太極拳同好会YUN

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頂頭懸-1 みすみすチャンスを逃した

銭育才先生著「太極拳理論の要諦」p218から  ある日曜の朝、いつものように北京展覧館の西側の空き地で練習していたら、傍らで何げなく見ていた顔見知りの小父さんが、近づいて来て、「″頂頭懸″(″虚領項勁″の通俗的な言い方)に注意しなさい」と言いながら、丁度低い姿勢の″単鞭下勢″を完成していた私の肩を指一本で軽く触れました。 私は見事に尻餅をつきました。  私は黙って立ち直り、右足を低く曲げて、重心に注意しながら、左足を伸ばして、もう一回その姿勢を繰り返しました。  しかし、同

    • 太極拳論 十三勢歌 五字訣 

      王宗岳の拳論が言っているのも皆推手のことだ。「十三勢歌」も武萬襄もまた李亦畬(リエキヨ)の″五字訣〃も含めて、語っているのは皆推手のことだ。今これらを套路の中に持ち込んで、最も多く言われるのが″双重〃だ。両足は同時に力を出してはいけないとか、両手は同時に力を使ってはいけないとか言う。もしこれが〃双重〃ならば人は立てない。立てば双重になる。「粘連砧随不丟頂」の「不丟」とは、「不丟開(=相手から逃げる離れる、をしない)」のこと、つまり相手との接触点から離れてはいけないということで

      • 気が丹田に戻るのは自然でなければならない

        重要なポイントは、気が丹田に戻るのは自然でなければならないということだ。押さえつけ頑張ってそれをしてはいけない。意図して調節するのではなく、放鬆を通じてひとりでに調節されるようにする。自然に降りるのでなければならない。そうしてこそ本当の大極拳の丹田と言える。自然な「沈み」であって意識的に「沈める」のではない。五臓がすべて「鬆開」して緊張していない。「脚底下」は、五本の指が地を掴むとか、地中に三尺入るとか、してはいけない。あなたは地の中に三尺入れますか? 本当に放鬆していれば自

        • 虚領頂勁ー5

          馬長勲著「太極拳を語る」から 人は″活物(=生きているもの)〃だ。生きているものは″死物〃より牽動しやすい。ある拳論では″四両撥八千斤〃と書いているが、大仰で話が合わない。牽動なしには「撥」はできない。だからすべては(王宗岳、武萬襄等の)拳論だ。あなたは分析して読まねばならない。今、 一部の拳論は太極拳を摩訂不思議で科学を離れたもののように言っているが、そういうものではない。理論は間違ってはならない。理論を間違うと練習しても見当違いのほうに行ってしまう。

        頂頭懸-1 みすみすチャンスを逃した

          虚領頂勁ー4

          馬長勲著「太極拳を語る」から 王宗岳先生が言うところの″牽動四両撥千斤〃(原注¨打手歌)(訳注¨200グラムのきっかけで500キログラムの方向を変える)(訳注¨『撥』はここでは『わずかに方向を変える』という意味。用語集参照)、とても重い物体は、それを揺らした後やっと動かせる。例えば昔の大きな酒壺は運ぼうとしても運べるものではない。左右に揺すってそれが揺れてきたら、それをどこかに〃赳走(=連れて行ける)〃。ここに即ち″牽動(訳注¨小さな変動が他の部分の変動を引き起こす)〃がある

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          虚領頂勁

          馬長勲著「太極拳を語る」から 抜粋

          虚領頂勁ー3

          馬長勲著「太極拳を語る」から 「仰之則弥高、俯之則弥深(訳注¨王宗岳拳論・仰げば益々高く、俯けば益々深い)」、ポイントは、相手と接触した″頂点(=ぶつかったところ)〃は、虚、鬆、軽、霊でなければならないということだ。そうしてこそ聴勁ができ、「人不知我、我独知人(=人我を知らず、我独り人を知る)」ができるということだ。これらの言葉を正しく把握して初めて我々の練功の方向性がわかる。但しこれを本当に理解したかったら優れた先生の指導が必要だ。

          虚領頂勁ー2

          馬長勲著「太極拳を語る」から だが″虚領頂勁〃が実際に指しているのは推手での相手との接触点だ。この接触点を虚で「領(=導く)」して、軽く相手に「粘(=つかず離れず)」で動く。この「頂」は接触点であり頭頂ではない。頭を指す時は″頂頭懸(=頭頂が上に引っ掛けられている)〃という。″頂頭懸〃は″含胸抜背〃と結びつき、「提頂吊椎」「含胸抜背」「沈肩墜肘」などと共に身法の一つだ。〃虚領頂勁、気沈丹田、不偏不椅、忽隠忽現〃この言葉が指しているのは推手だ。

          虚領頂勁ー1

          馬長勲著「太極拳を語る」から P202 拳論を読むにあたっては、字面に囚われてはいけない。師に教えてもらい、身体で確かめる必要がある。さもないと、本を読んで字面を追うだけになり、回り道を行くことになるだろう。例えば王宗岳先生が言う〃虚領頂勁、気沈丹田、不偏不侍(=偏らず)、忽隠忽現(=忽ち隠れ忽ち現れる)〃、この言葉は、わかっている人があなたに教えるのでなければ、あなたが本を読んでも真意がわからない。″頂〃とは何か? 今皆がこれは頭頂だと言い、基本的に皆がこう解釈している。

          《太極拳の高嶺へと至る最短の道とは?》銭育才

          再版してほしい 2000円ちょっとの本が中古で7000円ぐらいする  銭育才著「太極拳理論の要諦」 若い頃、私は太極拳の道を求めていました。しかし正しい道へ入りませんでした。 技だけを求めてしまったのです。 漫然とした套路の練習だけで極意に到達できるとは信じられず、はじめは推手も単なる技術と思っていました。そして技だけを求めて、二十年を無駄にしました。 考え方が全く異なるのです。技の問題ではなく、考え方の問題なのです。 だから経典に戻るしかありません。 私は一介の太極

          《太極拳の高嶺へと至る最短の道とは?》銭育才

          太極拳の練習の仕方 放鬆

          太極拳練習の仕方 放鬆 馬長勲著「太極拳を語る」から p114 例えば放鬆、これをいい加減にしてはいけない。放鬆して柔ができてくるようにする、鬆から整が出てくる、鬆から化が出てくる、鬆が脚に至る……これは完全に拳論に符合している。我々の推手はすべて「脚」にある勁だ。拳論には無駄な話は無い。手は接触点だ。聴勁は手でやる、反応は思惟でやる。「変化」というこの勁は「脚底下」から上がって来る。足から胯に至り、背中に至る。胯が動くと「整体(=全体)」だ。背が向きを変えると手に至る……

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          氣血が通る

          氣血が通る 馬長勲著「太極拳を語る」p257 24式でも同じだ。あなたの手を見てみなさい。緊張すると毛細血管が通らないでしょう。もっと力を入れると太い血管も通らなくなる。放鬆すると戻ってくる。なぜ練習し終わると頭がくらくらするような人がいるか? 身体が緊張しているからだ。血液、気が頭に上ってしまう。放鬆の時間が長いと血が戻ってくる。あなたはそれを感じられる。血が流れ戻って指先まで達し指先が脈打つだろう。内臓も同じだ。血流がどこに達しても、そこが脈打つのを感じることができな

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          太極拳5段への道 3段の四正推手 擠と按

          3段の四正推手は太極拳推手の基本である、掤捋擠按の勁力を学びます これらは、掤に対して捋で対抗して、捋に対して擠で対抗して、擠に対しては按に対抗して、按に対しては掤で対抗するようになっています。 つまりこれらの順番で、四正推手は回ります 今回は、捋された状態から擠で反撃して、それをさらに按で防ぎます

          太極拳5段への道 3段の四正推手 擠と按

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          太極拳5段への道5推手套路ちょっとふかぼり

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          氣と勁力の違い

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          太極拳5段 中級から上級へ 招熟・憧勁・神明

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