見出し画像

アンバランス

 退職したいと考えている。

 上司にそう伝えたわたしの声はみっともないくらい震えていた。心臓が痛くて、拳を硬く握りしめる。それでも上司から目を逸らさずに言うと決めていた。

 限界が来たというよりは、来るべきときが来たという、ただそれだけのことだった。入社して三年。積もったものは、とうにわたしの受け皿から溢れてこぼれていた。気がつかないふりをして誤魔化していたにすぎない。

 三年は耐えるのだという、おかしな意地がわたしにはあった。耐えた先に何もないとわかっていたけれど、ここで簡単に辞めると逃げ癖がついてしまうような気がして怖かった。だから三年が経ったその月、もう辞めてもいいんだと自分勝手な開放感と共に、辞意を伝える決意をした。

 辞めたいと言ったわたしに上司は困った顔をしたあとで、「いちおう理由を訊いてもいいか」と笑った。これでもわたしは建前をいくつか考えていた。他にやりたいことがあるとか、新しい業界に挑戦したいとか、ネットに転がっていたそれらしい退職理由。円満に辞めるにはネガティブなことは言わないほうがいいと、どこの記事にも書いてあった。

 けれども自嘲にも似た上司の笑い方は、わたしが用意した建前が何の意味も成さないことを示していた。いちおう、と前置きをした上司はわたしが退職したい理由など聞くまでもないことを悟っている。そういう環境でわたしたちは共に働いているのだから当然だった。

 わたしは、馬鹿正直に辞めたい理由を伝えた。ネットではタブーだと書いてあったけれど、もはや見え透いた嘘をつくのは失礼だった。膨大な業務量と毎日のサービス残業、上層部から投げつけられる鋭利な言葉。そんなことは上司だって知っている。それらを何とかしようとしていた上司を、わたしはよく知っていた。わたしの見えないところで、わたしを何度も庇ってくれていたことも知っている。

 上司に悪いところは少しもなかった。ただ、どうしようもない環境だったというだけのこと。上司の力では変わらない、天地がひっくり返るくらいのことがなければきっと変わらない。どこの会社もたぶんそう。

 辞意を伝えるうちに芽生えたのは、とんでもなく大きな罪悪感だった。わたしはそれが意外だった。もっとすっきりすると思っていた。けれども実際は鉛のような重い何かが胃のあたりに溜まって、ずしっと重みを増していく感覚がした。その息苦しさにも似た罪悪感から逃れたくて、愚かなわたしは言葉を重ねた。あなたのせいで辞めるのではない、たくさん庇ってくれていたことを知っている、とてもありがたかったと、そういう言葉をつらつらと重ねた。

 そんなことを言うくらいならば辞めるなんて言うなと、上司は腹を立てたのだろうか。わからない。ただ上司は、「そういう感謝を言葉にして言われると少しは救われる」と口先では言った。傷の舐め合いも必要だ、とも言った。正確な言葉選びだと思った。まさしくわたしたちは傷を舐め合いながら、痛みを誤魔化してここにいる。

 もうずっと前からこのときを待ち望んでいたはずなのに両手を上げて喜べなかった。自分という人間のちぐはぐさにはつくづく驚かされる。

 わたしが退職したら困ることは知っていた。それはわたしが素晴らしい能力を持っているというわけではなく、単純に人がいないから。わたしが辞めたあと、業務を引き継ぐ人間がいないから。上司は引き止めを口にしたけれど、それは形だけのもので、効果を期待をしていない引き止めだった。上司を困らせたいわけではなかった。困らせてもいいから辞めたいと思ったのは、他でもないわたしなのだけれど。

 じんわりと残る罪悪感が不快だ。わたしが辞意を伝えたあとも上司の態度は変わらない。相変わらずやさしいままで、わたしの罪悪感は日々増してゆく。いっそ態度がころりと変わってくれたらこんなきもちにならなくて済むのに、と考える。上司がそういう人間でないことは知っているけれど。

 気晴らしに観光地を調べている。有休消化のあいだに、ひとりでどこかへ旅行に行きたいと思っていた。うつくしいもの、おいしいもの。すてきなもので心を満たしたい。罪悪感から逃れたかった。それでも今も尚、申し訳なさで息がしづらい。ああ、なんだってわたしがこんな思いしなくちゃいけないんだ。腹が立つ。最悪。もう嫌だ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?