見出し画像

#8-4 私たちは都市の創造性をどのように育むことができるか?

遠野オフキャンパス特別レクチャー@三田屋
鷲尾和彦(博報堂生活総合研究所/「生活圏2050」プロジェクトリーダー)

 「生活圏」とは、地域社会やコミュニティでともに生活する人々が協働し、地域の特色を活かしながら、それぞれの生活を営んでいる生活環境のこと。自然環境、文化資源、科学技術、産業など、地域固有の資源を活かし、「新しい価値」を生み出そうとする取り組みが世界各地で生まれている状況について、鷲尾和彦さんにレクチャーしていただきました!

写真:鷲尾和彦

画像8

その場所でしか手に入らない強い価値

 はじめまして、鷲尾和彦と申します。今日は、私がいま取り組んでいるリサーチの話をしたいと思います。日本で「生活圏」という言葉が使われるようになったのは、おそらく1970年代ごろだと思います。高度経済成長期、日本中で「都市化」が進み、生活が大きく変わろうとしていた時に、生活環境のあり方をもう一度捉え直そうという発想から生まれた言葉です。世代によってイメージするものが違うかもしれませんが、私は「人がともに暮らす生活環境」という意味で使っています。「生活圏」には、私たち一人ひとりの存在も、そして地域が育ててきた自然環境、歴史、市場、産業、コミュニティ、こうした営みの蓄積である文化など、さまざまな要素が重なり合っています。
 「2050」は30年後、つまり「ひと世代後の子どもたちが住む社会」について考えるという意味です。これまでの半世紀は、非常に大きなボリュームを持った層に合わせて町をつくってきました。それが変わる象徴的な年でもあります。
 現在、人口減少や少子高齢化によって社会の構造が変わろうとしています。また近年、より顕在化してきた気候変動の影響や自然災害の発生などが、私たちの暮らしの基盤である「生活圏」のあり方を大きく変えようとしています。かつての日本では、経済成長というひとつの目的だけが強い力をもって「都市化」が進められてきました。でも「生活圏」の中には、文化も、社会も、自然環境もあるわけです。これらは経済成長の抑制要因として捉えられてきました。しかし、これからの人口減少社会や、グローバル化が進んでいく中では、その場所でしか手に入らないものにこそ強い価値が生まれます。それは、その「生活圏」で長い時間をかけて育まれてきた、文化、自然環境、風景、生業などです。まず私たちはそのことを広い視点でもう一度見直す必要があるように思います。 私はこれまで、将来世代のために「生活圏」の持続性をつくり出そうとする国内、海外の都市を幅広くリサーチしてきました。
生活圏2050プロジェクトHP

スクリーンショット 2020-05-10 15.01.04

  例えば、徳島県の神山町では「地産地食」を軸に、地域で循環する経済とその担い手を育てる「フードハブ・プロジェクト」という取り組みがあります。種から農作物を育て、調理して食べ、その種を次に受け継いでいく。地域の農家やつくり手、学校が協力し「循環」を軸にした食育に取り組んでいます。

スクリーンショット 2020-05-10 15.01.11

 東京で活動している「SAMPO」というグループは、軽トラックに乗るサイズのモバイルハウスを制作し、「住む」ための最小限の空間から都市をつくり直そうとしています。移動する個人の空間が集まり、つながることで都市(人の集まる場所)がつくられていく、移動や移動空間の可能性を考えています。

スクリーンショット 2020-05-10 14.59.42

 バルセロナ市は、都市を「人にとっての生態系(エコシステム)」として捉え、気温や空気の流れ、交通状況、社会階層などさまざまなデータを解析し、先端的なテクノロジーを都市政策に活かしています。

スクリーンショット 2020-05-10 14.59.31


 兵庫県神戸市とバルセロナ市は姉妹都市ですが、このふたつの都市はこのテーマについてお互いに学び合いながら、こうしたデジタル技術を活かした都市政策を推進しています。国境を越えて、お互いに学び合うオープンな地域と地域との関係、それはいま世界各地で進んでいる大きな潮流です。

新しい可能性を生み出していく「柔らかな」発想

 こうした世界や日本各地の取り組みに共通することは、「生活圏」の中にある多様な「資源」を活かそうとする発想がその基礎になっているという点です。世界中ひとつとして同じ「まち」が存在しないように、それぞれの取り組みはさまざまで、ひとつの「正解」などありません。しかし、人口増加による量的拡大で成長を遂げた時代はすでに終わりました。これは世界各地の都市で共通しています。では次の「生活圏」の持続性はどんな発想で実現していくのか。その発想をいま、見直さなくてはならない時代です。そのためにも、新しい可能性を生み出していく「柔らかな」発想がとても大切になってきます。
 ここに挙げた事例は、いずれもそうした新しい発想を柔軟に生み出していこうとする取り組みです。そしてこうした発想をお互いに学び合うことがこれからはとても大切な時代になると思います。

スクリーンショット 2020-05-10 15.00.19

 私がこうした次世代の「生活圏」の持続性をつくる方法についてリサーチを始めたきっかけは、オーストリアの地方都市、リンツ市との出会いでした。この町は古くからの重工業都市でしたが、その後、産業が衰退する中で「文化」と「教育」政策で都市再生を果たしました。リンツ市の取り組みで「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」という市民向けの文化イベントがあります。この言葉は、人間の「技」や「技術」という意味を持つラテン語の「アルス(ars)」と、テクノロジーに影響を受けた文化を意味する「エレクトロニカ(Electronica)」とが合わさったものです。そこには、「人間の創造性(アート)と技術(テクノロジー)の可能性を通して、人と社会がどのように変わっていくかを考察しよう」というヴィジョンが込められています。1979年に最初の「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」が開催され、今年で40年目になります。

スクリーンショット 2020-05-10 14.59.57

鷲尾和彦『アルスエレクトロニカの挑戦ーなぜオーストリアの地方都市で行われるアートフェスティバルに、世界中から人々が集まるのか』(学芸出版社)より

 オーストリアは中央ヨーロッパに位置し、人口約870万人の国です。リンツ市は首都ウィーン、グラーツに次ぐ国内第三の都市で、人口は約20万人。町の真ん中をドナウ川という川が流れていて、水運と陸運に恵まれ、古くから商工業が盛んな地域でした。1840年ごろから工業都市として発展を始めます。まず大規模な金属加工業が生まれ、次いで造船業、その後、機械工業、繊維産業が発達しました。20世紀半ば、第二次世界大戦直前にドイツ併合とナチ党による占領の下、軍事産業の拠点として鉄鋼の町へと変貌を遂げます。実はリンツ市は、アドルフ・ヒトラーが幼少期を過ごした町で、ヒトラーは晩年の都市計画「総統都市」構想の中で、自分の故郷を世界的な芸術都市にする夢を描いていました。もちろんこれは実現しません。大戦末期には軍需産業の拠点として激しい空爆にあい、大きなダメージを受けました。その後オーストリアは1955年に永世中立国として独立を果たし、戦後は占領国から資産を守るためにも産業の国有化を進めます。戦争への反省から市民の生活再建を進める社会福祉国家が目指されました。こうして生まれ変わった国営企業を中心に、リンツ市は鉄鋼業と化学産業からなる重工業都市として復興していきました。
 しかし、その復興と発展は1970年代半ばには急速に陰り始めます。情報化社会への産業構造の転換がおもな要因です。当時のリンツ市民の生活は、仕事も、福祉も、未来もすべて鉄鋼で支えられていました。鉄鋼業が町全体を動かす巨大かつ唯一の動力源だったのです。失業率は一気に高まり12~15%にも及んだといいます。環境問題も露になっていました。製鉄工場が排出するスモッグが大気汚染を引き起こし、市民の生活環境は劣悪化していきました。リンツ市を支えてきた社会の仕組みそのものが、行き詰まりを迎えていました。 

「自分たちの地域資源は何だ?」

 1970年代後半から80年代において、リンツ市最大の政治的課題は、「地域社会のあり方そのものをどう見直すか」にありました。1970年代後半の経済不況、これは日本でも同様でした。しかし、リンツ市の戦略がユニークだったのは、それを産業だけの問題としてではなく、市民社会全体に関わる課題、社会全体の課題と捉えた点です。市民一人ひとりの考え方を未来に対してポジティブにしていくにはどうすればよいか。技術者、労働者、そして次世代の子どもたちや幅広い市民が、未来の変化に備えることができるためにはどうすればよいか。そして「自分たちの地域資源は何だ?」と考えたとき、リンツ市の人々は、「われわれの町は技術者が多く暮らしてきた。だから、将来の技術がこれからどのように人の暮らしを変えていくのか、どこよりもそのことをよく知っている町になろう」と考えました。隣りのウィーンやザルツブルクは世界遺産の都市で、古い宮廷文化やクラシック音楽で有名な観光都市です。でもリンツは工業都市。ないものねだりでも、隣の町と張り合うのでもなく、自分たちらしさにアイデンティティを求めたわけです。そして、行政主導の都市再生計画と並行するように、市民レベルでもさまざまな活動が生まれていきます。その市民の自発的な取り組みの中から生まれてきたひとつのアイディアが、先の「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」でした。
 「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」の原型は、1979年に行われた電子音楽のイベントとそれに関連したシンポジウム、市民参加のイベントなど、複数のプログラムの集合体でした。彼らが着目したのは「コンピュータ文化」の可能性と、既存のジャンルを超えた分野を横断する表現の可能性でした。鉄鋼ではない、エレクトロニクスこそが、市民の暮らしを支える未来の原材料になるのだと。そして、その可能性をできる限り多くの人に体験してもらい、地域社会全体をシフトさせようという目的で始まったのが第1回目のアートフェスティバルでした。 

スクリーンショット 2020-05-10 15.00.04


 さらに1996年には、この取り組みを日常的な環境にしようと「アルスエレクトロニカ・センター」(公共の文化センター)が設立されます。また町の公営企業として、こうした文化や教育、人材育成を目的とする事業会社「アルスエレクトロニカ社」がつくられました。アルスエレクトロニカ社は、市民に対する文化・教育面での社会サービスをミッションとし、独自開発した技術サービスをリンツ市内外、また海外の産業界や文化機関に提供する事業を行うことで、市民サービスを提供しながら、資金的にも自走できる環境をつくっています。2019年で最初の「アルスエレクトロニカ・フェスティバル」から40年を迎えましたし、その間には市長も変わりました。しかし、こうしたヴィジョンは変わることなく、持続的に取り組んでいます。その結果、いまでは、リンツ市は世界的にも知られる町となり、若い起業家もたくさん輩出するようになりました。
 よく「文化は儲からない」と言われますよね。確かに目先3ヵ月の収益を上げるものとは違うかもしれません。しかし、町の人を育て、町のアイデンティティをつくり、そしてそれがやがて生活の豊かさを生み出す。そのことに惹かれてその町に人が集まることで、経済的な成果をも生み出す。「文化」は地域社会の持続性をつくり出す原動力になります。いわば地域全体の環境、つまり「生活圏」を整えることであり、地域の価値をつくり出すことです。経済はあくまでもその環境から生まれるものなのです。 
 しかしリンツ市は特殊な町ではありません。ヨーロッパ中にはこうした小中規模の都市がたくさん存在しています。また先に挙げた国内の事例も、こうしたこれからの「生活圏」の持続性をつくる方法に気づいた町だと言えると思います。この「遠野オフキャンパス」の取り組みも、こうした大きな潮流を捉えた活動ではないでしょうか。小さな取り組みでも、一人ひとりの市民が、いま暮らしている「生活圏」に対して愛着やアイデンティティを感じなければ、その先にある社会をつくり出す営みに成長していくことはできません。そしてそれを育むために本当は何をすべきか、そのことをみんなで議論していくことが、いまとても大切だと思います。       
(2019年9月10日 @三田屋)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?