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伝説の三鷹寮

足るを知る。

現状に満足しない。

相反する2つの格言のうち、私は「足るを知る」派である。

研修生として過ごした文部科学省1年目で、底辺の生活を経験したから、そう思えるのかもしれない。

そう、今は亡き伝説の三鷹寮。この最凶の官舎で暮らした凄惨な日々の証言は、後世に語り継がれなくてはならない。

三鷹寮、これは東京大学の職員宿舎で、正式名称を「第二武蔵野寮」といった。大沢職員宿舎群の一角に位置する、単身者用官舎である。

場所は東京でも23区外、自然があふれる三鷹市の調布市寄り。「野川」というポチ、タマ並のネーミングセンスの小川が流れる、のどかな地にある。

つまり、遠いのだ。

私が着任した2004年4月1日は木曜日で、しかもこの官舎が宛てがわれることを告げられたのは、前週になってようやくのことだった。

このため引っ越しもままならず、最初の週は御茶ノ水のホテルから、当時は仮庁舎であった丸の内の役所に通勤した。

「庁舎」といっても、それは旧三菱重工ビルを改装したもので、1階にお洒落かつファッショナブルなセレクトショップ「TOMORROWLAND」が入る、ただの貸ビルである。

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登庁するなり総務の課長補佐が飛んでくる。

「いやー、よかった。来てくれてよかった」

おっ、歓迎か?

「普通は前もって課長さんなんかと一緒に、お願いします、って挨拶に来るもんだけど、是永さんだけ来ないからさ。もう来てくれないんじゃないかと思って心配したよー」

あの、所属元の課長からは「本省は忙しいから挨拶になんか行ったら邪魔になる」と言われたので…。

くそう…。これじゃ俺だけ大学から大切にされてない感丸出しじゃないか。

そう、我々は大切にされるべき存在だった。

この4月1日、国立大学は独立法人化した。これまでは国立大学から文科省への出向者は、同じ国の職員として、「併任」の名の下、平等に、ボロ雑巾のように酷使されていた。

しかし、もはや傘下組織ではない俺たちは黙っちゃいないぞ。それが我々「研修生」第1号が纏っていたはずの尊厳、腫れ物感であった。

はずの。

夜は同じ係の先輩が東京駅構内のレストランに連れていってくれた。

「今日は俺の奢りだから」

そうだろうそうだろう。だと思って遠慮なく注文しましたよ、私は。

鹿児島大学から来て2年目だというこの快男子は、実に九州人らしい男気を放っており、瞬間的に、激烈な北陸人の湿度を持った私とは真逆の人間であることが察知された。

慌ただしく行き交う人波と笑い声。喧騒の中で着任第1週が終わった。

さて、週末である。

御茶ノ水から中央線で三鷹へ。この時点で約40分。

三鷹駅前から小田急バスに乗り、寮の最寄りのバス停である竜源寺へ。これが約20分。

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バスからひらりと舞い降りた私は、大学で手渡された「宝の地図」のような漠とした紙切れを頼りに、辺りを徘徊した。

うーん、ない。民家ばかり。

ここで第一村人を発見し、この国家権力従事者に用意された寮の場所を爽やかに尋ねるも、「知らない」という。

おかしいな…。

第三村人くらいでようやく、「川沿いのあっちの方にそれらしいのがあったような?」とのこと。

安堵した私は、件の野川のほとりを歩き出す。

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川の両岸に立ち並ぶ桜の木々は満開で、舞い落ちる花びらが川面を埋め尽くしている。

久し振りの花見だな。

一昨年は就職浪人として隠遁生活を送り、去年は通勤中の交通事故で両足を骨折して入院していたため、桜を見るのは3年ぶりのことだった。

故郷の石川でも見たことのない、親鴨の後を追う複数の子鴨。対岸には古民家の水車も見える。

いいところだな…。

新天地で強張っていた私の心はほぐれていった。

しかし着かないな…。

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草木の茂る小径を10分くらい歩いただろうか。果たしてそれはあった。

心霊スポットの廃校舎のような、灰色の建物が。

ここで鍵の受け取りのため、宝の地図に書かれた番号をガラケーに打ち込み、管理人とされる方を召喚する。

獲物を狙う賊のように、どこからともなくおばちゃんが現れる。鍵を受けとると、「ここは自治寮だから管理人は特に何もしない。皆さんでやっていただいている」という説明を受けた。

玄関に入ると、蜂の巣のような下駄箱を埋める靴、靴、靴…。明らかに使われていない、くたびれたものばかりだ。

スリッパを履き、カードキーを使って入口のドアを開け、奥に進む。

薄暗い。

床はホコリだらけで、歩くだけでカウボーイ映画のように固まったホコリが転がる。

ここはダンジョンか…?
俺は一体何の冒険をしているんだ…?

階段で2階に上がり、指定された部屋に向かう。

廊下に置かれた自転車、積まれた段ボールに刺さったネギ。仲良くなれそうな人間は、絶対に住んでいない。

部屋の前に着く。

扉はフスマに鍵が付いたものだった。

ズスーっと開けると、カーテンもないのに光の入らない、寒々しい部屋。

後日わかるのだが、この寮はどの部屋も日が当たらない。設計者は刑務所の発注と間違えたのではないか。

部屋は当たり前のように四畳半、タタミ、エアコンなし、風呂、トイレ共同。

虚空の中、あぐら座りでボーッとしていると、手配してあった実家からの荷物が届く。布団と、段ボール2箱分の衣類、ミニコンポ、CD。

大学生以下の装備での新生活が始まった。

ここで私はにわかに便意を催す。

確かここまで来る途中にあった。私はトイレに走った。

これは…何年掃除していないのか。ゴキブリが死んでいる。

そして紙がない。駄目だ。他のトイレだ。

しかし5階建て、各階2つあるトイレはどこに行っても、全ての個室に紙がない。

ここで閃いた。確か隣に病院があった。

寮を飛び出しシレーとその病院に入った私は、素知らぬ顔で用を足し、事なきを得た。

それは名を「長谷川病院」といい、入院病棟も備えたグレートな精神科の病院である。この風光明媚な自然環境が立地に最適なのだろう。夜な夜な「お客さーん、お客さーん」という元営業マン(想像)の陽気な声が聞こえてくる。日曜日になると朝から寮の側に来て、上を見上げて演説を始める方もいる。

「オイッ。東大卒が偉いと思ったら大間違いだぞッ。聞いてるかッ。オイッ」

えー、確かにここは東大の宿舎ですけど、職員の宿舎なのでね。申し訳ないけれども、東大を出ている人はひゃくぱー住んでいません。

そう、コンクリートが猖獗を極めた高度経済成長期、1960年代に建設されたこのクラシックな兵舎には、時代も変わり人が入らなくなったのだろう。いつしか東大職員の中でも生粋の偏屈者と、一時的にしか在籍しない我々文科省の研修生のための宿舎となった。

そんなだから住人の連帯感は皆無であり、「自治」など行われるはずもない。その結果がこのような荒れ放題の惨状なのだ。

トイレを出た私は、お見舞いに来た家族のふりをして売店で申し訳程度にパンとコーヒーを買い、中庭のベンチで遅めの昼食とした。

何と気が小さい男よ…。

昼食も終わり、引っ越し作業を続けるため寮に戻ろうとすると、ハムスターだかリスだか巨大化したネズミだか、とにかくそういう得体の知れない生命体に出くわす。

おっ、立ち上がってきた。何だ、やんのかコラ。

結構かわいい。

けど、ホント何なんだろう、この寮…。

引っ越し作業が終わり、夕食を求めて旅に出る。定食屋か何かないだろうか。

なーんもない。 国やぶれて山河だけ。

先ほどの竜源寺のバス停近くにセブンイレブンがあったのが救いだ。

往復20分かけて、セブンイレブン。これにて休日のスケジュールが終わることもあった。

さて風呂だ。これがまた絶好調にキテいる。

脱衣所の床は湿気のせいか凹んでいて、わかっていても、たまに足を取られる。3つあるシャワーは1つが壊れており不便極まりないし、湯舟は苔だらけで湯が張れない。床のタイルは剥がれていて足を怪我しそうになる。鏡は割れていてヒゲが剃りにくいし、何なら運気も下がりそうになる。

部屋に戻ると隣の部屋の住人が電話で話す声が丸聞こえである。

別に大きな声で話しているわけではない。壁が薄過ぎるのだ。ティッシュを取る「シュッ」という音までわかる。

寝るのが一番、というか、二番とか三番がない。

「ええ、雨風凌げればそれでいいです」

といきがった私に、課長め、希望通りの代物を用意しやがったな。くそう…。

かくして、歩くだけでダメージを受けるドラゴンクエストの毒の沼地ばりの住居から通勤する日々が始まった。

ちなみに家賃は月1,700円。丸の内界隈のランチ一食に劣る額である。これに名ばかりの「自治会費」が加わって月7千円程度。

確かに安い「公務員の官舎」だが、ここは金をもらって被験のアルバイトにした方がいい、人体実験クラスだ。

それにしても職場が遠い。

交通機関が滞りなく運行しても70分を要するところ、雨の日は渋滞でバスが駅に着くまで1時間以上かかることもある。

一体、何時に起きろというのか…。

私が配属されたのは高等教育局の大学振興課という部署だ。

ここは大学行政に関する基本的な法令を所管しているため、省内外から各種の協議・検討事項がひっきりなしに降ってくる。

また、一般の方や神様からの大所高所の苦情電話が、行き先不明で局内をたらい回しにされた末に、ボルテージが最高潮となった状態でたどり着く、いわば苦情のサルガッソである。

職員数約50人の大所帯でありながら、女性はわずか3人。業務がハードな局ほど男性比率が高い。雰囲気はさながら男子校で、仕事中に屁をこくのは当たり前として、廊下を裸足で歩いている者もいる。

朝は当番で始業前に新聞チェックがあり、幹部が出勤する前に関連記事を押さえておかなければならない。昔はこれに加えて部屋全員の机の雑巾がけと灰皿の掃除もさせられたという。誠に笑止である。

係長以上はプリンターに打ち出した資料を自分で取りに行かない。指示を受けて我々ヒラの係員が取りに行くのだ。

「私が若い頃は係長に取ってきてと頼まれた資料をこっそり自分用にコピーして勉強したものだよ」

若い頃、久保田利伸と同じバンドでドラムをやっていたという若殿のような課長補佐はそう語った。

プリンターが詰まるなどすれば一大事だ。ピピー、ピピーという悲鳴は、無視できない。我々が光の速さで駆け付け、機械の放熱で火傷をし、トナーの返り血を浴びながらこれを直す。

係長は定時を過ぎると自席でタバコを燻らせ、首をぐるぐるとひねりながら、当時発売されたばかりのiPodで落語を聴きながら仕事をしている。

日付が変わってから「ちょっと飲みに行きますか」ということもある。午前4時、八重洲のやるき茶屋で全員がジョッキを握りながら眠っている光景はシュール過ぎて理解不能だった。

私の仕事はといえば、年間100件を超える謎の証明書をラテン系留学生に発行しつつ、自称ヤクザの苦情の相手をし、事業説明会の壇上でうつらうつらして隣の係長に太ももをつねられ飛び跳ねるなど、高度の公共性を有するものばかり。

思わず海の日の三連休は一人で草津温泉にこもってしまった。

東京には友達がいなかった、わけではない。

大学の同級生がちょうど同じタイミングで上京し、表参道の会社に就職していた。カッコいいな。

「落ち着いたらゴハンでも」とは言ったものの、私は東京のお店など全く知らない。何せ電化製品を買うのに秋葉原まで、タオルを買うのに渋谷の東急ハンズまで行っていた男だ。イメージ先行型。

近所の丸ビルに『カサブランカ・シルク』という小綺麗なベトナムフレンチがあった。ここでいいや。近いし。

彼女はベトナムビール、私はジンジャーエールで乾杯。世の店員さんたちよ、ソフトドリンクを女性の方に出す習慣はやめてくれないか。「あ、それは私です」なんて、ちょっと手を挙げて、可愛いかよ。

社会人らしく名刺交換し、彼女からもらった名刺を見て衝撃を受けた。会社の名前などではない。

何とメールアドレスが手書きで直してあったのだ。

聞けば、鷺沼とかいう町に住んでいるという。彼女は当社比で私の10倍は頭のよい人だ。そんな人物が名刺も満足に作らせてもらえず、サギ師の泥沼のようなところに住んでいるとは…。世の中、何か間違っていないか。

我々はそれからも近況報告を兼ねて何度か食事に行った。後に彼女は誰でも知っている大企業にスカウトされ転職する。さすが、本物は必ず芽が出る。

上野の葉山牛ステーキ、銀座の店内に川が流れるお店、明治神宮前のギリシャ料理。その頃の東京は点と点である。知らない街からトンネルを通ってまた知らない街へ。電車を降りれば、人いきれに眩いばかりの光。

混濁する意識のように回るカットアップフィルムが脳裏に映すのは、まだ花の咲いていない蓮でいっぱいの、夜の不忍池だ。

そうやっているうちに夏が来る。

日が当たらなくても夏は暑い。クーラーはないが、こんな部屋のために設備投資する気は毛頭起きない。せめて網戸を取り付けようにも、なんと乗っけるレールがないではないか。

もはや嫌がらせの域である。

しかし、仕事でしこたま疲れているから、どんなに暑くても寝られる。成程、下層労働者向けの寮だ。うまくできている。

窓から涼しい風が入ってきて幸せ。
天気が良くて洗濯物が乾いて幸せ。
今日は購読している月刊誌の発売日で幸せ。
好きなアーティストの新譜が出て幸せ。

いつしか幸せのレベルがどんどん下がっていった。

いや、幸せを感じる能力が上がった、と言うこともできる。

何と言っても大きかったのは、同じ寮に住む研修生仲間の存在だった。

当課には、私と同じように全国の国立大学などからやってきた研修生が10人強いたが、このうち2人が不運にも私と同じ悪魔城に送り込まれていた。

そのうち、福岡教育大学から来ていた塚本さんという人がとても愉快な人だった。

歳は2つ上だが、のび太然とした食えない感じのベビーフェイスで、バスが渋滞で遅れるとやるせなくなって、出勤中にもかかわらず三鷹駅の立ち食い蕎麦に行ってしまうようなファンシーな人である。

「I AM AHO」「北島サブちゃん」「いやっほーっ!!アメリカばんざーい!」

普通の人はわけがわからないだろう、この暗号の意味が即座にわかる同じこち亀フリークということもあってセンスが近いのか、会って日が浅いのに話していて全く違和感を感じない。

三鷹駅からの最終バスは途中のバス停までしか行ってくれない。そこから2人、寄り道しながらよく寮まで歩いた。

三鷹の夜空は清々としていた。

駅前の御用達銭湯「春の湯」に出掛けたり、草むしりの日はばれないように窓から飛び降りて逃げたり、朝方タクシーで帰ってきて、小学校の廊下のような手洗い場で「今日もしんどかったー」と笑い合いながら歯を磨いたり。

仕事も含めたこの破滅的な暮らしが、共有する塚本さんがいたことで、祝祭になったのだ。

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一度、塚本さんの企画で、研修生みんなで江ノ島に行こうよ、という話になった。江ノ島。地方出身の我々にも胸ときめく響きである。

土曜日の朝に新宿に集合し、湘南新宿ラインで鎌倉へ。そこから江ノ電で、というプランだ。

暑い日だった。研修生の紅一点にして最強タフネスの石川さんが、黒いベネトンのTシャツを着ていたことを憶えている。

集合時刻。塚本さんが新宿駅のホームに着くと、誰の姿もなかったという。

「うわ、みんなもう先に乗ったんかと思ったけん、俺は慌てて電車乗ったんよ」

「そんで鎌倉で降りてみたら誰もおらんと。仕方ないけん、俺一人で江ノ島行ったと!」

ウィークデーの仕事で疲れ切った我々が、土曜日の朝に起きられるわけがないだろう。

みんな、夜になってようやくプランの最終行程である吉祥寺の居酒屋に集まり、管を巻く塚本さんを囲んで、ごめんごめんと爆笑していた。

大粒の氷がゴロゴロ入った、でかいジョッキのウーロン茶が美味しかった。

それでは、気を取り直して寮を罵倒する。

各階には1台しか洗濯機がない。だから誰かが使っていたら洗濯ができないのだ。それに終わっているのにドラムに入れっぱなしにするくそ野郎もいる。

洗濯したい、誰か使ってる、空いたかな、まだ使ってる、空いたかな、取りにこない、日が落ちてきた…。

洗濯機はクズ取りが外れていて洗うとクズだらけになるため、クズ取りも持参しなくてはならない。初めて買ったぞ、取り付け型のクズ取りなんて。

住人について。

途中でわかったことは、そもそも入居者が少ないようで、あまり人に会わない。ただ、我々文科省組は生活時間が違うためそう感じたのかもしれない。

数少ない住人は、挨拶も殆どしないから素性ははっきりしないが、東大職員のほか、近所にある国立天文台の職員もいたと思う。

廊下に張り出してある1993年くらいの寮生名簿を見て愕然とした。

こやつらは当時からいる…。

こんな寮に10年以上住んでいるのである。これはもう天然物、極上の変わり者である。

中でも隣人には手を焼いた。私は当時朝シャン派だったのだが、ふてぶてしい山賊のような風体でありながら、こやつも同じ朝シャン派であった。

しかも一通り洗い終わったら、くるっとターンしてシャワーを背中に浴びながらヒゲ剃り、歯磨きを敢行する。流れるようなコンボである。

もう1人誰か先客がいれば、2つしかないシャワーが埋まって、朝から床の凹んだ更衣室で立ち往生。

誰の所業か2回ボヤ騒ぎも起きた。生命の危険を感じる寮というのも珍しいだろう。

故郷へ帰りたいと思わなかったのか。

研修生には、通称「里帰り出張」と呼ばれる機会がある。大抵、休日と連続して設定され、名目は所属元への研修状況報告、実質は大学が旅費を負担してくれる帰省である。もちろん、私にもあった。

久し振りに石川に帰れる…。朝方に帰宅していた私は、天にも召されるような安らぎに満ちていた。

大学の事務局長との懇談は午後2時から。今から5時間くらい寝ても飛行機には十分間に合う。

起きたら午後4時だった。

既に部屋の中は薄暗い。

何故だ?

何故、携帯も目覚まし時計も鳴らなかった?

見れば携帯の電源は切られており、目覚まし時計はアラームオフの上、針が760度くらい回され、とどめに電池も外されている。我ながら見事と言うほかない。

うーむ。これはまずい。

私はとりあえずマールボロ・ミディアムに火をつけた。

フウ…。

タイムマシンとどこでもドアがダブルで必要な事態である。これはもはや人智を超えたアクシデント。

携帯の電源を入れると不在着信の嵐。おずおずと職場に電話すると、是永が来ない、連絡もつかないと大騒ぎになっていたということだ。マジですいません。

石川のことはもちろん好きだ。海もあり、山もある。食べ物は美味しいし、女の人は綺麗だ。東京なんてゴミゴミして毎日殺人事件が起きているようなところに、何故行く必要がある?

しかし、東京に住んだこともないのにそれを言うのはカッコ悪いと思った。住んでから、思い切り罵倒してやろう。

また、ある日突然、目の前にこれからの人生の全てが映像のように降りてきたことがあった。大学でそれなりに働いて、結婚して、家を買って、子供ができて、それなりの役職になって…。

もちろん人生が計画通りに運ぶことはまずない。しかし、私は先が見えるということ自体が苦手らしい。未決定の海に飛び込むのが好きだったのだ。

だから、東京に来た。割と軽い気持ちで。

そして秋になり、冬が来る。

いる。この部屋には絶対何かいる。

冬の三鷹寮は、自然現象にはない心霊的な悪寒を感じさせる。正味の話、仕事で精神を病み、命を絶った先達がいたと言われても不思議はない。

しかし、意地でも設備投資はしない。私はカイロを握りしめて寝ていた。足元に2つ、両手に2つ。寒くて身体が縮こまり、朝起きると肩が凝っている。正直、これはアホだった。

年度末に向かって仕事もハードデイズナイトになってくる。平日は週に1日、水曜日しか寮に帰らない生活になる。

寝るのは地下の仮眠室。

あれ?こっちの方が快適だ。

室温は適度、誰にも邪魔されず個室でシャワーが使え、朝も勤務時間直前まで寝ていられる。仮眠室に劣る寮の存在意義って何なんだろう…。

しかし、ビルから殆ど出ない生活はやはり精神に悪影響を与える。

深夜、東京のど真ん中で地中に潜り、静寂の中に小さく機械音が聞こえる部屋。誰ともわからない寝息。隣のレクリエーション室から聞こえてくるらしい、調子の外れた音楽。

ここはどこで、いつなんだろう。おかしなトリップ感に苛まれる。

年が明けると転任試験の時期が来る。「転任」とは、我々国立大学職員らが文科省に転籍することである。

転任試験は読書感想文程度の筆記と集団面接だけ。よほど人格的に問題がなければ落ちないネガティブチェック。

要するに、やる気さえあればどうぞ、ということだ。我々は疲れを厭わぬ志願兵として期待されているのである。

ここでの仕事の内容は、気難しい教官に送るメールの文面を、係長の添削の下で半日費やして試行錯誤する大学の仕事よりもずっと面白いが、体力的には奴隷船並みにきつい。

ついていけるか。

「とりあえず研修期間の延長」という選択肢もあった。しかし、中途半端に研修生を続けるより、正職員として転任してしまう方が、経験値は沢山もらえる。

ゲームの時間は1日1時間と限られている。いつまでもアリアハンでスライムと戦っていても仕方ない。早くロマリアに行ってさまようよろいあたりと戦わなくてはならない。またドラクエの話になってしまった。

1年前の今頃は、「それじゃ、やりますか」の課長の号令の下、ジャンバーを着て朝から雪かきをし、ノーマルタイヤで出かけようとして動けなくなった学生の車を押していた。それが今では祝辞の調整のため、我が物顔で大臣室に出入りしている。そんな、わかりやすい人生の上げ潮感もあった。

それに、一旦文部科学省職員の身分を得れば、もしも身体を壊しても、全国どこかの大学に天下れるのではないか、という打算もあった。

いざ転任試験である。

「東京の暮らしはどう?」

「元々インドア派なので、どこにいても変わりません」

「こっちには友達なんかもいないよね?転任すると寂しくなるんじゃない?」

「元々友達が少ないので大丈夫です」

無事合格したが、今思えばもっとよそ行きの回答をした方がよかった。

希望が叶い、次の舞台は外局、文化庁の著作権課。

当時、とある著作権法の改正が日本の音楽文化を破壊するものだとして界隈を騒がせていた。

愚かな文化庁め。俺が天に代わって正義の鉄槌を喰らわせてやる。そう考えていた。若気の至りである。

「省内には局の筆頭課より強い課が2つある。それが大学振興課と著作権課だ」

同僚、三輪係長の激励に、私は武者震いを覚えていた。

1年限りで研修生は解散する。当然、所属元に帰る者の方が多い。

同僚と話していて、「僕の同期が〜」「今日は同期飲みで〜」という話題に接すると、一抹の寂しさがある。

研修生上がりの我々には省内に同期がいない。強いて言えば「研修同期」とか「転任同期」はいるが、ただでさえ数が少ない上、年齢もバックグラウンドも様々である。多少、孤独感がある。 多少ね。

塚本さんともお別れである。最後の日、私は荘厳さに欠ける仮庁舎の玄関で彼を見送った。塚本さんは、何度も振り返り、おどけて手を挙げて帰っていった。

姿が見えなくなる。

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さあ、祭は終わった。

残された三鷹寮は、ただ単なる最低の寮である。

しかし、相棒が去ったはずの廃屋は、何故かほのかな温かさを湛え、手洗い場の窓からは柔らかな光が差していた。さながら祭の後の余韻か。

いや、それではいけない。

私は江東区に、気分よくトイレに行けて、好きな時間に洗濯ができて、好きな時間に風呂に入れるという、何一つ不自由のないマンションを借りた。

その年、一級建築士によるマンション耐震基準偽装事件が社会を賑わせ、各種施設の耐震調査が行われた結果、三鷹寮は基準を満たしていないことが判明した。

一発でかい地震が来れば、ゴキブリと変人たちと一蓮托生、瓦礫とゴミに埋もれて全員死んでいたというわけである。

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砂上の楼閣はめでたく取り壊され、跡地は長谷川病院の駐車場となった。

丸の内。

見たままのコンクリートと緑、それに高揚感が混ざった匂い。好きな街である。

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三鷹寮はこの世から消えてなくなり、点と点でつながっていたあの仮庁舎も既に存在しない。

すべては思い出の中。

そうやって沢山の思い出を作り、それを後で一人で眺めて、幸せな気持ちになる。

私の生き方は、丸っきり過去に向かう生き方だ。

さあ、お前はもう思い出の底に沈んでいろ。

さらば、青春の三鷹寮。

あなたの御寄附は直接的に生活の足しになります。