プロレスでもやるか

私は総合格闘技があまり好きではない。と言うと、「すわ、お前プロレスファンか」という反応があるかもしれないが、その通りである。正確には「元プロレスファン」ではあるが、今回はそんなぼんやりとした思い出の話。

中学生の頃、全日本プロレスが好きだった。ハマったのは中1の時で、たまたま深夜に放送されていた『全日本プロレス中継』で見た永源遥の回転エビ固めに感動したからだ。

それまでの私のプロレスに対するイメージは、空手チョップとか16文キックとかバックドロップくらいで、「どこがレスリングなのかわからない殴り合い」というものだった。

しかし、実際に目にしたプロレスは無駄に技巧的な技が次々と繰り出される世界で、そのエンターテイメント性には驚くばかりだった。当時、会話のきっかけがそれしかない父と一緒によく地方巡業の会場に出かけ、生で聞く肉体のぶつかり合いの凄さや、マットを叩く音にシビれた。物販で三沢光晴や小橋健太のTシャツを買って部屋に飾った。アニメやSF映画の世界の話ではなく、ヒーローは実在していた。

同級生ともプロレスの話題で盛り上がったが、休み時間に高田君のスリーパーホールドで「落ちた」森君が、授業開始の「起立」で立てなかったこともあって、学校ではプロレス禁止令が出された。ちなみに森君は高校生の頃に急性白血病でこの世を去った。小室哲哉が好きな屈折した優しい不良少年だった。

だが、中学校を卒業すると同時に私はプロレスから遠ざかってしまった。ある日、本屋の格闘技雑誌のコーナーでプロレス雑誌を立ち読みしていた時に、ふと周りを見ると、みんなキモかったのだ。およそ格闘技とは無縁のへなへなした男ばかりで、いかにも「俺、力に憧れてます」系の人間ばかりに見えた。

それは自分自身がそうだったからだろう。中学生の頃はプロレスは満遍なく男子に愛されていたが、高校生になると、プロレスが好きなのはスクールカースト中位より下の陰気なサブカルチャー人種が多くなっていた。言うまでもなく私はそちら側の人間である。自分の中に、中位カーストの人間特有の上位カーストに憧れる気持ちや下位カーストを蔑視する気持ちを自家中毒的に感じ取ったため、プロレスを避けることになったのだと思う。

さて、そしてプロレスの代わりにスクールカースト上位のリア充が好むようになったのが、この頃現れた総合格闘技のK-1であった。総合格闘技とは、簡単に言えば、「ボクシング対空手、どっちが強いか」「相撲対プロレス、どっちが強いか」、ルールを最小限にして「最強」を決めるスタイルである。

つまらなかった。

「どっちが強いか」と言いながら、試合ではお互いの格闘技の持ち味が発揮されることはほとんどなく、ひたすら寝技が続いたり、マウントポジション(倒れた相手にまたがった状態)で殴り続けるばかりの様相だった。一応、断っておくが、選手は一生懸命やっている。仕立てが私の好みではないというだけのことである。

なるほど、真剣勝負というのは得てしてこういうものなのだろう。相手の特技を消して、力がなくなるまで押さえつける。それが勝ちパターンだ。

対してプロレスには「受けの美学」があるとされる。相手の持ち味を最大限に出させた上で、それでも勝つのが本物、という思想である。だから、ロープに投げられれば返ってくるし、相手がコーナーポストに登ればミサイルキックを受けるために無闇に近づいていく。これが真剣勝負を好む者の目には「茶番」「やらせ」「八百長」と映る。

果たしてプロレスはそういった性質のものなのだろうか。面白い事件があるので紹介しておこう。大仁田厚とセッド・ジニアスとの試合で起きたトラブルを巡る裁判の判決だ。

勝敗はあらかじめ取り決めがあり、ジニアスが大仁田にいきなり殴りかかる行為は事前の取り決めに反する行為であり、プロレスでは事前の打ち合わせに反する攻撃は許されない」としてジニアス側の落ち度も認め、プロレスが事前に勝敗を決めて行われるショーであることが国から認定されて世界中に報道され、世間から注目を集めた。この結果に納得がいかない大仁田側は東京高裁に控訴したものの、同年10月25日東京高裁は1審判決を支持。大仁田側は最高裁に上告するも、2007年3月15日、上告棄却により原審判決が確定した。


これはあくまで一つの試合の例に過ぎないが、プロレスにはそういった面もあるということは否定できない。前述の「受けの美学」の存在を含めて、プロレスは観客を強く意識したショービジネスである。

だが私は言いたい。「真剣勝負」とは一体何なのか。

いくら最小限でもルールがある時点でプロレスと変わらないのではないか。どちらが強いかというのであれば、ピストルを持ってきた方が勝つに決まっている。つまり、プロレスは虚構があることを前提としているが、総合格闘技は虚構を巧妙に不可視化している。

我々の人生においても同じではないか。出自は選べず、容姿、知能など性能にも個体差がある。だから社会制度、つまりルールが大事になってくる。統計を取ったことはないが、おそらくプロレスファンは社会民主主義者が多く、総合格闘技ファンは新自由主義者が多いだろう。抗い難い大きな枠組みの中で、チョイ役で終わる者にも見せ場を与えるのがプロレスであるが、総合格闘技にはそもそもチョイ役の出る幕がない。人間社会の縮図ではないか。

ところでK-1では、サポーターだったか何だったか忘れたが、藤原紀香や長谷川京子といった美女が主要な登場人物として現れた。今のラウンドガールにも通ずる「強いオトコ」と「美女」の構図だ。さらに言えばファイトマネーが露骨に話題に上るようにもなった。金と女、男の欲望を直球で表現した世界観である。スクールカースト上位のリア充たちが総合格闘技を選好したのも無理はない。対して、プロレスはホモソーシャルが煮詰まった徹底した硬派な男の世界であった。こう書くと気持ち悪いが、「男が男だけで輝ける世界」だ。実態は違っただろうが、そういう夢を見させてくれた。

実社会でも「プロレスをやる」という表現が使われることがある。誰かと誰かが喧嘩をしている、本気で罵り合っているように見えるが、役割を演じているだけという意味である。それはステークホルダーを満足させるためであったり、時には相手を立てるためであったりもする。プロレスはそのようなショービジネスである。もちろん総合格闘技もショービジネスであることに違いはない。だが、プロレスはタッグマッチ(2対2)やシックスメンタッグマッチ(3対3)が組まれることに対して、総合格闘技には基本的にタッグマッチがない。個対個の闘いなのである。人はプロレスに社会の縮図を見るが、総合格闘技の場合は芸術作品を見るような鑑賞者となるか、自分個人を投影することになる。愉しみの性質が異なるのである。

あなたも私もマリオネットだ。嘘を嘘と知りながら、この思いは通じないなとわかっていながらコミュニケーションを続ける。自分の役割を懸命に演じ切る。演技と本気がないまぜになり、そして臨界し、汗と涙の中で逆説的に真実が立ち現れてくる。それが人間の悲哀であり美しさだろうと思う。

プロレスでもやるか。


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