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鬱と阿修羅

このところ、昨年から創ってきた作品を見直している。
細かなニュアンスの違いがどう聴こえるのか、間(休符)の感じ方など、感覚的にやってきたことを理解し直し、手法として整理している。

阿修羅は闘争の鬼神

この冬に、日本語歌詞を忠実に再現してみた、Adoの「阿修羅ちゃん」。

寒かった稽古当時にも阿修羅について調べていたが、昨日踊っていたら、急に「阿修羅」が伝えてくれることがピンときた。
自覚していなかった意識が、急に実体験として理解されたようだ。

たとえ行いが自分の中では正義だとしても、それに固執し続けると善心を見失い妄執の悪となる。(中略)
果報が優れていながら悪業も負うものが死後に阿修羅になるとされます。

阿修羅とは? https://media.thisisgallery.com/20227263

娘を取られた悲しみと怒りで闘争の虜になってしまった阿修羅は、生命力を司る最高神から、怒りと争いの絶えない人と獣の間の修羅という場に落とされる。その後仏教に救われた経験から、仏教を煩悩から守る神となったそう。

鎌倉に多い花 シャガ

鬱と妄執

怒りや悲しみって、うまく解消できないとそういうことになるんだな。
私のうつの原因も、幼少期に抱えた妄執なのだろうと思う。そんなもの、とうに手放したはずだったのに、まだ持っていたのだ。
パンドラの箱のように、何かのきっかけで空いてしまったらそこは修羅。
終わりなく戦うしか無くなってしまうのだろう。
正しいかもしれない何かに固執しても仕方がないのに。
もちろん頭ではわかっているのに。うまく回避できない。

カウンセリングというのは高額な自費診療である。
だから、私などが長期的に診療関係を続けることはできない。
だけど、距離を保ちつつ親密で細やかな対話が、自分を知ることにつながるということはこの数回でも感じられた。

孤立と友達

割と同業の友達が多いのだが、遊んだりはあまりしない。それぞれの本番を観にいくことが一番と思ってしまうし、そこに可能な限りの時間を注ぐ日常も想像しやすいから。コロナ以降は特に、誰もがせめて仕事だけでもできればと、人と会うことを控える気持ちでいたことだろう。

でも、そんな普段は距離をとっている友人が、ふと声をかけてくれる最近。
人は、人と話をする時間があることで、自分というものを見直すことができるのだ。タップ板や植物や動物という無口なものたちに囲まれる日常も、私にとっての豊かな時間ではあるけれど、もう少し、人の間にいる時間が、私には、もう少したくさん必要なのだと思う。

Asura 憤怒から穏和へ

阿修羅像は三面六臂、顔が三つ、腕が六本なのだが、そのお顔は憤怒相と穏和な少年のふた通りある様子。
「命を与える」「天を否定する」という二つの意味を持つAsura。
闘争の鬼神もいつかその修羅を抜けて、穏和な神になるのかな。

そんなことをイメージしながら、この作品をタップアカペラとして仕上げていこうと思います。撮影1回目はまだ憤怒相です。

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