二〇一四年一二月

scene18

JET BLACKはBBミュージックと契約、来春に九月のライブを納めたDVDをデビューシングルがわりに出して全国ツアーに出発、冬にはファーストアルバムを出すという情報がネットで拡散した。俺の脱退がとコトブキの加入も伝えられた。福山の音楽サイトの発信だ。
秋風が木枯らしに変わる頃、ミギが大学を自主退学したことを篠沢教授に聞いた。キタはまじめに講義に出ていたので、基礎的な単位は取得していたのだが、卒論に手をつけられる訳はなく、休学だという。自主退学して推薦元の母校に迷惑を掛けたくないのだろう。
こっちは携帯の番号もアドレスも変えていないのに、何の連絡もくれないことに少し腹を立てたが、もう住む世界が違うのだとミギが言っているような気がして、腹立ちを収めた。俺は篠沢教授が感心するほどの変わりようで、熱心にゼミに通っていた。超法規的措置の教育実習も何とかこなし、あとは卒論だけなのだ。
ミギたちが大学を辞めてバンドに専念したということは、生きていく意味を探るためのスタートを切ったことだと思った。俺も、雪江とともに生き、石川家に入る決心をした以上、それに向かって全力を出さなければいけない。俺は、ロックンロールに代わる目的を見出した。
「あーくん、来週末、時間ある?」
夕食のあと、雪江が尋ねた。
「バイトが入ってるな、土日」
俺は東洋史のレポートを広げながら答えた。バイト先の居酒屋は年末に入り忙しくなっている。
「バイト代わってもらって」
雪江の声が、「石川家モード」に入っている。断れる状況ではない。バイトリーダーの権限を行使して、シフトを強制修正だ。
「わかった」
「山形に行くからね」
背筋が伸びた。
「一回、床屋に行かなきゃね」
雪江が俺の髪をなでながらつぶやく。俺の髪は何とも言いようのない形に仕上がっていた。夏に丸坊主にして、教育実習は半端な長さの髪をジェルでごまかし、この季節までただ伸ばし放題の髪だ。マッシュルームがへたったような形になっている。おまけに高校時代に使っていた何の変哲もない銀ぶち眼鏡を常にかけているし、よれたジャージ姿だし、どこかのひきこもり男みたいだ。
「JETのアイもかたなしだね」
雪江が優しく笑う。
「石川家に婿入りするのに、バカ丸出しじゃお前が肩身狭いだろ」
「たしかに勉強してるよね」
雪江の部屋では、食事用の小さなテーブルが俺の勉強机だ。その周りにはレポートの資料となる分厚い本が山積みになっている。
「バカな先生じゃ、生徒になめられる」
雪江が俺の頬をペろりと舐める。
「あたしはいっつも舐めてるけど」
俺は笑って雪江を組み敷く。雪江は俺の下で笑った。
「山形へ行って、あーくんを正式に紹介する日が決まったよ」
「ついにか」
「親戚も来るけど、もうお父さんもお母さんも認めてる事だから、挨拶程度ね」
雪江の言葉を唇でふさぎ、胸に手を這わせる。雪江の息遣いがたちまち荒くなってきた。
「まだ、妊娠はダメよ」
雪江が俺のめがねを下から外す。
「了解」
久しぶりに二回やった。


scene 19

生まれてこのかた、これだけの雪を見たことはなかった。
山形新幹線という妙な電車は、福島駅で東北新幹線から切り離され、普通のレールを走り始めた。だが、そのスピードは俺の田舎の西武池袋線の各駅停車より遅く感じる。電車は山を登って行き、窓の外はあっという間に真っ白になった。電車の高さよりも雪が高く積もっていて、窓の外は雪の壁だ。。
「あと一時間ちょっとかな、山形駅まで」
隣で本を読んでいた雪江が独り言のように言う。電車は山を降りて最初の駅に止まり、また走り始めた。田んぼの真中を、雪をけたてて疾走しはじめる。今度は西武池袋線の急行並みの速度だ。
見渡す限り、雪、雪、雪である。遠くは雪に煙って見えないが、どっちを見ても山が見える。俺の育った所沢も遠くに山が見えるが、その反対側をむけば限りなく平野だ。周りが山ばかりというのは、ちょっと異様な風景だった。
「こんなに降ったら、交通機関麻痺するだろ」
「それは東京の話」
東京では、五センチも雪が積もればすべての交通が止まる。雪が積もることを前提にしていない街だからだ。しかしこの山形ではごくあたりまえに莫大な量の雪が積もる。車も電車も人も、それを前提にして生きているのだろう。
「そりゃ、一晩で一メートル近く積もったら山形でも交通機関ストップだけど」
「それって、雨だったら集中豪雨ってやつだろ」
「かもね。でも、洪水になるわけじゃないし」
俺は小ぎれいにカットされた自分の髪をなでた。
「どうも、七三ってのは性に合わないな」
俺の地毛は、ゆるいウェーブがかかっている。それを軽く七三に分けて、グレーのスーツというのが今日のいでたちだ。大学の入学式でさえ革ジャンを引っ掛けていた俺の、人生で最初の姿だ。
「似合うよ、ちょっとホストっぽいけど」
スーツとメガネは、先月やった付属校での教育実習のために新しく買った。ちなみに、金を払ったのは雪江だ。スーツもメガネも、俺が聞いたことのないブランドの、かなり値が張るものだった。
俺は生来の近視なのだが、ステージの時は客席がぼんやりとしか見えなくて緊張しにくいので、あえてメガネをはずしていた。普段は高校時代からかけていたなんの変哲もないメガネを使っていた。むろん、メガネを新調するカネなど無かった、というのが最大の理由だ。
「あのさ、スーツとメガネのお金だけど」
「お母さんが送ってくれたお金だから、気にしないで」
本に目を落としていた雪江が顔を上げて答えた。
「ホント、似合うよ、そういうスタイルも」
雪江がにっこり笑って俺によりそい、すばやく頬にキスをする。
「ご自慢のお婿さん」
むろん褒めているのだろうが、俺はちょっと複雑な気持ちだった。
新幹線は山形駅に到着し、俺たちは電車を降り、ローカル線に乗り換える。ホームには二両編成の列車が、エンジンの唸りを上げながら止まっている。
「ヒダリサワゆき?」
「アテラザワ、って読むのよ」
左沢ゆきとかかれた車両は、扉が閉まっている。雪江が扉の横のボタンを押すと、扉が開いた。
「こういうの、高崎線とかにあったな」
「そうね、東京の電車みたく停車中にドア全開にできないよ、寒いし」
車内はほとんど高校生だ。彼らの話し声は、ディーゼルエンジンの唸りよりもやかましかった。春になったら、こういう連中と付き合うのかと思ったら少しげっそりした。
「寒河江、だっけか」
「うん、三十分くらいかな」
列車はエンジンをいっそう大きく唸らせて、ゆっくりと発進した。ちょっとだけ都会的だった窓の外は、あっという間に雪で埋め尽くされた田んぼだらけになる。そんなに高くない山が近くに見え、遠くに高い山が見える。
「ホント、山だけだな。山形って」
「そうね、川もあるよ」
走行音が変わったと思ったら、鉄橋だった。確かにでかい川を渡っている。
列車は五分走って駅で停車、というのを繰り返す。もう一度大きな鉄橋にさしかかったところで、雪江が俺に語りかけた。
「この川が最上川。最上川を越えると、私の寒河江よ」
ようやく着いた寒河江駅は、建物だけは俺の地元の所沢駅よりも新しかった。所沢駅はホームがたくさんあるが、寒河江駅にはホームが一列しかないのが違いだ。
「どのくらい歩くんだ」
荷物を抱えて寒河江駅前に降り立ち、雪江に尋ねた。
「五分くらいかな」
雪は降っていないが、駅前のロータリーはバスやタクシーが行きかうところ以外すべて雪に埋もれている。五分でも歩くのが億劫だ。
「タクシー乗ろうぜ」
「何バカなこと言ってるの」
駅前のロータリーからは二方向に道路が伸びている。一方の道路は表の街道に出ている。その街道沿いに延々と壁が続いている。もう一方の道路短く、突き当りには大きな門があった。由紀恵はその門の方へ歩いていく。門の表札を見ると、「石川」とある。
「家、ここ?」
「うん」
駅徒歩ほぼゼロ分だった。
「五分くらい歩くって…」
「うん、家はこの奥」
門をくぐる前にもう一度位置関係を見直した。石川家の壁は街道に沿ってしばらく見えている。数百メートルあるんじゃないか。道は徐々に線路から離れていくようだし、線路と道に挟まれた巨大な三角地帯が石川家の敷地ということだ。常識外れの敷地を持つ個人宅だった。
「本当は山形から車で来て、南門から入ると近いんだけど」
重厚な門の脇にある通用口を、ただいまと小さくつぶやきながら雪江がくぐっていく。俺も後を追った。中は、これまた雪に覆われた森だった。
「あのさ、ここをずーっと歩いていくと、賽銭箱とかある?」
「ウチは神社じゃないわよ」
木立の合間に家が見えた。歴史の教科書でみたなんとか城から、天守閣を切り取ったような家。
家と俺たちのちょうど真ん中あたりで、誰かが機械を操縦していた。小型雪かき機だろうか。機械の片方から雪を噴き出している。機械を操縦していた男が、こちらを見て雪江に気づき、大声で叫んだ。
「ゆぎえ様帰ってござたー!旦那様、奥様、大奥様、ゆぎえ様帰ってござったー!」
「孫兵衛おんちゃん、あいかわらず声が大きいったら」
今気がついたが、雪江はあの門をくぐってただいまとつぶやいた時から、「良家の子女」モードに突入している。
ここからは俺は雪江の付属物に変わる。雪の中を歩く雪江の背筋が、いっそうぴんと伸びていた。

scene 20

いくら歩いても家が近づいてこないような気がする。そういえば左手のずっと先のほうにも大きな門がうっすら見える。あれが南門とかいうやつだろうか。門と家の中間に、駐車場がある。雪に埋もれているが、相当な広さだ。屋根付き駐車場にはでかいセダンが三台とワンボックスが二台、軽四輪一台、軽トラック一台、その上マイクロバスが見える。四人家族ということだが、いったい何台車があるんだろう。
「クラウンがお父さんの車で、フーガが私の。レクサスはお母さんのでトラックは農作業用よ。残りの車は政治活動用ね。付き合いの関係で、車のメーカーはまんべんなくあるわ」
雪江が俺の疑問を読んで、すらすら答えた。俺は車の免許を持っていないし車にあまり興味が無いので、車名はよくわからないが。
「夕方には主だった親戚が集まるから、駐車場も一杯になるの。孫兵衛おんちゃん、駐車場の雪かきに来てくれたのね」
ようやく巨大な家の玄関が近づいていた。玄関先に、さっき遠くに見えた男が雪にまみれて土下座している。雪江が駆け寄った。
「おんちゃん、なしてほだなごどさんなねなやぁ、立ってっちゃ」
雪江が流暢な方言を発しながら初老の男に寄り添う。
「ゆぎえ様がおむこ様しぇで帰ってきてけで、こんで石川宗家は大丈夫だはぁ、ありがどさまだっすぅ、ありがどさまぁ」
孫兵衛と呼ばれた初老の男は、雪に埋まりながら土下座しておいおい泣いていた。
「一八年前の大晦日に、酒とバクチでシンショウなぐすどご、先代の大旦那様に死ぬほどごしゃがっでだ俺ば、泣いでかばってけだゆぎえ様のこどは、おら一生恩にきったがらっす」
どうもこの初老の男が、雪江のことをとてつもなく崇拝しているらしいことは判った。ただし言っている言葉の一つ一つがさっぱり理解できない。
「おんちゃん、あどいいがら、家さ入れはぁ」
雪江が孫兵衛を促し、玄関をくぐった。
「ただいま戻りました」
玄関を入ると広い土間である。小学校の頃社会科見学で訪れた民俗資料館にあった、江戸時代の農家のようなつくりだ。間口の左手には上がり口があり、その先はまたどこまで続いているかわからないくらい広い座敷になっている。その反対側は台所らしい。昔は台所と座敷の間はつながっていなかったのだろうが、今は廊下が渡してあり、台所も現代風に改築されているようだ。
「あーくん、上がって」
雪江が框に上がり俺を見下ろしている。石川家の女モードに突入していた。俺は心持ち背をかがめて、雪江の後に続いて座敷に入った。冬のさなかということで、広い座敷はえらく寒いのだが、見たこともないようなでかい石油ストーブが置かれ、蒼い炎を見せている。。十二畳ほどの座敷が四つ、そのふすまがすべて取り払われ、五十畳近い大広間になっているのだ。バイトしていた居酒屋にさえこんなに広いスペースはなかった。
そしてその大広間の奥に、これまた非常識なまでに巨大な仏壇が鎮座している。その容積だけなら、キタが住んでいるワンルームマンションと変わらないのではないか。不謹慎ながら、仏壇の中身を片付けたら、普通に男一人が立っていられそうだ。
仏壇の周りにはお盆でもないのに大小さまざまなちょうちんが置かれ、野球のバットのような図太い蝋燭と道路工事のパイロンのように巨大な燭台があり、そして炊飯器の釜のような鐘が分厚い座布団に乗っかっている。
雪江はまっすぐその仏壇の前に行き、これまたでかくて分厚い座布団に座る。俺はその後ろにちょこんと座った。雪江がでかい蝋燭で線香に火をつけ、これだけは普通の大きさの線香立てに立てる。しかしその線香立てが載る机は、あっちこっちになにかの飾りがついた派手なものだ。
そして例の釜をごんと叩くと、静かに仏壇の中に向かって手を合わせる。俺もそれに倣い、手を合わせて目を閉じた。雪江は小さな声でなにやらつぶやいているようだ。それがお経なのか、先祖に語りかける声なのかはわからなかったが、俺は心の中で「とりあえずこれからお世話になりますんでよろしく」と繰り返していた。
俺が目を開けて合わせていた手をひざに置いても、雪江の祈りは終わっていなかった。それどころか、肩が震えている。泣いているようだ。
「雪江…」
俺が小さな声で話しかけると、雪江はようやく祈りを終え、顔を上げて巨大な仏壇の中を晴れ晴れと見上げた。
「おじいちゃんに、紹介してたのよ、あなたを。このヒトが、雪江の結婚相手だよ、って。そしたら、なんだか泣けてきちゃったよ」
いつの間にか義母が後ろに立っていた。
「雪江は先代が大好きだったからね。もちろん先代も雪江をかわいがってたし」
仏頂面の義父もやってきて続けた。
「孫兵衛が雪江ばありがだがんのも、オヤズがおまえのゆうごどだば何でも聞いだがらだげの。孫兵衛なの、あの日オヤズがらすこたまごしゃがっで、ボダされっどごだっけんだがら」
「さっきのオジサン、孫兵衛って人で、代々石川の小作人の代表、みたいな家なの。ちょっと素行が良くなかった時期があって、先代から絶縁を言い渡されそうになったのよう。でも、三歳くらいだった雪江が、おんちゃんばごしゃがねでけろ、じいちゃんごしゃがねでけろ、って泣いて頼んだから、先代はいっぺんで孫兵衛を許したの。孫兵衛、うさな野郎だば今すぐボダしてやんなだげっど、ゆぎえがこでして泣いで頼むなださげ、勘弁してやっぺ、うさな野郎、一生ゆぎえさあだま上がらねぞ、わしぇんな、なれ、ってね」
「私は憶えてないけどね」
雪江が笑った。泣かせどころと決め台詞と思われる部分は、何を言ってるか一切理解できなかったが。
遠くの土間では、当の孫兵衛さんが仏壇のほうに向かって手を合わせている。
「孫兵衛、ほだなどごがらお参りしてねで、ちゃんと仏壇の前さ来てオヤズさあいさづすろ」
仏頂面が大声を出す。だが、その声に怒りは含まれていない。政治家だけに、根は人情家なのだろう。雪江が仏壇の前から脇へよけ、孫兵衛を座布団にいざなう。孫兵衛は静かに手を合わせていたがまた嗚咽を漏らし始め、閉じられた両目から滝のように涙が流れ始める。孫兵衛は祈りを終えると座布団を降り、また雪江に向かって平身低頭しながら号泣し始めた。
「ゆぎえ様、いがったなっす、ほんてんいがった、おんちゃんなの、今すんだてしぇーはぁー」
「良かったね、良かったね、孫兵衛おじさんはもういつ死んでもかまわないくらいだよ、って言ってるのよ」
義母が通訳してくれた。
「おんちゃんさ、なんでもゆってけろな、なんでもすっさげな、ほんてだぜ、ほんてん」
「孫兵衛、あどしぇーさげ、すこすおぢづげっちゃ」
仏壇の脇から、小さな塊のようなものがゆっくり出てきて、声を発した。俺は思わず悲鳴を上げた。
「何おどろいてんの、ずっといたじゃないの、おばぁちゃん」
「気がつかなかった」
おばぁちゃんと呼ばれた物体は、雪江の隣にやってきた。本当に小さいが、のろのろしたところはなく、まるで畳の上を滑るように歩く。号泣していた孫兵衛おんちゃんが、その存在に気づくとものすごい素早さで三歩引き、その老女に平身低頭し、畳に額をこすりつけた。
「雪江の祖母です。愛郎さんでしたね。はじめまして」
この老女も、俺に対してはすばらしくきれいな発音の標準語で話しかけてきた。
「あたしはね、子供の頃は東京に住んでいましたのよ。それで軍人と結婚して。戦争が終わるまで広尾に住んでおりましたわ」
雪江の祖母は、仏壇の横の鴨居に掛けられた遺影をちょっと振り返り、にっこりと笑った。やはり、雪江の六十年後の顔だった。俺はようやく正気に戻り、あたふたと頭を下げる。
「し、失礼いたしました。徳永愛郎と申します」
「おやまあいい男じゃないか。あたしの連れ合いにどっか似たところがあるよ」
祖母はミギの江戸ことばを思い起こさせる発音で軽口を叩き、義母と雪江はそれを聞いて明るく笑う。
「まんず孫兵衛、あどしぇーさげ、ごっつぉ出すな手伝ってけろ。いまいま旦那衆みえんだじぇ」
祖母が平身低頭を継続中の孫兵衛おんちゃんに向かってネィティブの訛りで語りかけると、おんちゃんは大きな声ではいっスと答え、土下座のまま三歩下がり、ものすごい速さで身体を切り返して部屋を出て行った。


scene 21

山形は東京に比べ、夕暮れが早い。季節はもう冬至に近く、午後四時を回ったばかりだというのに、窓の外は薄暮の状態だ。だが、降り積もった雪がうっすらと光り、なんとも絵になる景色だった。
「あーくん、席について」
雪江が料理を配膳しながらよく通る声で俺に言う。
「ゆぎえ様、ほだなごとすねでしぇーさげ、すわってでけらっしゃい」
孫兵衛おんちゃんが料理の皿を並べながら雪江に言う。
「主役の人さ、さしぇらんねべず、ごっつぉ出すなのよぉ」
言葉がよくわからないのは相変わらずだが、雪江にお膳の準備などせずに座っていろと言っているのだろうことはなんとか理解できた。
「そろそろ皆来っさげ、あどしぇーがら、座てろ、ゆぎえ」
義父がのそっと部屋に入ってきて、自分の席~座敷の上座向かって右端~に座った。
「愛郎君も、座れ」
義父がはじめて俺の名を呼んだ。俺はあわてて席に近づいたが、どこに座っていいかわからない。雪江が義父のとなりを指差す。上座の真ん中、お誕生日席だ。座ってみて驚いたのだが、座布団と膳が十の四列あり、その先の下座には大きな座卓まで置かれている。ざっと数えたら座布団にして五十枚以上だ。
雪江と並んで座布団に座る。正座するのはあまり得意ではないのだが、あぐらをかける雰囲気ではない。となりの義父が、正面を見据えたまま話し始めた。
「これがら、おらえの主だった親戚衆ど、俺の支援者、県連の幹部、学院の先生なんかが来っから」
おそらく、とてつもなく偉い人ばっかりなのだろう。
「愛郎君は、まだ慣れでねべがら、あんますしゃべねで、はいとかいいえだどが、そのぐらいでしぇーさげ」
しぇー、というのが、「いい」という言葉が訛ったものだと判ってきた。つまり、あまりしゃべらずに、何か聞かれたら短い返事だけしていろ、ということだろう。どうせ何を言われてるのかわからないだろうから、願ってもないご指示だ。
「はい、わかりました」
俺のほうを見ずに話していた義父に挑戦するように、俺は義父のほうへ首を曲げ、返事をした。義父が目だけ動かして俺を見て、また目を正面に戻す。その目の動きを合図にしたように、今宵の招待客がいっせいに広間へ入ってきた。
それぞれの招待客がうろつくでもなくきちんと着席するところを見ると、家格や役職によって席次がほとんど決まっているのだろう。もっとも上座に袈裟を着たお坊さんとほっそりした生活感のない老人が最後に着席し、義父が口を開いた。
「ほんじづは、おいそがすいどごわざわざおいでいだだぎまして、まことにありがどうございます」
一応標準語でしゃべっているつもりらしい。
「かねでより皆様がださご案内いだしましたように、当家のゆぎえの婿が決まりました。とぐながあいろう君であります。本日は彼のご紹介にとどめまして、後日、日取りを選びまして結納の儀、とりおごないますので、よろしぐ、おねがいいたします」
招待客が、いっせいに義父のほうに向かって頭を下げた。招待客の下げる頭の方向が、すべて義父に集中しているのが良くわかった。
「では、ゆぎえよりひとごどごあいさづ申し上げます」
雪江が一礼する。招待客が雪江に向かって頭を下げた。
「皆様、本日は雪で足元のお悪い中おいでいただきまして、まことにありがとうございます」
雪江が流麗な標準語で話し始め、一礼する。また礼が返ってきた。俺はいっしょに礼をすべきかどうかちょっと考えたが、頭を動かさず一点を見つめることにした。
「今、父がご報告申し上げましたように、私もようやく婿を迎えることとなりました。ご列席の皆様方にはこれまでひとかたならぬお世話をいただきまして、そのありがたさには、私、お礼の言葉もございません。本日は私の選んだ方を、お世話になりました皆様がたに一刻も早くご覧に入れたいと思い、ご足労を願った次第でございます」
雪江が一気に語り、俺をちらりと横目で見た。一瞬考え、雪江の要求が理解できた。
「徳永愛郎と申します。若輩者ですがよろしくお願いいたします」
ちょっと声が裏返ったが、大きめの声で挨拶し、一礼をした。今度は、ちゃんと俺のほうに向かって礼が返ってきた。
「本日は、粗酒粗肴ではございますが、ご用意させていただきました。どうかお手元のものをお召し上がりくださいませ。順にお席へご挨拶に伺わせていただきとうございます」
雪江がそういうと、招待客がようやく足を崩して料理をつつき、酒を酌み交わし始めた。
「よくできました」
雪江がにっこり笑って俺のグラスにビールを注ぐ。
「上出来よ」
義母が笑う。義父もにやりと笑った。
「キミが徳永君か、氏家だ」
袈裟を着た坊さんが俺の目の前やってきた。
「浄妙寺のご住職よ」
雪江がすかさず横から囁いた。
「は、ご住職ですか、その節はまことに」
俺の首をつないでくれた、大恩人でもある。実物を見るにつけ、袈裟を着てはいるものの、住職というよりはやはり学者のような雰囲気である。
「お前の指導教授、篠沢といったな」
「は」
「調べてみたら、ワシの弟子にあたるな。東大でインド哲学を学んでおったときの後輩が宍戸で、大学に残って教授になったそいつについていたようだ」
この人の偉さというのはたぶん、インド哲学とかを真剣に学ぶ者にとっては、神様に近いものなんだろう。
「おっさまの弟子筋がっす」
もう一人の上座が俺の前にやってきた。
「佐兵衛のおんちゃんよ」
雪江が紹介する。
「どうもはじめまして」
俺はグラスを押し戴き、注がれたビールを飲み干す。
「五代目の権兵衛から分がっだ、分家筆頭だ。親戚うぢでは長崎、佐兵衛で通ってる」
義父が簡単な説明をする。
「おお、おらぇのほうは長崎でな、左沢線乗って来たべ、寒河江のふたつ前の駅だ」
「ながさぎはちっちゃい町だげっと、戦前まではながさぎのほどんどは石川の土地だっけんだ。駅の建物は佐兵衛の蔵のひとつば移して建でだぐらいだがらな。ながさぎえぎ、でねくて石川えぎ、になるはずだったんだど」
義父が酒を飲みながら補足する。
「おれは宗家ど違って、何にもすねがらよぉ」
佐兵衛さんはまったく何も面白くないポイントで大爆笑した。
「佐兵衛のおんちゃんは、学者なのよ」
雪江がまた補足説明をする。
「フランスぶんがぐさ、この身ばささげだのっだんねぇ」
全く生活感が感じられない理由は、学者先生だからか。
「仙台の大学で講義してるのよ」
フランス文学とこの訛りはあまりつりあわないような気もするが。
「分家はあわせて五つあるが、大東亜戦争前、宗家と五つの分家の土地を合わせると、いまの近隣七市町村の面積の五分の二くらいは石川家の土地だった」
住職が日本酒を煽りながら説明する。
「日本有数の地主ということでな、大東亜戦争の後はGHQが直接乗り込んできたそうだ」
住職が大笑いする。酒の量を見ると、やはり住職よりは学者のほうに力点が置かれているらしい。
「はじめまして」
地味なスーツを着込んだ男が俺に酒を注ぎに来た。
「柴橋の吉兵衛おんちゃん」
「八代目からわがっだ分家だ」
雪江と義父が素早く紹介を終える。
「柴橋、ってゆってもらっていい」
訛りはあるが、かなり聞き取りやすい。
「柴橋はほとんど毎週東京さ出張しったさげの」
「仕事だがら」
「柴橋は会社やってんだ。半導体の工場」
「うちの大学にも就職の案内来てたよ」
雪江の学校はかなりのお嬢様学校だ。
「奥羽精密って会社よ。工作機械用のLSIじゃ、世界的に有名らしいんだけど。家電なんかと違って表に出ないもんね」
「職人の世界だよ、ユキちゃん」
柴橋石川家の吉兵衛の会社はもともと農機具を製造する鉄工所で、先代が農業に関する機械製造のために創業した。農業の機械化に合わせて電動脱穀機や電動精米機を作り始めたが、後を引き継いだ当代が大学で学んだ半導体の製造に着手し飛躍的に業績を伸ばし、山形県の代表企業のひとつになっているということを後で俺は知る。当代の吉兵衛は、怜悧な経営者の顔と職人の手をしていた。
「やっぱり百姓がいづばん強いんだず」
入れ替わりに、真っ黒に日焼けし、汚れが落ち切らない作業着に農協の帽子といういでたちの男がやってきた。
「東根の又兵衛おんちゃん」
「東根石川家、九代目から分岐」
義父がまた短い紹介をする。
「半導体なの工場でこしゃういげっと、さぐらんぼだばさがだづしたて工場でつくらんねべ」
今まで出会った誰よりも、言葉が理解できなかった。単語、イントネーションすべてが日本語とは思えない。
「たぶん、日本で一番大きいんじゃないかな、果樹生産農家としては」
「先先代のどぎがら、さぐらんぼつくったっけがらな~」
又兵衛は大笑いしながら俺に何度もグラスを突き出す。俺はそのたびにビールを注いでやるのだが、すべて一口で飲み干してしまうのだ。
「つぢどお天道様さえあっば、百姓で食っていぐいなださげ」
ようやく意味がわかったが、土と太陽のほかにも、又兵衛おんちゃんという人には酒が必要だろう。
又兵衛おんちゃんと入れ替わりに、いっそういかつい男が俺の目の前にやってきた。
「左沢の軍兵衛だ」
近くに寄ってきたこの軍兵衛と名乗った男は、どうみてもいわゆるヤクザにしか見えない。筋肉質で浅黒く日焼けしている。昔、町田でヤクザにからまれた時のことを思い出してしまった。俺のグラスに無言でビールを注いでくれたが、酌を受ける俺の手は小刻みに震えていた。義父が軍兵衛おんちゃんににじり寄る。
「軍兵衛、あの件は大丈夫だが」
義父が声をひそめて話しかける。
「しぇーさげ、俺さ、まがせでおげちゃ、兄貴」
この義父だって、けっして人相がいいとは言えない。誰が見ても美人とほめられる雪江の実の父親であることが、いまだに信じられないくらいなのだ。二人のひそひそ話は、暴力団の幹部が地上げの相談をしているようにしか見えない。
「お父さんも軍兵衛おんちゃんも、しごどのはなすばりすねでよ」
雪江が方言モードになっている。アルコールがまわってきたらしい。宴席で酌をして回っていた雪江が、俺の隣に戻ってきてぴったりと身を寄せた。
「軍兵衛おんちゃん、雪江の旦那、しぇーおどごだべ?」
「ンだな、ユキ、しぇーおどごみつけだもんだ、おんちゃん、正直うれすぃ」
雪江を前にすると、凶悪な軍兵衛の相好が一気に崩れる。
「軍兵衛おんちゃんはね、左沢で、総合建設業を営んでいらっしゃるのでした」
「土建屋だず」
軍兵衛おんちゃんが大笑いした。
「雪江ね、おんちゃんのダンプに乗せて貰うの大好きだった」
雪江がヤクザに抱きついて、頬にキスをし始める。怪しげなキャバクラそのままの光景だ。
「ゆぎえ、いい加減にすろ」
さすがの仏頂面も苦笑して、自分の娘を叱る。宴はすっかり打ち解けていた。東北の人間は酒が強いとは聞いていたが、聞きしに勝る酒量だった。孫兵衛おんちゃんが空いたビールのビンや一升瓶をてきぱきと下げているが、あっという間に酒のケースが積み上がる。
「あいさつが遅れました」
まったく訛りのない標準語を話す男が、酒にやられつつある俺の前にやってきた。
「東京の五兵衛だ」
仏頂面が酒に顔を赤くして紹介する。義父もそう酒には強くないようだ。俺は少し焦点の定まらない目で五兵衛という男を眺め、一礼した。
「おじさん、ごめんね、この人お酒強くなくて」
雪江が標準語で答えた。
「あたしらが住んでいた広尾の家や、他に東京に持っていた不動産を元手に運用してるのさ」
祖母がこれまた軽妙な江戸訛りで横から付け加える。いつの間にここに来ていたのか、まったく気がつかなかった。
「御一新の頃、江戸にあった山形の殿様の上屋敷やら下屋敷やら米蔵やらをそっくりそのまま買い取ったんだとよ、お武家様は貧乏だったさげの」
義父の表情が少し緩んできた。
「御一新の頃に分家した五兵衛が東京に出て、その家屋敷を明治政府に賃貸したんだそうだ。あの三菱ほどは商売っ気がねがったがらこの程度でおさまってんなだ」
「ひいじいさんは商売人じゃなくて風流人だったそうだから。じいさんとオヤジが土地を切り売りして、その資金で株や相場をやってね。僕はその資金を受け継いで投資会社をやってる」
「おじさん、ダメよ、この人は世界史専攻で、経済にはまったくうといから」
雪江が標準語モードで語りかける。
「そうらしいね、佐兵衛さんのほうかな」
山形の地では、五兵衛さんの爽やかな発音はむしろ違和感があるように感じる。
「五兵衛さんは俺の会社でだいぶ儲げだもんな」
吉兵衛がかすかな訛りで話しに入ってきた。だいぶ酔ってきているらしく、経営者の顔でなく職人の顔になってきている。
「奥羽精密には、本当に世話になったよね。今だったらインサイダーで一発で手が後ろに回ってる」
「今からでも遅ぐねえべ」
吉兵衛が爆笑した。
「ンでも、あんとぎ融資してもらわねば、絶対に倒産してたかんな」
「こっちも大博打だった。何しろど田舎の農機具メーカーがLSIだってんだから、アタマ大丈夫かって」
この二人は経済というキーワードでウマが合っているらしい。そして農家の又兵衛と土建の軍兵衛も、土というキーワードでつながっているようだ。そして分家筆頭である学者の佐兵衛が本家と分家をうまく取り結んでいる。
俺は酔っ払ってきた頭でなんとかこのとんでもない一族の関係を整理していたが、又兵衛おんちゃんに注がれた日本酒をあおったところで記憶が途切れた。

scene 22

ふかふかの布団の中での目覚めだったが、頭の中で相撲取りがシコを踏んでいるのに等しい頭痛のため、しばらく動けなかった。薄く目を開けて頭を動かさず左右を見ると、どうも客間らしい部屋で、ひとりで寝かされたようだ。結婚前、ということで一応は雪江と寝室を分けられたものらしい。周りを見回すと、どうも十畳以上ある部屋らしく、朝の冷気が顔をなでている。
「愛郎君、ご飯だよ」
ふすまが開き、東京生まれ東京育ちの五兵衛さんがさわやかな笑顔で俺を起こしに来た。俺は早くもムコ殿が体にしみついてきたらしく、その声に飛び起きた。そして強烈な頭痛によってまたばったりと倒れこんだ。五兵衛さんがさわやかに笑う。
「ははは、やっぱりダメか。でもね、無理にでも飯を食ったほうが、二日酔いにはいいんだよ。ほらがんばって、起きた起きた」
五兵衛さんに促されて、俺はようやく起き上がった。
「パジャマのままでいいから、朝のご挨拶をして」
五兵衛さんのあとに続いて廊下を歩く。冬の朝の寒気が少しだけ頭痛を癒した。それにしても、この廊下の長さもただ事ではない。石川家が集まる居間につく頃には、寒気で目が完全に覚めた。
「おはようございます」
どこまでもさわやかな五兵衛さんの朝の挨拶にかぶせるように、俺は口だけを少し動かして声を出したふりをした。
「おはよう」
「おはよう」
「おはよう、あーくん、おじさん」
義母・義祖母・雪江の挨拶に続き、義父だけが新聞に目を落としたままもごもごとあいさつらしき声を出した。
「石川家の、ある意味最も重要なルールなんだ。朝は、可能な限り家族全員で朝食を取る。そして挨拶を必ずする」
そう言いながら五兵衛さんが席に着き、俺も席に着く。言われてみれば、雪江と一緒に暮らすようになってから、朝飯を食う回数が飛躍的に伸びた。そして雪江は、必ず「おはよう」と「おやすみ」、「いただきます」、「ごちそうさま」を言っていた。
エプロンをつけた雪江と義母が家族の食事をてきぱきと並べる。焼き魚、玉子焼、味噌汁など決して豪華ではないが、手抜きのない料理が朝の食卓に並んでいる。
「ハイ、二日酔いにはお味噌汁」
雪江が微笑みながら俺に味噌汁の椀を手渡した。義母と義祖母と五兵衛おじさんは未来の若夫婦の姿を優しく見やり、一方義父はますます不機嫌になった。
雪江に渡された味噌汁を一口すすり、胃に流し込んだ。するととたんに胃が軽くなる。一口また一口と、俺は味噌汁を飲み干した。
「おいしい」
「あたりまえさ、寒河江で一番古い醤油屋のもんだ」
「おかわりいいですか」
義祖母はにっこり笑って俺の差し出した椀を受け取ると、たっぷりと味噌汁をついでくれた。もう何年も忘れていたような気がする、家庭の味を俺はむさぼり食った。
暖かな朝餉に二日酔いも収まり、ようやく人心地がつく。食後の茶をすすりながら、義父が俺に語りかけた。
「だいがぐのほうは大丈夫だが」
まだたった一日の滞在だが、俺の山形弁聞き取り能力は着実に向上してきている。
「えぇ、住職や学院の皆さんのおかげで。卒論も下書きはできてます」
「結納ど結婚しぎの日取りだげっとよ」
「は」
俺は茶を置いて、拝聴する姿勢になった。
「しぇーさげ、らぐに聞げ」
義父はきわめて事務的に日取りを述べる。年明け早々に結納、三月末に入籍、九月の半ばに披露宴ということだった。今まで、結婚式の日取りとかは、妻になる女性といろいろと話をして決めるものではないかと漠然と思っていたが、こうまで事務的に決定されると、卒業式の日を連絡される学生のような気分でかえってさばさばしていた。俺はもう石川家に隷属する立場であると腹をくくっていたため、特になんの感動もなくそれを聞くことができた。
「んじゃ、所沢のお父さんどさでんわすっさげの」
義父が義母に目で合図すると、義母は受話器のボタンをプッシュする。俺の実家は早くも短縮に登録してあるらしい。
「あ、もしもし?徳永さん?山形の石川です~。先日はどうも~」
義母が標準語モードで会話している。それにしても先日、とは。
「先週、俺どお母さんで、とごろざわさあいさづ行ってきたさげ」
それは初耳だった。まぁ俺は頻繁に実家に連絡する男ではないが、それにしてもそんなことがあったなら、俺に連絡くらいよこせばいいのにと、両親と兄貴に対して少し腹が立った。
「電話で非常に失礼なんですけど、結納のことで…申し訳ありません、またお手紙でご連絡しますけど、まずお知らせと思って…はい、一月の十五日でお願いいたします…。すいません。えぇ、昨日から、来ていただいてますのよ、愛郎さん」
俺が来ていることまで先に連絡がしてあるようだ。
「愛郎さん、所沢」
義母が俺に受話器を渡す。仕方なく受け取ると、電話の向こうから母親の声が聞こえた。母親は終始、石川家に可愛がってもらえ、それだけ考えろと繰り返していた。もとからそのつもりだとは思ったが、ここは素直に返事をし続けた。こんなに素直な息子になったとは、両親にってはいまだに信じられないことだろう。
母親に請われて受話器を義父に渡す。義父は短く答えるだけだった。おそらく、自分の訛りをあまりさらしたくないのだろう。受話器を義母に渡し、またひとしきり日取りのことと世間話をして、電話が終わった。
五兵衛さんが茶をすすりながら口を開く。
「田舎のことだからさ、こういう義理事はどうしても、ね」
俺の中に少しだけ芽生えていた疑念を見透かしたように五兵衛さんが慰めるように言った。
「家ど家のこどだがらな、結婚しぎってのは」
「いやその前に、結婚式を挙げるってこと自体がいまだに…」
俺は正直な感想を述べた。もし、雪江以外の女と結婚することになったとして、いや、雪江が全く普通の家庭の娘だったとしたら、いったいどうやって「結婚式」を俺はするのだろうと、考えてみた。きっとJET BLACKのギタリストとして、事務所のスタッフやファンに囲まれて馬鹿騒ぎをするんだろう、なんてことが頭に浮かんだところで、今度は雪江が話し始めた。
「ひとつだけね、お父さんに頼んだのよ」
「何をだい、雪江」
義祖母が尋ねる。俺がいるところでは、江戸弁で話す事にしているのか、全く訛りのない発音だ。
「披露宴ではね、あーくんにギターを弾いてもらって、あたしが歌うの!」
「な」
俺は絶句した。だいたい、雪江の歌うところなど俺は聞いたことがない。
「ほいづばっかりは、雪江がどうしてもきがねくてな、余興の軍兵衛のうだばやめさしぇだ」
「軍兵衛の歌とか、僕も本気でやめさせたいね」
五兵衛さんが明るく笑って、義母に茶のお替りをねだった。
「愛郎君はバンドやってたってね、雪江に聞いたけど」
「マジでね、メジャーデビュー直前なんだヨ」
雪江がうれしそうに言い、俺の隣にすり寄る。義父がそれをちらりと見て、また不機嫌そうに新聞に目を落とした。
「それはすごい。ちなみに、事務所は?僕はあの業界に知り合い多いぞ」
五兵衛さんは若く見えるが、もう六〇歳を過ぎたという。
「わかりますかねぇ…BBミュージック、って。一部では有名ですけど…」
「何?BB か!」
五兵衛さんの声に、鋭さが加わっていた。
「すごいじゃないか、あの塚本に見込まれたのか!」
「おじさんも知ってるくらい有名なんだ、BBミュージックって」
五兵衛さんがまたやさしげな雰囲気に戻る。
「愛郎君、見くびってもらっちゃ困る。音楽業界は金のなる樹だ。才能のあるミュージシャンを抱える事務所は、大化けする可能性がある」
「まぁそうですね。確かにBB は、ナイロンシールズみたいな王道のロックバンドとか、甲信越愚連隊みたいなイロモノっぽいの、グリーンペッパーって女の子アイドルユニットまで取り揃えちゃってるもんなぁ」
ナイロンシールズは秋に武道館を成功させた、ライブハウス上がりの男っぽいバンドで、JET BLACKの先輩であり目標だ。
甲信越愚連隊はポップな楽曲とコミカルなステージで人気が出始めている。解散したいくつかのバンドの中で、プロ意識の高かったメンバーを塚本が呼び集めて結成させたバンド。
そしてグリーンペッパーは現役女子高生のユニットで、ライブは行わず、ネット配信だけで活動している。音楽業界の風雲児・塚本の隠し球とも言うべきアイドルユニットである。
「そうそれ、グリーンペッパー!あれが来るよ!BB は再来年にはマザーズに上場するって噂だ」
「マジっすか」
俺は思わず素に戻った。塚本社長とはJET BLACKのメンバーとして数回逢っているが、「先輩ミュージシャン」の臭いしか嗅ぎ取れなかった。
「塚本信也は、台風の目だからね」
思いがけなく会話が進み、いっそう和やかな雰囲気になってきた。義母が雪江に語りかける。
「そんな有名なバンドだったの。勿体なかったわね。ギタリストのほうが良かったかしら」
義母も訛りのない標準語を操る。
「おらえの婿が、バンドマンなてゆってらんにぇべしたや。こっぱずがすい」
義父が半分真面目に怒って新聞を置いた。多分、「ウチの婿がバンドマンなんて、恥ずかしくて言えるか!」という意味なのだろう。確かにそのとおりだ。
「まぁまぁ、でも、愛郎君がいたバンドが、かなり有力な事務所にスカウトされたってのは事実だよ、アニキ。愛郎君、ホントに、そのバンドはデビューするの?」
「えぇ、デビューシングルじゃなくて、ライブのDVDでデビューするって」
「愛郎君も、出てる?」
「観てないですけど、ステージには最初から最後まで立ってましたから、映ってるでしょうね」
俺ははじめてにやりと笑って見せた。
「アニキ、マジで婿さんはスゲェわ!石川宗家の跡取りは、芸能人だよ!」
五兵衛さんが大笑いして、義父の背中をばんばん叩いた。五兵衛さんは義父を「アニキ」と呼んだが、実際は五兵衛さんのほうが年上だ。たしかに、義父と五兵衛さんが並んで立っていたら、義父のほうが年上に見える。とにかく五兵衛さんは若く見えるのだ。
「そのDVDは、いづ出んなだ」
五兵衛さんの攻撃をようやくかわした義父が短く言った。
「たしか、三月の下旬とか」
「わがた」
義父はまたも短く言い、かたわらの手帳になにやらメモをし、立ち上がった。
「ちぇっと支部さ行って来っさげ」
「行ってらっしゃい」
義母が明るく言い、見送る。
「多分ね、菅野さんに言って、予約させるつもりよ、DVD」
「バンド名も聞いてないのに。また菅野さんから電話が来るわ、センセイがらよやぐすろ、ってやっだげんと、なにばよやぐしたらしぇーんだべ?って」
雪江が笑う。
「あーくん、ちゃんと作ってよ」
「は」
「は、じゃなくって。披露宴で私が歌う歌、ちゃんと作ってよ」
「…」
雪江が思いっきり俺の背中をはたく。
「約束よ、キモノ・マーケットん時のよりもいいヤツ!でないと離婚」
「まだ結婚してない」
軽く五兵衛さんが突っ込みをいれ、石川家の朝の食卓は明るく終了した。
そのあと、五兵衛さんは塚本社長への紹介を俺に頼んだ。いやな予感がしたが、俺のことなど憶えていないかも知れないと断りを入れた上で、持っていた塚本社長の名刺を渡した。
塚本社長と会ったのは、去年の今頃だ。ライブがはねた後、楽屋に訪ねてきたのである。伝説の男の登場に皆絶句したが、「大人と会話ができる」ミギがそつなく応対した。塚本社長は俺達全員に名刺をくれたが、居酒屋店長の名刺ではない本物の名刺をもらうのは初めてで、えらく緊張したものだ。ミギはその後も塚本社長と連絡を取り合っていたようで、それがJETのデビュー決定につながるのだ。
ミギは、塚本社長と出会ったあの時にJETの方向性を決めたのだろう。結局、俺はミギを裏切ったことになる。何度も自分に言い訳をしたものの、そのことを思うたびに心が痛んだ。

(「二〇一五年一月」に続く)

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