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 最近、日が落ちるのが早くなった。会社を出ると、夜の真っ黒な世界に圧倒される。周りが田んぼだらけの片田舎は人工的な灯りも少なくて、車を停めた駐車場までの道のりはスマートフォンの懐中電灯が必須だった。会社の敷地内に入り込んだ野良猫がカエルを捕まえて口をもごもごさせている。猫はがりがりに痩せていて、ぎらぎらした目でこっちを見ていた。なにか食べものを持っていたら分けてあげたかったけれど、猫が食べても問題なさそうなものは持ち合わせていなかった。

 わたしもお腹が空いていた。二十二時すぎ。最近のわたしの退勤時間。本来の退勤時間から五時間ほど過ぎている。残業代は出ない。いつものことなので嘆くこともなくなってしまった。頭のなかで、お偉方から言われた嫌味が繰り返される。新卒で入社して四年目の会社は、夜と同じくらい真っ黒だった。大学時代を遊んで暮らした結果としては相応しいのかもしれない。


 嫌なことからはとことん逃げてきた人生だった。心のなかでは、自分さえ良ければいいといつも思っている。今も変わらない。たぶん死ぬまで、そう。子どものころは習い事も勉強も長く続かなかった。やめたいときにやめてきた。

 わたしは今、仕事をやめたい。でも、大人は難しい。仕事をやめたあとのことを考えなくちゃいけない。生きていくにはお金がかかる。お金を得るには働かなくちゃいけない。宝くじに期待するような生き方を選ぶほどの思いきりの良さがあれば話は別かもしれないけれど。

 今の仕事をやめたあとのことを考える元気がない。ただ、「疲れた」と「やめたい」だけが頭のなかを毎日ぐるぐるしている。仕事中、キーボードを叩いていると不意に涙が出てくるようになった。乾いたコンタクトレンズがちょうど良く潤う。ぎゅっと目を閉じていると、スマートフォンがぽこんと鳴って、転職サイトからのメールを受信する。とりあえず登録だけした転職サイト。メールの内容は求人の紹介で、そこに自分の職場が載っていた。ふざけてんのか。

 子どものころは早く大人になりたかった。母親に対して、「学校は飽きたから早く働いてみたい」と言ったこともある。母はきっとわたしを引っ叩いてやりたいきもちになったと思う。わたしは世の中を知らないクソガキだった。でも、クソガキだったころに戻りたい。親や学校に守られて生きているなんて理解していなかった、無知で愚かな愛しいおばかさんだったあの頃。生きていくことがこんなに大変だなんて、大人になるまで知らなかった。


 朝、目が覚めるともう家を出る時間だった。慌てて起きたところで、今日が休みだったと思い出す。胃が痛かった。お腹も空いていない。ここ最近はなにを食べてもおいしくない。外はとても良い天気で、窓を開けると澄んだ空気が吹き込んだ。死にたい、と思った。死にたくないけど。布団にくるまって少しだけ泣いた。せっかくの休日なのに、怒鳴り声や嫌味を思い出してしまう。おいしいものが食べたい。仕事のことを考えたくない。でも休日が終われば会社に行かなくちゃいけない。どうせまた遅くまで帰れないんだ。

 社会できちんと働いて生きているひとの強さをしみじみと実感する。小栗旬が結婚したときに発狂していた母も、パチンコに行っては連敗記録を更新する父も、この社会でわたしよりずっと長く働いて生きている。そういえば、母も父も泣いているところを見たことがない。そんなふたりの娘は仕事が嫌で毎日泣いている。もっと辛い人はたくさんいるはずなのに。

 会社、燃えないかな。

 開けた窓から鳥の鳴き声が聞こえる。お昼まで寝ようとわたしは枕に顔を埋めた。

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