甲子園美容師

大学生の頃、近所の美容室に通っていた。

近かったから。近いから近所という。

ある日のカットでのこと。私を担当してくれている店長さんに髪を切ってもらった後、顔剃りの時間になった。ぐいーんと椅子が倒される。

「彼、甲子園出たことあるんですよ」

店長さんに紹介されて傍らに立ったのは、見慣れない若いスタッフ。ご存知のように、サロンではカットの担当と、顔剃りやシャンプーなどのオプションは担当が分かれることが多い。

私は特に野球好きでもないので大したリアクションもしなかった。ポジションも聞かなかった。見た感じキャッチャーか外野っぽかった。

いざ顔剃りが始まる。実にワイルドである。よくない。ワイルドな顔剃りはよくない。それが甲子園出場の力か。要らんだろう、そんな力は。

痛い。痛いぞ。これは切れてるんじゃないか?いや、しかし…。男性諸氏ならおわかりだと思うが、カミソリで誤って肌を切ってしまっても、その瞬間は気のせいかなと思う場合が多い。そして、残念ながら気のせいではない場合が多い。

顔剃りを終えて椅子がまたぐいーんと起こされる。

今日も気のせいではなかった。

口の周り、顎のあたり、数か所から血が出ておる。

お前はどうして気づかない。

甲子園美容師は何事もなかったように蒸したタオルを持ってくると、顎の下に当てて左右にシュッ、シュッとこすり始めた。

うおおおお。

何だそれは。そんなマッサージがあるのか。私は「イデデデデ」と呻いたが、彼はやめようとしない。どうして?明らかに患者に異変が起きているよ?

正面の鏡に映って見えるタオルがところどころ血で染まっている。気づけよ。

彼は一向にマッサージをやめないので、いつの間にか私は、彼はいつ気づくんだろうと思って可笑しくなってきた。

謎のマッサージが終わった。

彼は蒸しタオルをどこかに片付けに行った。気づけよ。さすがに気づけよ。

私は私で正面の鏡を凝視していた。また口の周りに血が流れている。当然だ。傷口をこすったんだから。

タオルを片付けた彼が戻ってくる。何の言葉もない。どことなく目が虚ろである。というか、最初からこんな顔だった。

そのままシャンプーになった。またぐいーんと椅子が倒される。シャンプーの間も顔にタオルがかけられる。痛えなあ、顔。血がついちゃうけど、まあ俺のせいじゃないよな…。

実にワイルドなシャンプーだった。甲子園を感じる。それはいい。そういう力はいい。いいよ、君。

シャンプーが終わりまたぐいーんと椅子が起こされる。彼が片付けに持っていこうとするタオルに注意深く目をやると、血がついているのがわかる。気づけよ。

鏡を見ると、まだ血が流れている。どうしようもねえなこりゃ。

タオルを片付けた彼が戻ってくる。何の言葉もない。私の髪を触り、寡黙に何かを思案している。そして血はまた流れている。

もう可笑しくてたまらなくなってきた。

「あのー、めっちゃ顔切れてて痛いんですけど(笑)」

そう言うと店長さんがすっ飛んできた。

しきりに謝られ、何らかの軟膏のようなものを塗られる。美容室ってそういうのも置いてあるのね。

甲子園美容師は一言も発さず視界からフェードアウトしていった。ちょっと不器用過ぎないか、君は。

カットを終えて店を出ると、軟膏が効いたのかすぐに血は引いた。すごい薬だな。

あれから20年近く経った今でも、故郷に帰った時は店長さんに髪を切ってもらいに行くことがある。店長さんの腕は抜群なのだ。

そして、私はたまに甲子園美容師の彼のことを話す。「昔、甲子園出た人いましたよね」と。

店長さんは、ただ「いましたね」と言う。

そして、その会話は終わるのである。



あなたの御寄附は直接的に生活の足しになります。