上役のコート

昔々のことだ。

実家でまったりと朝御飯を食べていると、父親がやってきて、本をくれると言う。

それは『サピエンス全史』(ユヴァル・ノア・ハラリ)、店頭でよく見かけていた本だ。

「高い本だ。1,900円する。厚くて内容はちょっとわかりにくいかもしれないが、世界で500万部売れているベストセラーだ」とか何とか言っている。

えっ?大丈夫なのか、この人。

1,900円程度の本が高いとか、俺、コロコロコミック読んでる小学生じゃないぞ?

厚いったって、せいぜい4センチくらいだぞこれ?

と思っていたら、次はホコリっぽいコートを取り出してきて、それをくれるという。

「わしは着ないから取っておいた。お前も上役になったらこういうのが必要だ。カシミア100%で、定価は40万円だが、半額で20万円だった」とか何とか言っている。

私が洋服屋でアルバイトをしていたこともあるファッショニスタの手つきであらためてみると、

「Made in China」

と書かれていた。

えっ?中国製のノーブランドで20万円はないだろ。騙されたんじゃないか?

別に中国製が悪いとは言わない。実際、私の着ている服はほとんど中国製だ。質もいい。

ただ、あなたは、渾身のプロポーズの場所が富士そばなんですか、という話をしている。

黙ってもらっておけばよいのだろうが、「要らん。自分の着るものは自分で判断する」と断った。

親父の発想はいつもこうだ。

会社で「車に乗れないと出世できないから」と言われて免許を取りに行き、「シワがあるよ」と言われて安物のシャツを家で洗わずクリーニングに出し、「ゴルフができないと出世できないから」と言われてゴルフを始めた人だ。

「1,900円の高い本」

「世界で500万部売れているから」

「上役になったら必要だから」

「カシミア100%」

「定価42万円」

ずいぶんと疲れる人生を送ってきたんだろうな。

『サピエンス全史』はブックオフに売った。

割と高く売れたよ。ありがとう、親父。

あなたの御寄附は直接的に生活の足しになります。