お助けマンション管理士 庵名 路久 (著)
マンションのトラブルは、管理士におまかせ!
「誰もいないはずの家に帰宅したらトイレのドアが開かない! 誰かが侵入したのかも!」
「部屋でボヤが発生。火の不始末でも放火でもない。一体なぜ?」
「購入したマンションが事故物件という噂が……幽霊が出ないか見張ってほしい」
騒音、ペット、管理費の滞納――身近な悩みからユニークな依頼まで、様々な事件をマンション管理士が華麗に解決する!
面白くてためになる、ライトな謎解き短編集。
【著者プロフィール】
庵名 路久 (あんな・みちひさ)
1953年宮城県仙台市出身。本名・船山弘美。
1977年東北大学法学部卒業。囲碁研究家。北海道庁勤務後、作家活動に入る。
一 トイレ立てこもり事件
電話の着信音〝トルコ行進曲〟がマンションの一室に響いた。
「はい、樫山ですが」主婦の智奈美が元気な声で電話に応える。
「あ、もしもし、老人ホームのことなんですが…」
「はい。老人ホームがどうかしたんでしょうか?」
「お宅の近所に『くつろぎの里』という老人ホームが近々できるのご存じですよね」
「いえ知りません」変な電話とは思いながら優しい性格の智奈美には途中で電話を切るなどということは思いつかない。
「実はそこに入居したい方がいるんですが地元の方優先なので難しい状況なんです。何とか名前だけでいいので貸して頂けませんか」
「……」
沈黙している智奈美の心中を見透かすように続けて
「礼金は少額ですが十万ほどで如何ですか」
十万円との話しに智奈美は浮き立った。つい先日、自家用車を塀にぶつけて車の修理代の捻出に頭を痛めていたところでもあったので、名義を貸すだけで十万円入るならこんな嬉しいことはない。おまけに人助けにもなるのだ、正に一石二鳥。
「名義を貸すだけでいいんですね」と浮き浮きして智奈美は応えた。
「はい、地元にお住まいの方の名義だけでいいんです」
「わかりました。それであとはどうすれば……」
「先方の方に伝えて詳しいことは後ほどまた連絡します」と電話は切れた。
ラッキーと智奈美は心の中で叫び、食べかけだったパスタを一気にたいらげた。
しかし「好事魔多し」とは良く云ったものだ。次の電話で天国から地獄へジェットコースターのように真っ逆さまに落ちるとは、パスタをたいらげた後のんびりコーヒーを味わう智奈美は想像だにしていなかった。
魔の〝トルコ行進曲〟が鳴った。天国から地獄への招待状とは露知らず智奈美は電話口にたった。
「はい、樫山です」と元気に応える。
「あ、おたくですか名義貸ししたのは」と返ってきたのは重くて暗い声。
「はい私です」先ほどの電話と違う威圧的な声に智奈美は戸惑った。そして相手の次の言葉に凍りついた。
「こちら警察ですが、名義貸しは犯罪なのはご存じですよね」
「名義貸し? えっ。犯罪!」
「あ、知らなかったんですか。れっきとした犯罪なんです。起訴されたら監獄行きも覚悟せねばなりませんね」
「監獄行き! 人が困っているというので助けようと思っただけなんですが」
「例えば悪い人間を殺して良いことをしたと思ってもそれは殺人ですからね。ところで名義料をもらうような約束はしてなかったですか?」
「……」
痛いところをつかれて智奈美は押し黙った。現実にはまだ現金を受け取っていないがお礼としてのお金につられて名義貸しの誘いにのったことは確かだった。
「いま名義貸しの犯罪が横行しているんですよ。それで取り締まりを強化している最中なんです。ただ樫山さんの場合、名義貸しが犯罪のことを知らないとのことだし、恐らく初犯でしょうから、百万程度で名義を消せると思いますが、どうしますか」
監獄行きと聞いてパニックに陥った智奈美に名義を消してもらう以外の選択肢はなく、神にもすがる思いで即座に返答した。
「お金は払いますので名義を消してください」
「わかりました。何事も穏便に解決するのが一番賢いやり方です。下手に裁判なんかになって高い弁護士費用を払う必要もありませんからね。そしたらいつ百万用意できますか」先ほどまでの威圧感のある声とはうって変わって、自分の意見が通ったことに満足げな声が電話機から流れてきた。
「明日にでも」あてはなかったがサラ金でも頼るほかはない。とにかく監獄行きを免れるためにはできるだけ早めに手続した方がよいことだけは確かだと必死だった。
「そしたら明日、部下の佐藤に受け取りに行かせます。なお、警官の服装だと目立つので私服で伺う予定ですので、よろしく」
「わかりました。こちらこそどうかよろしくお願いします」
何で名義貸しなんていう変な電話がかかってきたのか、智奈美は呪われた運命を感じ、いやーな気持ちになって飲み残したコーヒーを飲み込むと、まるで泥が体に入っていくような不快感に襲われた。
待てよ。人のためになると思ってしたような名義貸しだけで犯罪になるものなのか。電話を切ってしばらくすると、そんな普通の疑問がようやく智奈美の頭にもたげてきた。大事な商談で出張中の夫の手は煩わせたくない。このところあまり付き合いがないが司法試験に挑戦し続けている弟に聞いてみることにしよう。司法試験には落ち続けてばかりだが、こんなときは以外と頼りになるかもしれない。早速弟の携帯に電話した。
「お姉ちゃん、それ典型的な詐欺の手口だよ。テレビでも騙されないようにって何回も注意してるじゃない」
弟の言葉を聞いて安心した。幸い現金も渡していない。
「なんだ詐欺か。ところで明日取りに来たときどう対応したら良いのかしら」
「警察に届けたらどう」
「警察かあ。大ごとになりそうね。だんなに知れても嫌だし」
「大ごとにしたくなかったら、単に留守にしてたらどう。迷惑メールと同じで相手にしなければ直に相手も諦めると思うよ。そうだ、うちに来たら。たまには姉さんのカレーが食べたいな。変な詐欺なんかは無視するのが一番なんだから」
「そういう手もあるわね。たまに兄弟愛を深めましょうか」
翌日、弟の住む下宿で智奈美がつくった具材の形がそのまんまに入ったカレーを弟が美味しそうに食べる姿を見て、詐欺の犯人が自宅を訪れている事の不安心理から解放されていた。カレーを食べた後、司法試験のことや世間話等で兄弟愛を深めた智奈美は、さすがに詐欺犯人のことが気になりマンションの自室に入るまで弟にエスコートを頼んだ。雨の中、弟の車を走らせるとフロントガラスがくもってくるのを弟はタオルで拭くがガラスのくもりはなかなかとれない。