ちょっとやそっとじゃ殺し合いはやりませんよ

「意外と、言えば変わるものなんだなって思いました」

以前、若い部下から言われたことがある。私たちが、ある学校を卒業した人たちを、本人たちが希望する機関に割り振るという交渉をしていた時のことだ。

候補者の一人Aさんが希望する機関から「受入れ不可」の回答があった。理由は、「Aさんは卒業試験の成績が我々が要求する水準を超えていない」というものだった。

ふむ、Aさんの調書を読み込んでみると、確かに試験の成績はよくなかったが、平素の実力は十分にある。志望動機もクリアであり、学校側の人物評もよい。また、他の候補者と見比べてみると、卒業試験でAさんより高得点を取ったBさんよりも平素の成績は優れていることがわかる。よし。

私たちはこれらの点を相手方に説明、卒業した学校から推薦状を書いてもらうとともに、「私たちとしてもAさんの能力を保証する」と添え、再考をお願いした。

今度は「受入れ可」の回答があった。

真相は不明である。相手方が懸念したのは形式的な試験の点数ではなく実力だったのかもしれない。あるいは「私たちが保証する」と言ったことで、受け入れる責任を私たちに転嫁できると思ったのかもしれない。結果論だが、いわゆる「課題解決型の提案」つまり問題の本質を捉えたということだろう。

部下は、仮にも機関として正式に回答してきたことが覆ったのを意外に感じたそうだ。

ふと私はどこかで見かけた、映画『バトル・ロワイアル』を見たある外国人の感想を思い出した。その人は、担任教師キタノの「そこで今日は皆さんに、ちょっと殺し合いをしてもらいます」という言葉に素直に従う中学生を見て「なぜこの生徒たちは教師に逆らわないのだ?」と思ったそうだ。

私も中学生だったら従うかもしれない。例えば今でこそ「不登校」は一般的になっているが、私が中学生の頃のそれは「登校拒否」と呼ばれ、ごく少数の特殊な児童が起こす行動だった。毎日のように体罰教師に殴られても、不良に殴られても、私には「学校に行かない」という選択肢は思いつかなかった。

世の中は、法律で決まっていること以外は、交渉で何とかなる。告げられた締切は、本当のデッドラインがわかればそこから逆算して再設定を提案することができる。時間を置いて周囲の状況が変われば、相手方の事情が変わる場合もある。

こういうことは歳を取らなければ実感しにくいことではある。若い頃は、社会が抽象的で、実態以上に大きく、動かし難く見える。生きてきた時間が相対的に短いため、長いスパンで物事が動くという経験が少ない。

時間をかけて、自分自身が社会の一部になっていくにつれて、何だこんなことか、と社会の可変可能性を知る。こんなエエ加減な俺が担ってるんやから、そら何とでもなるわな。

意外と、言えば変わるものだし、読めばわかるものだし、話せば伝わるものだ。つまり、意外と、やればできる、ということだ。

そういうことを態度で示して見せるのが年長者の一つの務めであると思う。「ちょっとやそっとじゃ殺し合いはやりませんよ」と。

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