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西洋思想の源流と展開:現代に続く哲学の系譜を読む 藤田 昇吾 (著)

世界をより深く、正しく理解するには

日本人が知らない西洋人の思想

終わりが見えないパレスチナ紛争やロシアのウクライナ侵攻……日本人である私達からすると、これらの原因がわからないという人は多いのではないだろうか。

理解のカギは、西洋人の精神に通底する思想と、思想と表裏一体の宗教だ。

「話せばわかる」は本当か
 本書は古代ギリシアから近代哲学にいたるまでの西洋思想の系譜をたどり、私達の世界との関わりを明らかにしようとするものである。日本人はとかく「話せばわかる」と考える。しかし、それは同じ文化圏の相手や、同質性の高い集団内で通用する発想であることに留意しなければならない。
 なぜなら、西洋では政治や科学技術でさえも「直接・間接にキリスト教神の理念に基づいて、自らの理論或いは思想体系を構築している」からだ。
 たとえば米国の建国の父たちは、イギリスの国教制に反発して、政教分離を憲法に盛り込んだ。ところが実際には、米国国民のアイデンティティや価値観と宗教とは密接な関係がある。
 宗教は政治にも大きな影響力を持っているので、政党や政治家は支持を得るために、あえて宗教的な言動をすることがある。キリスト教右派と呼ばれる保守的な宗教勢力が強い地域では、中絶、同性婚、進化論などの問題でリベラル派と対立している。
 一方、ヨーロッパは啓蒙思想の影響で、リベラル派が発展した。近代主義的なリベラル派は脱キリスト教的な体質を持っており、自由、人権、民主主義、政教分離、科学などを重視し、宗教は私的なものだと主張する傾向がある。
 これに対して保守派は、神の意志や教会の教えを尊重し、宗教を公的な領域にも持ち込もうとする。リベラル派と保守派は、生命倫理、家族倫理など日常生活のさまざま問題で対立しているのだ。
 本書を読むと、西洋人の宗教と生活の密接な関係は、キリスト教成立以前からはじまっていることがわかる。

「古代ギリシア・ローマでは神々――なしには、何事も考えられず、あり得ない」

なぜ西洋人は権利意識が強いのか
 近代民主主義は、ロックの『市民政府論』を基礎としている。市民政府論は17世紀に書かれたが、その基本的な精神は古代ギリシア代から受け継がれたものだ。
「人間は単に”生きる”のみならず、”善く生きる”のでなければならない」
と言ったのは、ギリシアの哲学者ソクラテスである。
「人間は自然的存在者(生物)として生きるのみでなく、理性的存在者(人格)としても生きることを自覚」している。善く生きようとすることこそ、人間と他の動物とを区別する性質だというのだ。
 この考え方からすると、パンのために生きる暮らしは、奴隷的な生だということになる。それは人間の生とは言えない。自由と人権は、人間的な生を保証する上で必要なものなのだ。
 日本人に比べて西洋人の権利意識が発達しているのは、このような考え方の素地があるからだということがうかがえる。

話が通じないのは概念を共有していないから
 このように本書は西洋世界の根底にある思想と哲学を解説している。思想や哲学は「他の諸科学と違って、形態を有する対象や具体的な実験観察等の方法を持たない」。
 思想や哲学はすべてが概念であるため、役に立たないと考える人もいるかもしれない。
 しかし、社会の土台には抽象的な思想がある。思想は言葉であり、その言葉が指示する意味や内容が明らかになっていなければ、あらゆる議論は意味のないものになってしまうだろう。本書の例示はわかりやすい。
「”善とは何か”と言って議論しても、二人の間で”善”という言葉で考えている或いは理解(conceive)している内容が異なっていれば、言葉の上で結論が一致しても、実際問題においては食い違って来る(”愛”などはその好例だろう)。そこで”善とは何か”を議論する前に、”善”という言葉で人は何を意味しているかを充分に探索、検討して、”善”そのものゝ定義を明確にしておかなければならない」。
 繰り返しになるが、日本人は「話せばわかる」と思いがちだ。しかしそれが通用するのは、共通する抽象的な概念を持つ相手に対してである。
 国益を背負って外交や防衛に携わる官僚や、グローバルを主戦場とするビジネスパーソンにとって西洋思想の源流を解説する本書は、参考になることが多いだろう。

文:筒井永英

[著者略歴]
藤田 昇吾(ふじた・しょうご)
1939年生まれ。京都大学大学院博士課程(哲学)単位取得退学。大阪教育大学名誉教授。カントやロックなど近代西洋思想史に関する著述多数。



まえがき


 本書の標題『西洋思想の源流と展開』は、大阪教育大学教養学科社会文化講座が、平成3・4年度文部省特定研究費を受け、講座所属の教官が各々研究報告を提出した際に、西洋思想担当の筆者が研究計画の仮題としたものである。

 それはその時既に数年に渡って西洋思想の講義で講述した内容――古代ギリシア哲学とユダヤ教・キリスト教の思想史的考察――を要約し略述したものであって、単なるプログラムに過ぎなかった。その小冊子を御覧頂いた方々から「これは研究計画にすぎない」と言って、本体を出すように御鞭撻を賜った。それ以来鋭意出版に向け努力してきたが、遅延を重ね漸く本年敢えて脱稿し出版することとした。

 ギリシア哲学とキリスト教(ヘレニズムとヘブライズム)はいづれも「私の専門ではないので、云々」の遁辞は使わない主義ではあるが、事実は如何ともし難く、記述の正確さを期すべく種々の典籍を調べる度に、「こんな事も知らずに講義していたのか」とか「あれまあ!あんな大嘘を聞かせてしまったよ」とか、全く赤面し冷汗をかく事ばかりである。

 「よく知っているつもりでいたが、実は何も知らなかったのだ」と、ソクラテスについて講義される田中美知太郎先生の昭和37年頃のお声が耳もとに甦って来る。無知の自覚、無知の知。その事自体知っているつもりで知らなかったのだ。しかし、本当に知っているとはどういう事なのか等々、自問自答のうちに日々は過ぎて、実はもう少しよく知っているはずの近代哲学の方も、昭和55年に博文社より筒井文隆氏らと共著で出版した『人間・世界・神』の旧稿に大幅な加筆修正をして、本書の第Ⅱ部「近代思想の展開」として加えるに止った。

 本書で叙述した思想家については、解説書よりも当人自身が書いたもの、或いは言行録の紹介に努め思想内容そのものの考察を第一義とした。従って、各学派の重要事項の思想内容を自分で確認するために、読者が本書の紹介を手がかりにして原典(その邦訳も含めて)の読書へと進んで思索を深めて下されば、必ずや心の糧を得られる事多く、思想家たちとの交わりを通じて皆様の精神生活が豊かなものとなるであろう事を確信する。

 これまで御教示、御鞭撻下さった方々に深く感謝し、今後も一層の御教導を改めてお願いする次第である。


 堺市北野田の自宅にて              1998年6月3日

藤田 昇吾



改訂版に寄せて


 本書の初版出版から10年が経過した。その間に皆様から数々の貴重な御指摘を頂き、また自分自身も加筆修正したいと思う点が多々見出された。この度改訂の機会が与えられたので、読者諸賢の御意向に添うべく改善に努めたい。

 人類の思想史は、所謂「四聖人」(釈迦、孔子、ソクラテス、イエス)の頃から既に2千数百年に及び、その間に更に数多くの思想家達によって幾多の教理や学説が唱えられて来た。我々は単にそれらの跡を辿るだけでなく、「古人の求めし処を求めて息まず」の気概で自分自身が直接対象とする問題と取組んで思索を深めて、理論的にも実践的にも普遍的妥当性を有する自分自身の主観的原理(格率)――それを一般に「自分の哲学」と呼んでいるようだが――を形成し確立することが重要である。そして、自分の哲学が単なる「我見」にならないようにするためには、思想の流れを考察することが不可欠である。本書がその考察の一助ともなることを期してやまない。

2008年12月10日 著者



序文 西洋世界拡大の動因



 世界を東西に二分することには様々な問題があることは言うまでもないが、遠く紀元前8世紀に始まるギリシア人の小アジア地方への植民地運動において、既に彼らには東西世界の対立及び交流の自覚的な意識があった。それ以後2千数百年に渡る歴史において東西は幾度となく対立と交流をくり返してきたが、一応は均衡を保っていた。

 しかし15世紀以降は西洋世界が目覚ましく拡大してきた。1492年にはコロンブスがヨーロッパ大陸から大西洋を西に航海して――彼がインドだと思い、1503年にはそれがインドでない事を確認したアメリゴ・ヴェスプッチAmerigo Vespucci (1454-1512)に因んで“アメリカ”と名づけられた――大陸に到達した。16世紀後半以降は、カトリック教会が反宗教改革運動の一環として、軍隊式教会であるイエズス会を中心にして、東方世界への布教宣伝に乗り出し、1549年にはフランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来して、日本は初めて西洋文明に接した。その後日本は西洋世界に対して門戸を閉ざしたが、他のアジア諸国及びアフリカ、アメリカ、オーストラリア大陸等は全く西洋列強諸国の植民地と化して行った。ポルトガル、スペイン、オランダに続いて、イギリスは19世紀には日の没することなき大帝国を築き、地球上の陸地の実に1/4を占めるに至った。

 このような地理上の拡大膨脹の動因には、単なる武力征服による領土獲得意欲だけでなく、彼らが唯一真正な神の教えであると確信するキリスト教を布教し福音を伝えて、未だ神の恩寵に浴しない人々を教化して文明社会の生活に帰属させようとする善意もあったのではなかろうか。いづれにせよ西洋世界拡大の背景にあった宗教思想の重大さは、直接的・間接的、肯定的・否定的にあらゆる点で、考察されねばならない。そこには、古代ギリシアの神々から、キリスト教における理神論的な神に到るまで、様々な神の理念とそれに対する批判思想の系譜が辿られる。

 領土拡大の直接的動因である武力の優位は科学技術の発達によってもたらされた。それを導いたのは、古代ギリシアより始まる合理的自然観であった。更に科学と技術が結びつき産業革命が進展し、近代工業文明と資本主義経済の必然的帰結として、非ヨーロッパ世界への植民地侵略獲得競争が展開され、西欧の世界支配が拡大した。20世紀に入って民族自決の原則で独立したアジア・アフリカ諸国において、近代化=西欧化の定式で国家・社会のあらゆる面で西欧化が進んだ。

 19世紀後半以降急速に西欧化、近代化を進めた日本は不可避的に欧米と競合し対決して、人類史上第2の火と言われた核エネルギーによる被爆で悲劇的な結末を迎えた。その後は更にアメリカを通じて一層西洋化を進めてきたが、本来、西洋文明を支えてきた思想に対する理解は、決して充分とは言えない。西洋思想の全系譜を辿る事には広範な知識と体系的理解力を要するが、今その一端なりとも解明を試みようと思う。

 そこで本書の全体像を概説すると、第Ⅰ部 西洋思想の源流として、第1編古代ギリシアの哲学の主要な思想、特にプラトンの理想国家論とアリストテレスの批判、その後のローマの実践哲学などヘレニズ思想の大筋。第2篇ではユダヤ教及びキリスト教、即ち、ヘブライズムの宗教思想を概観する。

 それらを源流とする思想の展開として、第Ⅱ部 近代思想の展開 においては、経験論に基づく思想、即ち、第1編 イギリス市民社会の思想、とその実践の両領域に渡って検討することによって巨視的世界認識に努力したい。経験論の対極にある合理論の思想系譜として、第2編 ドイツ近代哲学思想 において、M・ルターの宗教改革、カントの批判主義思想及びその後の諸思想を見る。



第Ⅰ部 西洋思想の源流

―ヘレニズムとヘブライズム―

 西洋思想の特性は、機械文明を導いた合理的・科学的自然観と、民主的市民社会を形成した自由平等な社会観とに認められる。そして両者に共通の根幹は、人間は相互に対等な個人であるという独立の人間観である。

 科学的自然観は古代ギリシアの自然哲学にその源泉が求められる。実験観察と思弁(理論)を巧みに組み合わせて、自然現象の法則性を探求解明する科学思想の系譜が生まれる。そして自然的所産は、神が人間の利便のために創造した被造物であると見なすヘブライズムの自然観と相俟って、人間による自然支配の思想が近代科学革命以降は特に盛んとなる。

 民主社会の原型は古代ギリシアの最も有力なポリスであったアッティカに見られるが、近代に入って国民国家の形成期には、ヘブライズムの契約思想の導入によって、国家主権設立の原理を根拠づける社会契約論が、王権神授説に対抗して展開され、近代市民社会形成の理論的な裏付けがなされた。

 これらの自然観及び社会観の根底には、古代ギリシアでは、「自然(ピュシス)対人為(ノモス)」の定式で自然と対置された人間観があり、ヘブライズム(特にキリスト教思想)では神の前における万人の平等性という個人相互に対等な人間観が認められ、上下関係を重視する東洋の人間観とは対照的に、水平的人間関係が社会構成の原理となる。そこから社会は平等な個人が構成する共同体であるという社会構想の意識が生まれ、近代以降は理想社会の建設構想が盛んになる。

 このように西洋社会の底流には、古代ギリシアの哲学思想と、ヘブライズムの宗教思想に源泉を発する二大潮流があり、両者が渾然一体と成って今日の西洋思想の展開がある訳だが、それぞれの源流を辿ることで少しでもそれらの本質が解明されるであろう。

 注目すべきことは、古代ギリシアにおいては哲学思想のみならず、学問全般から芸術や法律や政治制度や軍事を支える各種の生産技術にいたるまで、あらゆる面において二千数百年前に既に極めて高度な完成段階に達していたのであり、それが西洋文明の源流となって現代の世界文明に連続していることである。

 その初期の発展段階では、生成変化する自然現象の神話的な説明から合理主義的な科学的解明へと進み自然哲学が形成される。そして自然哲学の理論的関心は、やがて人間のよき生き方や国家社会の理想的形態についての実践的関心へと移り、政治、倫理、宗教等についての議論が、特にソフィストとソクラテスとの論争において盛んになる。その中でも特に道徳教育の可能性と必要性についての論争は注目すべきである。

 また各人が対等な民主社会においては、人は自分の権利と利益を自分で守るために自分の立場の正当性を弁論し主張しなければならない。そこで仮に自分が間違っているとか正しくないと気付いても、自分からは決してそれを認めないのが当然であるという西洋社会の「常識」が生れる。内心では自分の方が正しくないと思っても、それを認めず正しいと主張することが西洋人には正しいことなのである。自からの正しくないことを公に認めることは正直であるどころか狂気の沙汰であるという西洋世界の二千数百年来の思想を日本人は知らなければならない。すぐ自分から謝まる――そして、それが礼儀で美徳であると思っている国民は、西洋思想の伝統を深く研究する必要があるだろう。(本文p.54参照)特に、国益を背負って外交や防衛に携わる官僚は、世界各国各民族の思想史を客観的に研究し理解して広い視野と長い時間尺度で対応する姿勢が求められる。



第1編 ヘレニズム

――古代ギリシア哲学――

 古代ギリシアの学問や芸術について、我々は、アルキメデスの原理やピュタゴラスの定理さらにユークリッド幾何学等の自然科学に関する知識を持っており、美術ではミロのヴィーナスの大理石像などが日本にも早くから紹介され一般にも広く親しまれている。また、都市国家(ポリス)における民主政治(デモクラティア)もよく知られている。それに反してギリシア文化(ヘレニズム)の最も重要な構成要素であり、後世の西洋思想の源流の一つとなる哲学については、それほど知られているとは言えないだろう。強いて言えば、ソクラテスの問答と彼の刑死などであろうか。それも問答の内容まで知る人は比較的少ないのではないだろうか。ましてやソクラテスに到る200年ほどの哲学思想の流れを系統立てて理解し会得している人は哲学専攻者の中でも多数派とは言えないのではないだろうか。

 田中美知太郎先生は「哲学(philosophia)という言葉も、また哲学そのものも、古代ギリシア人の発明である。……ギリシア哲学についての正しい理解をもたないでは、他の哲学の理解も、一種の当推量にたよるようなもの……不確実なままに止まるだろう。哲学を学ぼうとする者は、まず、古代ギリシアの哲学について、なるべく直接的な知識をもつようにしなければならない※」と言われる。ここで言われる「直接的」とは、「解釈や批判を通してでなく、原語あるいは忠実な翻訳によって」現物を直接自分で読む事を意味する。

 ところが悲しい事には「初期ギリシア哲学者(ソクラテス以前期の哲学者)たちの手になる原著作はもはや完全に失われ、彼らについては、ただ後代の思想家・作家による間接的な情報と、文字どおりの断片的な引用を通じで、わずかな断章ないし語句が伝えられているにすぎない※※」のが実情である。しかし、幸いな事にプラトンとアリストテレスの著作は2千数百年を経ても大部分ほぼ完全な姿で今日まで伝えられ、しかも日本語に翻訳されている。そこで、このDielsとKranzの編集による「断片集」Fragmente(本文中DKと略記)とプラトン、アリストテレスの著作を通して、古代ギリシアの哲学思想にできるだけ近づいて見よう。

 ここで留意すべき事は、「古代ギリシア」を、古い時代即ち文明未発達の時代と考えてはならないという事である。古代ギリシアのポリス(特にアテナイ)は高度に文明文化の発達した完成度の高い成熟社会であって、当時の人々自身が自分達は「古代人」だとは思っていないのは勿論だが、先述の自然科学や芸術や政治制度の他に、貨幣経済と商業交易の発達で店には色々なものが売られていて、ソクラテスがそれらを見て、自分には不要なものが沢山あるなあ、とつぶやいたとか、本屋で立ち読みしたとか、子供たちの為の公的教育(学校)の必要性を説くとか、ぜい肉をとってスマートになるとか、全く現代社会と異ならない情景描写が多々見られるのである。

 神々に対するクセノパネスからソフィストたちに到る一連の批判主義的啓蒙思想も、そのような成熟社会における大人の覚めた感覚の所産なのである。ソフィストの出現も民主制と貨幣制度なしにはあり得なかったし、その思想内容も成熟社会の背景なしには考えられないであろう。その完成度の高い成熟社会はやがて爛熟を経て崩壊し、次の時代の世界国家主義(コスモポリタニズム)へと発展的に解消して行くのである。


※ 「講座哲学体系」2(人文書院)p.9

※※ 内山勝利他訳「ソクラテス以前哲学者断片集」(全5巻)岩波書店。
各巻序言の一文




第1章 自然哲学の生成と完成


§1 神話から学問へ


 哲学の始まりはギリシア本土からでなく、ドーリア人の侵入を免れ文明の破壊を免れた小アジアの植民地からであった1)。小アジア西海岸のイオニア地方にあったギリシア植民都市ミレトス――現在はトルコ領で、地震によって隆起して湿原となっている2)――は、紀元前6、7世紀頃には東西交通の要所として栄えた商業都市であった。そして、古くからバビロニアやエジプトの先進文明の影響をうけて、幾何学や天文学や占星術などの学問や技術や宗教思想の発達がみられた。そこから自然現象における生成変化の原因を、擬人化された神話的な要因によってではなく、自然的原因によって解明し探求しようとする傾向が現れた。

 それが、神話(ミュトス)から脱して理性の言葉(ロゴス)によって真理を探究する知的活動、すなわち学問であり、広い意味での哲学(智を愛好すること、フィロ ソフィア)であった。そしてそれが、生成変化する自然現象の元にあるもの、即ち「始源(アルケー)」を探求する学問であったところから、「自然哲学」と呼ばれる。これは、神々についてホメロスやヘシオドス等が叙述した天地創造の神話における超自然的能力の擬人的表現とは区別される。


§2 タレス


 このように生成変化する万物の始源を自然存在そのものの中に求めようとした最初の人が「哲学の父」と呼ばれるタレスである。アリストテレスによると、「哲学の開祖タレスは、水がそれ<始源(元)arche>であると言っている、(それは)万物の種子spermeが湿った本性をもっており、その湿ったものの本性の原理が水だからである3)」と伝えられているが、タレスのみならず「万物の起源は水であると言う思想は古代ギリシア人の神話的伝統では比較的一般的であった4)」とする説も多々ある。

 タレスが星を観察していて溝に落ちて、婢に「足元さえ見えないのに天上の星が知られるのですか」とからかわれたというエピソードは、彼が実践より観照により大きな関心を持っていた例として度々語られるが、実は「彼は政治活動に携わった後で、自然の研究に従事した」(ディオゲネス・ラエルティオス「ギリシア哲学者列伝」第1巻23)ので、自然哲学のみならず人生哲学や実践哲学についても数々の名言が伝えられている。例えば、(1)獣にではなく人間に生まれたこと。(2)女にでなく男に生まれたこと。(3)異民族にでなくギリシア人に生まれたこと、を運命の女神に感謝している(同33)とか、幸福な人とは、身体が健康で、精神は機知に富み、性質の素直な人である(同37)ということ等である。そして、「どうしたらわれわれは最も善くて最も正しい人生を送ることができるか」という問に対して、「他人に対して非難するようなことを、われわれ自身は行わないならば」(同36)と答えた処にも身近な実践哲学の態度が表れている。

 その他にも、「富こそは人を男にするもの」(同31)と言うものの、「卑しい仕方で金持になるな」と戒めたり、「無為は苦しみ、無教養は重荷」とする格言などが伝えられている。

 タレスが前585年の日食を予言したことは有名であり、これはバビロニア人の天体観測から学んだ知識によるものであろう5)。また、エジプトでピラミッドの高さを、棒とその影の長さとの比から測定したのも、エジプトの神官から習った幾何学の知識の応用によるものであった(DK1A11~22)。このように彼は東方の先進文明の知識を習得し、それを実用的に発展させた人であり、その流れは彼の弟子たちにも受け継がれて行く。


§3 アナクシマンドロスとアナクシメネス


 タレスの弟子のアナクシマンドロスはグノーモン(日時計)や天球儀や地図を発明した技術家で、『自然について』を著し、万物の「アルケー(始源)」という言葉を最初に用いた(DK12A9)。彼はそれを水とか空気とかに限定せず、普遍的に解して「無限定者(ト・アペイロン)無限者、無限なるもの6)」とした。それは彼が「万物は果して水より生じ、水へ帰る」と言えるか否かを検討した結果である。即ち、もし冷湿な水が万物の始源であるとすると、乾いて熱いものの生成と存在は困難となるので7)、万物の始源はむしろ冷湿、乾熱のいづれにも限定されない、無限定な中間的なもの、つまり無限定者(ト・アペイロン)でなければならないと考えたからである。

 そして、この無限定者は不死不滅であり、その故に彼はこれを「神聖なるもの(ト・テイオン)8)」とも呼んだ。そこには現実世界の万物の生成消滅を通じて神聖なるものとのつながりを持とうとする人間の願望が認められる。そして、そのような願望は後の時代の思想にも繰り返し現れることで、人間本性に根深く存する考えである。

 アナクシマンドロスは、この中間的なものを何かはっきりさせることはできず、弟子のアナクシメネスに預けた。アナクシメネスは、これを霧や靄(もや)のような気体(アエール)であるとした。そして、この気体が稀薄化すれば加熱と火を生み出し、濃厚化すれば冷却と風と雲と水と石を生み出すと考えた。つまり、気体の濃化・稀化によって万物の生成消滅を自然学的に説明しようと試みたのである。

 このように自然哲学者たちの思想は、自然の万物がどのように生成消滅するかを中心に展開されたのである。その問題に対して彼らは、自然の中にある物質の一つを取って、これを基礎において、他の全てのものの生成はこれから生じ、消滅はこれへと帰るという仕方で一元的に把握しようとしたのである。


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