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#7-2 遠野の建築とルーツ

南部曲り家の成立

曲り家とは?
 日本には、アイヌの「チセ」や白川郷の「合掌造り」など、さまざまなかたちの民家があります。遠野では「南部曲り家」が有名です。南部曲り家とはどのような建物でしょうか。ここで少し解説したいと思います。
 「曲り家」とは、人が住む住居と馬屋が一緒になったL字型の民家のことを言います。似たようなかたちの民家は、北陸の「中門造り」など日本各地に見られますが、地域によって性格が異なります。青森県と岩手県にまたがる旧南部藩域のものは、馬を育てる都合から生まれました。「曲り家の分布」図を見ていただくとわかるように、旧南部藩領と旧伊達藩領の境でくっきりと分かれています。特に遠野と紫波のあたりに多く分布しています。南部藩は馬の生産が盛んな場所で、藩としても奨励していました。その馬産地で、一般的な民家形式として広く普及していたのが南部曲り家です。

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 住居配置は、冬の季節風を防ぐために背面を北西に向け、南東から陽光を取りいれるのが基本の構成です。曲り家の背面は多くの場合、開口部の少ない土壁で、家の中を冷気から守る防寒壁の機能を果たしました。そのため、メインの出入口は曲がりの内側の角につくのが特徴のひとつです。旧菊地家住宅は、18世紀中(江戸中期)頃までに建てられた曲り家ですが、当初は、曲がり部分を持たない直家(すごや)と呼ばれる建物でした。遠野における農家の変遷を見ると、まず直家と馬屋が別棟で建てられ、その後、直家に馬屋を増築するものが現れるようになり、しだいに当初から曲り家として建てられていきました。旧菊地家住宅は、建設後間もなく馬屋が増築されています。直家から曲り家への発生過程をうかがうことができる貴重な遺構として国の重要文化財に指定されました。

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 遠野には、「夏山冬里方式」という馬の飼い方があります。夏は高原に放牧し、冬が近づくと人里に連れ帰るというものです。馬屋は馬の越冬用の空間であり、冬に対処する建築でした。住居と馬屋をつなぐ土間は、人馬ともに寒さをしのぐ工夫です。人と馬の緩衝空間として機能し、衛生上の配慮でもありました。馬の餌を煮炊きする馬竃(うまがま)が置かれ、暖気が馬屋の破風に向かって流れることで、多少なりとも暖房の効果がありました。「だいどころ(家族が集う日常生活の中心となる部屋)」は、土間にせり出すように配置され、家人は囲炉裏端で来客を迎えたり、作業をしたりしながら、常に馬の様子がうかがうことができました。

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 常居(じょうい・じょい)は、この建物の中心的な部屋になります。家長が“常に居る”という意味で、旦那様が接客をしたり、事務作業をしたりします。神棚や仏壇が置かれたりもします。曲り家の分布を見ていくと、常居の位置が茶の間の前にくる「前じょい型」のタイプと、奥にくる「奥じょい型」があり、遠野は奥に常居を持っていくタイプが多いです。なぜこのような違いが現れるのか、実はよくわかっておりません。座敷は、冠婚葬祭などを行う儀式的な空間で、普段はあまり使わない部屋になります。旧菊地家住宅の間取りは、曲り家における典型的なもので、ほかのほとんどの曲り家が同じ構成をとります。
黒田篤史(遠野市文化課学芸員)

千葉家の建築と地域

典型的で無二の曲り家
 この建物は、江戸時代後期、天保年間(1830~1844)に大飢饉の「御救普請」として建てられたと伝えられています。さきほど見てきた旧菊池家より、100年近く後に建てられた住宅ということになります。かつての千葉家は、辺り一帯に広大な田畑や山林をもつ豪農で、農家にして武士と同等の格を与えられた家柄でもありました。屋敷は斜面に石垣を組んで造成し、その上に建つ主屋が石垣から飛びだす迫力満点の構えです。中に入っても、座敷の仕上材には洒落た面皮つきの木が使われ、天井板は斜め張りにするなど、家作制限のある江戸時代の農家では普通ありえない、数寄屋風なデザインになっています。

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 このように比類のないスケールと見た目をもつ千葉家ですが、一方で間取りなどの基本的な構成は、実は旧菊池家など他の遠野の曲り家とほとんど変わりません。集落のなかで飛び抜けた力を持つ家は、遠方から腕の立つ大工を呼び、まわりとまったく違う住宅をつくることもありますが、千葉家の場合は、根本的な部分は他と同じ考え方でつくられています。遠野の典型的な構成をした曲り家の、最上級グレードといえる存在が千葉家なのです。
 少し専門的な、建築技法の話もしてみましょう。一般に南部曲り家は、多くの農家建築と同じく「扠首(さす)」と呼ばれる2本の材料を立てかけて屋根をつくります(扠首組)。千葉家も馬屋部分は扠首組で、小屋裏は馬の干し草置き場や奉公人の寝部屋として使われました。一方、千葉家の家族が暮らす住居部分の屋根は、きれいに加工した材料を細かく積み上げていく「和小屋組」と呼ばれる構造です。和小屋組は寺社仏閣や町家などによく見られるもので、農家ではめずらしい事例です。なぜ和小屋組にしたのか、はっきりしたことはわかりませんが、構造的な安心感に加え、格式の高さを示す意図があったのではないかと考えています。

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 また和小屋組には必要な部材が多く、工事には時間がかかります。飢饉から村人を救うための御救普請という話に絡めて考えると、あえて仕事量を増やし、長い期間村人を救うという発想があったのかもしれません。大工は建物を建てるとき、各部材に「番付」と呼ばれる位置を示す記号をつけます。古い建物を解体していると、番付とともに遊び心のある落書きがいろいろ見つかるものですが、千葉家の場合はそれがいっさいありません。必要最低限の番付しかないところからも、当時の厳しい状況が窺い知れるような気がします。

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 遠野の農家建築には、とても特徴的な梁の組み方があります。それは、一定の高さに揃えたまっすぐで背の低い平たい梁を、短いピッチで等間隔にずらっと敷き並べるというものです。千葉家でも、この構造が多用されています。普通に考えれば、梁はほぼ丸太のまま、なるべく背の高い状態で使うほうが強くなります。曲がった丸太の梁をどう組み合わせるかという「梁算段」が、大工の腕の見せどころでもあります。しかしこの遠野の構法なら、難しい算段は必要なく、素人も含めた大人数での分業が可能になります。構造的な弱さは、梁の本数でカバーします。作業量は多いけれど、とてもシンプルな構造なのです。人海戦術でものごとに取り組む農村らしい発想であり、村人のちからを結集した造りといえるでしょう。
田口善基(文化財建造物保存技術協会)

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上綾織の2軒の民家を訪れて
 重要文化財の「旧菊池家」と「千葉家」を見学した後、上綾織地区の2軒の民家を訪ねました。いずれもいまは茅葺き屋根ではない曲り家で、いまもお住まいになっている民家です。
 はじめに訪れた「宇夫方邸」は明治42年築。時代が異なるものの千葉家との共通点があり、同行した千葉家保存修復工事の監理の方にも参考になったようす。千葉家の工事に活かされそうです。
 2軒目「藤原邸」は、上綾織地区で最後(昭和8年築)の曲り家です。昭和38年の屋根の改修には、この地域固有の建築構法(梁成を整えた梁の細かな配置)が活かされたと判断しています。また、敷地内で木材を調達(馬搬)したという話から、裏山を含めた敷地の使われ方に話が広がりました。暮らしや生業というヒトと民家というモノが紡ぐ、集落の風景のモノガタリを考える契機となりました。

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