだね、お土産買わなきゃ」
「お土産、みたいなもんだ」
千円カットの床屋を発見し、中に入って椅子にどっかと座って俺は宣言した。
「丸坊主にしてくれ」
雪江が小さく悲鳴を上げたが、すぐににっこり微笑んだ。ファッションだけは若い、中年の理容師が目をむいて驚いた。
「本当に?」
「はい、ばっさり」
俺の金髪はもう肩甲骨まで伸びていたが、手入れは途中で止めていたので、髪の根元は黒々としている。
「どのくらい短くする?」
理容師がそう言いながら、電動バリカンのスイッチを入れた。
「まじめな甲子園球児みたいな感じで」
俺は鏡に映る自分を眺めながら、自嘲的に笑って答えた。
「ちょっと、侘び入れに行くんでね」
ロックンローラーとしての徳永愛郎が、金髪とともに消え去っていった。
「その頭も、ステキだよ、あーくん」
キャップをかぶってきて正解だった。これがなければ、夏の直射日光が坊主頭を焼き焦がしただろう。
「まだ歩くの」
「もう少し、あの角を曲がって、信号のない十字路をまっすぐ行って四軒目」
「所沢って、都会だね」
「えぇ?ど田舎だぜ」
「寒河江に比べれば、すごい都会だよ」
俺がこれから行くサガエとかいうところはいったいどれだけ田舎なのか、少しだけ不安になってきた。
「ただいま」
ほぼ二年ぶりの帰宅だった。
「愛郎?」
お袋の声が奥から聞こえ、足音が近づいてきた。
「お帰りなさい」
お袋が出迎えたが、俺の隣でにっこり笑っている雪江を見て、一瞬顔が引きつったように見えた。
「おかあさま、はじめまして」
雪江が、義母と同じあのオーラを発散し始めた。
「まぁ、まぁまぁ、どうぞ、上がって」
お袋は急に上機嫌になって親父と兄貴を呼んだ。


scene 10

久しぶりの実家のリビングに、徳永家が集合した。
「今日は、ちょっと、相談がありまして」
俺は家族と会話することがあまり得意ではなかった。特に親父と兄貴とは、ほとんど他人のような会話になる。
「髪を切ったのか」
親父が少し笑いながら俺の頭と雪江を見比べた。
「ようやく気がついたな」
兄貴も笑う。
「いくらなんでも、あの金髪はねぇ」
お袋は雪江に笑いかけている。
「はぁ、色々と」
俺もつられて苦笑いをした。
「おとうさま、おかあさま、おにいさま、初めてお目にかかります。石川雪江と申します」
雪江がすっと下がって凛とした声で挨拶し、手をついてきちんと頭を下げたので、徳永家の面々が一瞬固まった。
「縁あって愛郎さんと知り合いまして、お付き合いをさせていただいております」
お袋が、まぁしっかりしたお嬢さんだわと小さくつぶやき、親父と兄貴は圧倒されっ放しだ。
「本日は、愛郎さんを石川家に頂戴いたしたく、お願いに伺いました」
徳永家の面々がいっせいに雪江を見て、言葉を失った。
「愛郎さんを、お婿にいただきたいのです」
雪江のその言葉に、親父がようやく口を開いた。
「あの、その、つまり、結婚、ですよね」
「はい。愛郎さんと結婚させていただきたいのです」
「はぁ」
お袋が目を白黒させる。
「本来ならば私の父母もいっしょにお邪魔いたしまして、おとうさまやおかあさま、おにいさまにご挨拶なりお願いをいたすのが道理でございますが、私は、その前にぜひ一度ご挨拶したいと思いまして。私自身を見ていただいて、愛郎さんを婿に出してもいいと、ご判断いただきたいと思いましたの」
普通ならば男のほうが女の家に行って、「お嬢さんを僕にください」とやるんだろうが、俺の場合は雪江のほうが「息子さんを私にください」とやっているわけだ。
「石川、雪江さん、でしたわね」
お袋が少し落ち着きを取り戻して静かに語り始めた。
「ご実家はどちら」
「はい。山形県の、寒河江市というところです。山形市の北西、二十キロくらいですわ。お義母さまは山形においでになられたことはございますか?」
雪江の、例のオーラが全開になっている。
「山形は行ったことはありませんけど、仙台なら…」
「仙台とは高速道路もつながっていまして、車で一時間足らずですのよ」
俺は雪江を見て、少し恐ろしくなってきていた。いっしょに暮らしていた一年ちょっと、このような話し方をしたことはなかった。布団の上では少し大胆すぎるくらいだと思っていたが、先日の義母といい、やはり上流階級のオーラというものは自然に身につくものらしい。親父やお袋、兄貴らが、二十歳そこそこの雪江に対して、まともに会話ができていない。
「お話を整理いたしましょう。私は愛郎さんと結婚させていただきたいと思っております。もちろん、愛郎さんは私と結婚したいと思ってくださっております。ね、あーくん」
ね、あーくん、のところが、普段の雪江の口調だった。俺は何度もうなずく。
「私は一人娘で男の兄弟がありません。家名を絶やすことはできませんので、私は外へ嫁ぐことができません。愛郎さんに婿養子になっていただく他ないのです」
「婿養子、ですね」
親父がようやく口を開いた。
「愛郎、どうなの」
お袋が続く。
「愛郎さんは承諾してくださいましたの。ね、あーくん」
雪江がまた、ね、あーくん、とかわいい声を出す。
「どうなんだ、愛郎」
兄貴が、雪江の、あーくん、のたびに軽くコケながら俺を質した。
「俺は、次男だし、別にどこへ行ってもかまわないと思ってるよ。雪江のことが好きだし、真剣に考えて結婚したいと思った」
雪江のことが好きだし、のところで雪江が俺にぴたっと寄り添った。
「ただ、雪江と結婚するってことは、徳永って姓をやめて、石川っていう姓になるわけだからさ、家族に対してはちゃんと、スジを通さないと、って思って」
親父が神妙な顔になった。
「それは、大学に行かせてもらったのに、ろくに勉強もしないでギターばっかりやって、しまいには家にも帰ってこなかった俺が、スジだの何だのおこがましいとは思ってるよ、マジで」
俺の言葉に、兄貴が横をむいて軽く舌打ちする。
「その罪ほろぼしとけじめのために、こうして頭を丸めてきました。雪江と雪江の両親にも、大学はかならず卒業すると誓いました。教授にも詫び入れて、面倒見てもらえることになりました」
お袋は俺と雪江を見比べて、目に涙をためている。
「俺はどうしようもないクズですが、最後のわがままです。俺を婿に出してください」
両手をついて、俺は両親と兄貴に頭を下げた。俺が家でこんなに長くしゃべったのは、おそらく初めてだったのではないだろうか。家にいる時は、短い返事と最低限の単語しか発せず、常にギターを抱えているだけだったからだ。
「山形に婿にいって、何をするんだ。農業か?」
親父が少し皮肉っぽく聞いた。
「私の母が理事長を務めております、寒河江市にある私立高校で、教師になっていただきます」
「はぁ?」
親父・お袋・兄貴の三人が、いっせいに叫んだ。
雪江はにっこり微笑みながら続ける。
「大学の教職課程の単位に間に合ってよかったですわ。向こうでは両親と祖母と同居になりますが、田舎では普通のことですので、愛郎さんには納得していただきましたけど」
お袋がまじめな表情になって雪江に尋ねた。
「雪江さん、おいくつになられるの?」
「はたちですわおかあさま」
「愛郎、おまえは」
「にじゅーにさい」
お袋は少し目を閉じ、考えているようだった。そして目を開けると、静かに言った。
「愛郎、雪江さんのお婿さんにしていただきなさい」
ものすごい反射神経で雪江がありがとうございますおかあさまと返し、頭を下げた。親父は目を閉じて腕を組み、兄貴は呆然としている。
「二〇歳そこそこでこんなにしっかりしたお嬢様は、日本中探したって何人もいるものじゃないわ。むしろこちらから、お婿にしてくださいとお願いするとこ。愛郎、雪江さんにかわいがってもらうのよ!」
「おかあさま!」
雪江が涙目でお袋の手を取り、その手を額に押しいただいた。
「きっと、愛郎さんを幸せにいたしますわ!」
お袋と雪江は、抱き合って泣き始めた。親父と兄貴と俺は、そのさまを口をあいて眺めているしかなかった。とにかく、俺の結婚はめでたくここに決定したのである。


scene 11

お袋の強い勧めで、雪江も俺の家に泊まっていくことになった。驚いたことに、雪江はちゃんと俺の分も含めて着替えを準備していた。そしてお袋と二人で台所に立ち、夕食の支度を手伝っている。
親父はもともとほとんど酒を飲まない男だし、兄貴も進んで飲むほうではないが、今日は食卓にビールが並んだ。俺も決して酒に強いほうではない。雪江と暮らすきっかけになったのは、「泥酔」だったのだが。
何年かぶりの、にぎやかな食卓だった。
「雪江さんは本当にご立派よ。お料理は完璧にできるんですもの」
「田舎の育ちですから、母や祖母に仕込まれましたの。お恥ずかしいですわ」
「愛郎、おめでとう」
兄貴が俺をはじめて直視して祝いを言った。俺が大学に入学した時でさえ、おめでとうとは言わなかった兄貴だ。
「雪江さん」
親父はビールを置いて雪江に向き直る。
「愛郎のこと、よろしくお願いいたします」
お袋と話しながら笑いこけていた雪江が、すばやくいずまいを正して、親父に頭を下げた。
「後日、日を選びまして両親も正式にご挨拶に伺いますが、こちらこそよろしくお願いいたします」
「うちは息子ふたりですが、今日は娘を嫁にやる気分を味わわせてもらいましたよ」
親父が軽口を飛ばし、皆笑った。
「雪江さん、旧家だとおうかがいしましたけど、石川家はどのくらい続いてるんですか」
兄貴がビールに顔を赤くして尋ねる。
「父で十八代目になります。愛郎さんには名前を継いでいただくことになります」
雪江がビールをぐいとのみ干して言った。実は雪江はかなりの酒豪である。
「名前?」
お袋が雪江の作った煮物をほおばりながら尋ねる。
「父は石川権兵衛と名乗っております。母と結婚するまでは岡村頼親という名だったのですけど、婿入りして石川頼親となり、祖父が亡くなったあと権兵衛の名を継ぎました」
雪江がお袋にビールを注がれながら続ける。
「あら、お父様もお婿さんなの?」
「明治時代のはじめ頃から、石川家はずっと女の子しか生まれなくなったそうですわ」
雪江はぐいぐいビールをあおる。
「今更ですが、そんな名家に、うちみたいなところから婿入りして、いいんですか」
親父が雪江のペースにはまって、ビールをぐいぐいやり始めた。
「確かに私の父は近隣でも大きな農家の出ですけど、父も母もこだわってはおりませんわ。祖父の実家は鍛冶屋だったそうですし。とくに母はとてもさばけた性格ですから、お婿さんにきてくれる人なら、私の好きな人と結婚していいって、昔からいつも言ってましたし」
あの義母なら多分そう言うだろう。おそらく同棲していたという男は、石川家への婿入りを拒んだから追い出されたのではあるまいか。
「おとうさまは、ずっと所沢でお育ちに?」
親父がようやく観念して、ビールを飲むのをやめた。
「私は、群馬の前橋で生まれ育ったんですよ。親は早くに死んじゃって、兄が親代わりでした」
前橋のおじさんと最後に会ったのは、高校の時だったろうか。
「大学を出て小さな商社に就職して、女房とは社内結婚でした」
お袋が照れ笑いをしながら、本当はあと三人から結婚を申し込まれたのだなどと聞いてもいない話をしている。
「全く石川家とはつりあわない家ですが、末永くよろしくお願いします」
親父がもう一度雪江に頭を下げた。
「愛郎、お前がよく考えて出した結果だろうからもう何も言わない。雪江さんがすばらしい女性だということもわかった。お父さんもお母さんもお兄ちゃんも、心から喜んでお前を婿に出す。雪江さんや石川家の皆さんに迷惑をかけないようにしろ」
顔を上げて俺に語りかけた親父の両目には、涙があふれていた。


scene 12

俺が使っていた部屋は、そのままにしてあった。机や本棚、ベッドもそのままだった。床には雪江の分の布団が敷いてある。俺は部屋のすみに立てかけてあったギターを手に取った。兄貴がくれた、俺のギターの出発点になるものだ。
「キモノ・マーケットで演る曲…」
引退記念に一曲作る約束をミギと交わしていた。左手の指は無意識に様々なコードをおさえ、右手が弦をはじく。
「お風呂お先に」
雪江が頭にバスタオルを巻いて部屋に入ってきた。
「兄貴が風呂のぞかなかったか」
「おにいさまたちは酔いつぶれてるわ」
雪江がバスタオルを取り、髪の滴を丹念にふき取る。
「相変わらず、酒に弱いな、ウチは」
「仕方ないよ、体質ってあるもん」
雪江はビールのロング缶を七本は空けているはずだが、ひと風呂浴びたらけろっとしている。それに対して兄貴は二本半でダウン。親父も同じだ。
「ウチは、親戚一同大酒のみばっかりだからさ」
「俺もそんなにいけるほうじゃないな」
無意識に動く指が、徐々にフレーズをつかみかけてきたようだ。
「ここ、あーくんの部屋なんだね」
「うん。ほとんどそのままにしてあるな」
「いつ帰ってきてもいいようにしてくれてたのね」
「そうだな」
俺一人がすねて、家から遠ざかっていったことを雪江が気づかせてくれた。急に涙が出た。
「そうだな、お袋も親父も、兄貴も、別に俺を嫌ってたわけじゃないんだな」
俺はギターを傍らにやり、雪江のひざに顔を埋め、すこし泣いた。泣いたのは、ものすごく久しぶりのような気がする。雪江が丸坊主の俺の頭をやさしくなでていた。
「あーくん、ごめんね。あーくんはこの家から出ることになるけど、大事にするから。許して」
普通の結婚とまるで立場が逆で、俺は泣き笑いになった。
「ははは、ごめん。泣いたらすっきりしたよ」
頬の涙をぬぐい、俺はまたギターを手に取った。雪江が俺の後ろから抱きつく。
「曲、作るの」
「あぁ。脱退記念」
「次のライブが、最終なのね」
雪江の乳房の感触と体温を背中に感じながら、俺はフレーズを追う。
「できた」
頭の中でばらばらになっていたものが、一気に形をあらわす。腰に回っていた雪江の腕をゆっくりほどくと、俺は自分の勉強机の引出しを開け、ノートとペンを探す。「世界史」と書かれたノートを発見し、半分以上残っていたページにコード進行を一気に書きつける。
「あーあ、もうダメだな」
雪江の苦笑が視界のすみにちらりと見えたが、俺の頭の中にはもうギターが鳴り響いていた。曲作りにのってくると、ほかのことは何も見えなくなり、聞こえなくなる。
「これで最後かもしれないもんねぇ…」
「世界史」のノートの残りページをすべて使い、脱退記念の曲と詞が完成したのは、朝刊がポストに投げ入れられた頃だった。

DRUNK ANGEL

なにもかもうまくいかない
世の中すべてにツバを吐きたいとき
いつもお前が現れる
ブルースにやられた夜
ギターに背中を突き刺され
お前の歌が流れてくる

安酒と辛い煙草の煙のなか
お前が微笑む、酔いどれの天使
グラスに満たした酒を体にふりまき
あやしく微笑む、DRUNK ANGEL

お前の歌で満たされる心
暗い道でうずくまってたって
いつもお前の姿が観えてくる
ブルースはもうたくさんだけど
世界中がいっぺんに叫んだって
俺にはお前の声がわかるんだ

酒を満たした荒海に泥の船を出し
お前をさがす、酔いどれた天使
飲み干したボトルを優しく抱いて
また歌いだす、DRUNK ANGEL

夜のとばりを引き裂いて
月を砕き、星を押しのけ
やって来る、今夜もまた
ハレルヤ、ロックンロールの神とDRUNK ANGEL

歌いつづけ、踊りつづけ、飲みつづける
荒野に降り立つ、酔いどれた天使
その翼はまるで真っ赤なワインのように染まる
俺のすべて、DRUNK ANGEL

「徹夜したのね」
雪江が布団からはいだし、俺の傍らへやってきてノートをのぞきこむ。
「お前の歌だ」
「…DRUNK ANGEL」
雪江が少しふくれたが、すぐに俺に抱きつき、キスの雨を降らせた。
「あーくん、大好き!」
雪江のキスは、かなり酒臭かった。

(「二〇一四年九月」に続く)

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