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そいつは幸せですな


雑然とした仕事場で

 酒場で道具の話になった。
 何人かの酔客が自慢の道具について語り合う。時計、万年筆、ライターという小物から、バイク、車といった大きなモノまで……。そんな話を聞きながら、ふと思い出したことがある。
 万年筆にまつわることだ。
 ぼくが初めて手にした万年筆は、雑誌の付録だった。
 隣のおばさんが中学進学祝いにくれた「中1時代」という雑誌に付いていたのだ。今見るとブリキのようなペン先の、おもちゃのようなモノだが、万年筆というだけで大人の響きがあり、いつも持ち歩いていた。そんなぼくを見て父は笑った。「万年筆を持っていても、字が汚なかったらあかんわ」と。
 初めて自分で買ったのは大学に入る時だった。
 〈ペリカン スーベレーン〉
 1万円札を数枚握りしめて、とある百貨店のショーケースの前で買うか買うまいか悩んだあげく、男性店員に聞いた。「学生ですけど、ぼくが使ってもいいですかね」と。店員は不思議そうな顔をしながら、「ええ、いいですとも。でもね、大事にしてやってくださいね」と言った。
 ぼくはその万年筆を携えて、この仕事に就いた。しかし父は笑った。「売れん作家には宝の持ち腐れちゅうもんや」と。
 30歳の時に2本目の万年筆を買った。長時間握っていても疲れない軸の太いモノ。何本か試して決めた。
 〈モンブラン 149〉
 初めて買った時と同じ店員だった。彼もぼくを覚えてくれていた。
 「あの時のペリカンスーベレーンは元気ですか」と聞かれた。ええ、と答えながらペンケースからそいつを取り出し、ほうっという顔をする彼の目の前に差し出した。彼はにっこり笑うと「そいつは幸せですな」と言った。そして「具合悪くなったらいつでも連れていらっしゃい」と続けた。
 家に帰り真新しい〈モンブラン 149〉で、離れて暮らすようになった父に手紙を書いた。中身は覚えていないが父から返事があった。「万年筆を替えたようやな」という文末のひと言だけが記憶に残っている。
 それから数年ごとにその店員を訪ねた。修理のためだ。「こんなに大切に使っていただくと、新しいのをおすすめできませんねえ。修理代もバカにならないのに申し訳もないですねえ」とよく言われたが、とてもうれしそうだった。
 10年ほど前、京都に帰った折調子の悪くなった〈149〉を持ってその店員を訪ねた。が、彼の姿はなかった。定年で退職したのかとたずねたら、亡くなったのだと教えられた。
 ぼくは〈149〉を修理に出さずにそのまま引き返した。彼が自分の手で修理していたのではないことくらいわかっていたが、他の人には委ねたくなかったのだ。そして長く抽斗(ひきだし)の中に放り込んだままになっていた。それから万年筆を使わない日々を過ごしていたのだ。
 ある日のことだ、捜し物をしていて抽斗を開けた。〈149〉が目についた。その時だ。懐かしいあの店員の声が聞こえたような気がした。
 〈そいつは幸せですな〉
 聞こえるはずなんかないのに……。
 たぶんほったらかしにした万年筆に後ろめたさを感じたのだろう。
 あわてて修理に出したのは言うまでもないことだ。
 使い続けてきた道具にはそれなりの物語がある。物語に登場する人たちの思い出がある。だからそんな道具を手にすると、こころの奥底が温かくなるような気がするのだ。
 隣のおばさんはとうに亡くなったけど、付録の万年筆は今も大切に使っている。

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