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あいにいくね

 わかばはこのベンチが好きだ。
辛いことや嬉しいことがあると、近所の公園に立ち寄りこのベンチに座る。高台から見下ろす光る海。そして、どの建物より空高く突き抜け、主張する製紙工場の煙突。その赤と白のボーダー柄の主張を物ともしない存在感で鎮座する富士山。海と工場を従えた町並みと富士山が一斉に見られるこの場所が、わかばにとってもお気に入りの場所。太陽の光が波間にキラキラと反射し、わかばの気持ちを上げた。周囲を囲む山の尾根に隠れることなく、広がる裾まで望める富士山。移り気な雲は、その壮大な姿さえ簡単に覆う。山頂右側の稜線にポコッと出っぱった宝永山は、気が付くと雲に隠れていた。富士山はいつも気分屋だ。

この日は、海越しに工場の街並みと霊峰富士の両方が見られた。

「今日はいい日だなー」
わかばは、雲のない空を見上げていた。ここに住んでいると、富士山がいつもそこに「居る」のが当たり前になり、その雄大な霊峰にさえ感動は薄らいでしまうものだ。それでも、なぜかここに住んでいると富士山を探してしまう。それは、わかばも同じだ。きっと、おばあちゃんの影響だと本人も自覚していた。おばあちゃんは毎日、富士山を眺めては「今日の富士山」をわかばに報告するのがお決まりだった。わかばは、富士山を見上げながら、おばあちゃんを思い出していた。
 ここは祖母の幸子とわかばがまだ小さかった頃から、何度も手をつないで散歩に来た場所。木陰のベンチに並んで座り、おしゃべりした大切な場所だ。桜の木が数本あり、一年うち一週間ほどは花見で賑わうが、それ以外は特に何の特徴もない公園。木々に囲まれたベンチしかない、テニスコート2面分ほどのこの場所は、近所のお年寄りが散歩の途中に立ち寄るくらいで、普段は、わかばたちの貸切状態だった。

 おばあちゃんの幸子が亡くなってもうすぐ一年が経つ。わかばは、事あるごとに一人でおばあちゃんの大好きな富士山を探しにベンチに座りに行った。

 わかばは、周りの大人、友達だけでなく家族からも「無口な子」と言われてきた。しかし、わかば自身はそのレッテルに違和感があった。なぜなら、おばあちゃんの前では誰よりも饒舌で、いつまでも喋っていられたから。無口な訳ではなく、ただ、話す機会を失っていただけだ。わかばは、言葉を発しようとする瞬間に「これを言うと何て思われるか?」と考えてしまう癖があり、言葉を発する一瞬手前で割って入られてしまう。会話に入るタイミングを逃していることを知られるくらいなら無口と言われていた方がましだと、無口なキャラクターでいると、そこから抜け出せなくなっていた。 
 でも、そんなわかばにも、ストレスなく話が出来る相手がおばあちゃん以外にいた。それは、親友の美南(みなみ)だ。おばあちゃんと美南が相手だと、安心して言葉に出来た。おしゃべりのスイッチが入ると止まらなく、わかばのヘンテコなこだわりの話さえも二人は面白がって聞いてくれることが嬉しかった。
 おばあちゃんは、わかばの話を
「へー、そうなのー」
といつも、ニコニコを聞いてくれた。小学生時代は、特定の子ばかり贔屓する先生への不満や、学校で飼っているウサギのモモのことを口をとがらせ夢中で話した。中学生に上がると母親の裕美と度々ぶつかり、学校の話より家族への憤りを口にすることが増えていった。幸子は息をするのを忘れていないかと心配するほど興奮ぎみで話す孫娘をニコニコ眺めていた。
 わかばが大きくなるにつれて、公園に行く機会はめっきり減ったが、わかばの通う塾と祖父母の家が近いこともあり、学校帰りに立ち寄る機会は増えていた。
 わかばが高二の夏に部活を引退すると受験勉強を理由に、週の半分以上は祖父母の家にいた。休みの日でさえ
「家だと誘惑が多くて、勉強に集中出来ない」
と勉強道具を抱えて自宅を出ていた。勉強を理由にすれば、母親は何も言わなかったし、実際、集中できた。母親と喧嘩した後や友だちとの悩みを抱えた時は、気持ちを落ち着かせようとここに来た。祖父母の家は心の避難場所だと密かに頼っていた。
 わかばが祖父母の家に行くと、おばあちゃんはいつも、おやつにアルフォードを出してくれた。小学校三年くらいの時、わかばが「アルフォートが好き」と言ってから、幸子は家のアルフォートを切らしたことがない。毎回、二匹のくま絵の着いた、わかば専用のマグカップに紅茶を入れ、それと一緒に一つひとつ個装から取り出されたアルフォートを四枚、白いお皿に並べ、黄色いランチョンマットの敷かれたテーブルに置いた。それを口にほおばりながら小一時間ほど話し、気が晴れると、そこからはお腹がすくまで、何時間でも勉強に集中が出来た。わかばにとっては、祖母とのおしゃべりは勉強をするためのルーティーンみたいなものになっていた。
 おばあちゃんは話が終わるとわかばの横の空いている椅子に座って
「さぁさっ、おわかちゃん。ケセラセラよ」
と微笑み、わかば左肩をポンポンと叩き、
「ヨイショ」
と腰を上げ、テーブルの片付けをしながら、軽やかにステップを踏みながら 
「ケセラ〜セラ〜」
と鼻歌混じりに歌っていた。
 幸子はドリス・デイという昔のアメリカ人の歌手が好きで、よく英語なのかハミングなのか分からない適当な英語でご機嫌に歌っていた。昔のことだが、小学五年までピアノを習っていたわかばに
「ケセラセラって歌、弾ける」
と幸子に聞かれたことがあった。その日の夜、わかばは母に頼み、楽譜をネットからプリントアウトしてもらい、その曲を練習した。大好きなおばあちゃんを喜ばせたい。初めて自分で考えたサプライズだ。幸子に曲を披露すると、手をたたいて喜び、わかばに抱き着いた。よほど嬉しかったのだろう。抱き着いた拍子に、おばあちゃんの涙がわかばのほっぺたにくっついた。普段、おだやかなおばあちゃんが、こんなに感情的になるんだと胸の中で困惑したことを昨日のように覚えていた。
「もう一回、もう一回」
おばあちゃんはわかばの伴奏に合わせて何度も歌った。その後、事あるごとに歌うので、わかばはもちろん、山下家みんなが口ずさめる「家族のみんなの歌」になっていた。
「ねー、おばあちゃん、ケセラセラって何?」
ある日、わかばが、ふと、気になって聞いてみた。
わかばは、今まで、何となく「大丈夫」くらいの意味かなと思っていたが、ちゃんと聞いたことがなかったことに気づき、急に気になったのだ。
「ケセラセラってね『なるようになる』って意味よ。今までどんな不安なことあっても何とかなってきたと思わない?おわかちゃんは、今、心配なことってある?」
わかばは、自分のおでこの上あたりに視線を向け考えた。
「うーん……。あるっちゃ……ある。」
幸子はわかばの隣に座り、顔をのぞき込む。おばあちゃんのいつもと違う表情にわかばは身構えた。
「今、心配していることの九十パーセントは起きないんだって。おわかちゃんが今、十個心配していることがあったらそのうち九個は何も起こらないだよ。不思議よね。おばあちゃんもたくさん心配があるけど、起きない心配をたくさん考えてた。そんなのケセラセラ。なんとかなるものよ。おわかちゃんの心配もきっと大丈夫。おばあちゃんが保証する。心配が出たら『ケセラセラ』よ」


 わかばが高校に入った夏。幸子は、体調を崩し、病院に行くとそのまま検査入院になった。原因が分からず、何度も入院する度に体力が落ち、一人で歩くのが困難になっていった。それから、癌が見つかった時は遅かった。何度か手術し、入退院を繰り返したが、「家で過ごしたい」という幸子のたっての希望で自宅療養を選んだ。
 幸子には家に帰りたい理由があった。
ひとつは、半世紀近く、家事を幸子に任せて来た夫の薫を家に一人にさせる心配。もう一つは、自分が動ける間に家の整理をしておきたかった。
幸子の一人娘で、わかばの母親である裕美が近くに住んでいたので、ヘルパーさんの手を借りながら、裕美の夫の健治とわかばも実家に通い献身的に支えた。今まで家の事をしてこなかった薫も、掃除、洗濯、料理、自分のことは自分でやれるようにと、幸子に教わりながら、出来ないなりに必死やっていた。元々、薫は器用な所もあり、覚えは早かったが、家事を何個も同時にすることが出来ず、その要領の悪さに裕美は口を出した。しかし、幸子は
「おじいちゃんがやってくれているだけでも奇跡よ」
と幸子や裕美の何倍も時間がかかる家事が終わるのを、おだやかに待っていた。幸子が家に帰って来てからは、どこに行くにも二人は一緒だった。薫は幸子を支えるために手を繋いで移動することが増えた。わかばは、おじいちゃんとおばあちゃんが手を繋ぐ姿が「可愛い」と、はしゃぎながらよく写真を撮り、
「いつも二人は、仲良しね」
とひやかした。おばあちゃんは
「手伝ってもらっているだけよ。一人で歩けるなら手をつなぐなんてしやしないわ。そんなに仲良い訳じゃないのよ。まぁ、おじいちゃんいなかったら生きていけないからねー。感謝しているのよ」
本人がいる前で、照れずに言えるおばあちゃんをわかばは尊敬していた。隣で薫は何も言わずニコニコと笑っていた。
 幸子は、家に帰ってきてから、まず、始めたのが断捨離だ。リビングの隣にある和室に【いるもの】【いらないもの】【保留】とマジックで殴り書きされた大きな段ボールを裕美が用意し、和室の押し入れや二階の納戸から、薫と裕美がモノを運ぶ。
 幸子の指示で次から次へと仕分けされていった。ほとんどが【いらないもの】に選ばれ、【保留】に入ったモノは、一つだけ。娘と孫が七五三に着た紅いろの着物だけでだった。その保留物は、裕美が内緒で救出していた。
 二週間ほど経つと、見事に家にモノが無くなっていく。キッチンの大きな食器棚に綺麗に並ぶ美しい絵の入ったお皿。この家が出来てから、海外旅行に行く度に、少しずつ増えていったそのお皿は、知り合いに引き取られ大喜びされた。テーブルにはお皿の代わりに、高級バームクーヘンが二つ置かれていた。スカスカになった食器棚を見て、幸子は
「ここに引っ越してきた頃みたいになったね」
と笑っていた。
幸子の断捨離はキッチンや押し入れだけに留まらなかった。リビングの中央、テレビの横に置かれたキャビネットの上に飾れてきた、へんてこな中南米のお土産の置物たちも姿が消えた。それは薫が仕事でメキシコに行った時にわかばに買ってきたお土産だったのだが、その当日、幼児だったわかばは、それに興味を示さず代わりに幸子がもらったものだった。その日から木製の不思議なカラフルな猫がポツンとリビングの中央に飾られた。それから、娘婿の健司が同じような猫の置物をショッピングモールで見つけ、衝動買いをし
「一匹じゃ、寂しいだろうから、ボーイフレンド連れてきたよ」
と勝手に隣に並べた。それからというもの、家族の誰かが同じようなものを見つけては買ってきて並べるので、猫、カエル、鳥おじさんの人形が七体ほど、にぎやかに並んだ。幸子はそれらを百円ショップで買ってきた季節の小物と組み合わせて飾り付けて楽しんでいた。春は桜。端午の節句で折り紙の兜を付け、こいのぼりを持たせ、クリスマスには、猫はサンタクロースに変身した。薫は
「捨てていいのか」
と何度も聴いたが、幸子は迷うことなく、
「多分、置いてかれても困るでしょ……」
と丁寧に、そして、一つひとつお別れするようにゴミ袋に詰めていった。
 夕方、幸子が裕美と買い物に出掛けるというので、力仕事で疲れていた薫は、家に残ることにした。一人残った薫は、そこにあったはずの幸子のモノたちが無くなったことに目が行ってしまい胸が苦しくなっていた。その苦しさは、若かりし頃に幸子とまだ付き合う前の会えない切なさに似ていたが、それよりも遥かにリアルで胸の奥を摑まれる感覚が身体感覚と交わり苦しくて呼吸が浅くなっていた。「これはまずい」薫はゆっくりと寝室へ移動しベッドに潜り込んだ。

 気を使って起こさなかったのだろう。
薫はそのままの格好で朝を迎えていた。隣の幸子の顔を覗き込み寝息を確認すると、まだ起きる時間には早かったが、気分を変えようと散歩に出た。玄関にはいつ入院してもいいように、着替えなどが一式入った大きなスポーツバックが置かれていた。


 家の整理が落ち着くと、二人は次に終活を始めた。薫は
「死ぬ準備をする何て縁起でもない」
と心底嫌がったが、幸子の意志の強さに根負け、一緒に「死んだ後の段取り」を始めた。二人は近くの家族葬の出来る葬儀会館を見学に行った。その施設は町内の組で不幸があった時、中に入ったことはあった。しかし、自分達が送られる側として見学をすると、知らないことだらけだ。幸子は、今の葬儀のカタチに感心し
「へー、そうなんだ」
といちいち声を上げた。一日一組貸し切りの小さな式場は、間接照明と木のぬくもりのモダンな建物で寂しさがなく、好感を持った。式場を案内されると中にはアップライトピアノが置かれてあった。案内してくれたスタッフに聞くと、ピアニストの生演奏で送ってもらえるとのこと。幸子は目を丸くして喜んだ。
 二人はその場で互助会に入会した。これに入っていると葬儀代が安くなるらしい。
「どうせ払うなら安い方がいいでしょ」
幸子は嫌がる薫を説得したが、最後は「俺は何でもいい」と言われるままに同意した。薫はただ、幸子を悲しませることはしたくなかった。
「こんな素敵な所で好きなピアノを聞きながら家族に送ってもらえるなんていいよね。ケセラセラ~って。わかばに弾いてもらおうかしら~」
まるで結婚式場を見学しているような幸子の発言に、薫は少し苛立っていた。まだ、死を受け入れられない自分が「ちっぽけな人間だ」と卑下していた。

 二人の終活は続いた。別の日には、葬儀場で紹介された納骨堂の見学に行った。
「死んだ後の夫婦の眠る場所を決めることが二人の最後の共同作業だね」
幸子の頭には、そんな言葉が浮かんだが薫が嫌がると思い、口を開くのをやめた。跡継ぎは一人娘で孫も女の子。この先、お墓を守っていく人が続かないと考えると、初めから立派なお墓を建てるという選択肢は無かった。だから、二人で一緒に入れる永代供養が出来るお墓を探していた。家から近い場所で探していると葬儀社のスタッフに相談したらここを紹介された。幸子は
「紹介してくれた人が感じ良かったから、きっといい場所に違いないね」
と勝手に期待が膨らんでいた。薫が運転する車で、通りを一本入った木々に囲まれた坂道を上がっていくと、こじんまりとした平屋が目に入ってきた。納骨堂というより、山間のカフェのような建物。二人の思っていた納骨堂とは違い、少しホッとしていた。車を止め、建物の中に入るときっちとした身なりの女性スタッフが迎え入れてくれる。室内は外観以上にお洒落なカフェのようで幸子の気持ちが明るくなっていた。ここは、お墓特有の寂しさが感じられないあたたかさがあった。街のカフェと変わらない木のぬくもりあふれる店内には軽快なBGMが流れていた。出されたコーヒーを飲みながらスタッフの説明を聞いている間、薫は「幸子と二人でこんな時間を過ごすのも最後かもしれない」とおもむろに考えていた。そんな余計な思考から離れようと、部屋の大きな窓から見える富士山を形を変えて横切る雲を眺めていて、すつつやささ説明をほとんど聞いていなかった。
「今度、是非、お子さんと一緒に見学に来てくださいね」
上の空な薫に向って、スタッフが笑顔で声をかけた
「あ、はい」
と変な返事になった。隣では幸子が楽しそうに
「ねー、お参りするところに写真十枚、映せるんだってー。なんの写真にしようかしら。富良野の二人の写真って、まだ、携帯に入ってる?」
テンション高めな幸子を横目に、薫は不機嫌になった。幸子が居なくなることが想像出来ない。
「俺が先に逝った方が楽なのにな」
誰にも聞こえない声でつぶやいた。スタッフにお礼を言うと幸子の腕を抱え、少し強引にひっぱり納骨堂から出た。ここは薫の意見を押し通し、二人とも亡くなった時に、ここで契約しようということになった。


それから、三か月後、幸子が亡くなった。
医者からも余命を言われていたから、家族みんな覚悟はできていたが、いざ、亡くなると想定していた以上に、考える事、やらなければいけないことが多く、葬祭スタッフに言われるまま段取りをした。裕美の仕切りで家族みんなで役割を分担し、全てが順調だった。順調すぎて何をしたか思い出せないほど。
「おばあちゃんが思い描いていたものに近い形で送ることが出来たな」
と喪主であるわかばの父親の健治は満足していた。残された家族も、幸子が残した「エンディングノート」通りに葬式が出来た充実感は、幸子へのせめてもの感謝を伝えられたものかもしれない。それは大切な人を失ったことに折り合いをつけさせてくれ、ふわーっと日常が戻るきっかけになっていた。
 幸子の葬儀が終わると、わかばは、今までのように祖父母の家に立ち寄ることがなくなった。そこに行くと悲しくなるのが分かっていたし、おばあちゃんがいなくなって、寄る理由が見つからなかった感じがしていた。その代わり、学校が終わってから美南と教室に残ってお喋りして、塾の自習室で受験勉強して、自宅に帰って、また、勉強してと目の前の日々を忙しく過ごしていた。そうすることで、ふいに襲われる寂しさの時間を紛らわしているのかもしれなかった。


 わかばはノートをまとめるのが得意だ。特に歴史の先生は、授業中に何気なくテストに出るところを言う癖があるので、それを聞き逃すまいと集中する。元々、歴史は得意な訳ではなかったが、この先生の作る" テストの法則 "に気づいてから、成績が上がり、授業が楽しくなっていた。わかばは、周りからは「歴女」とか言われているが「歴史を愛している」みたいなことは全くない。ただ、「成績が良い」ことが「好き」としているだけだと思っている。この「歴史のテストの法則」は一部の成績上位者の間ではよく知られた事なのだが、先生の超高速の説明にほとんどの生徒がついていけず、法則をまとめることがなかなか出来ない。そんな中でも、わかばは、先生が重要なことを言う前に出る癖に気づき、それからは焦ることなく、授業中の八割はテスト対策のノート作りに没頭していた。

 それは、期末試験の前のことだった。いつもは「わか、やっほー」とわかばの席に来てくれる親友の美南が、その日は神妙な面持ちで現れた。昨日の放課後、担任に呼び出され、このテストの成績が悪かったら推薦を取り消すと言われたようだ。美南はクラスで一番早く推薦が決まり、浮かれているのをクラスの一部の生徒が良く思ってないことをわかばは察していた。多分、誰かが先生に言ったのだろう。美南が突然泣き出した。
「うち、歴史がやばいんだ。暗記系苦手だから。あの先生何言っているかわからないし。わかば、ノート取ってるよね。貸してほしい……」
いつも話を聞いてくれる親友のピンチを救えるならと、わかばは、すんなりノートを渡した。
「美南だから貸すんだからね。誰にも見せたことないんだからー」
とお道化てみせた。
推薦が取り消される何て聞いたことないけど、美南が喜ぶなら、そんなことはどうでも良かった。
 その日の夜、事件は起きた。
他のクラスの生徒が「あの神ノートがやばい」とSNSでわかばのノートの写真が丸々アップされていた。わかばの几帳面で分かりやすいノートはすぐに拡散され、LINEのクラスのグループで、わかばの所にも自分のノートの写真が回ってきていた。
 案の定、わかばのノートの中からテスト問題がほとんど出ていた。そのおかげで、学年の歴史の平均点が前回より10点ほど上がった。テストが終わった後、「歴史、神ノート降臨」とSNSではノートの話題で持ち切りで、暇などこかの男子がテスト問題とノートを並べ検証動画まで作る始末。アップされたSNSが校内で話題になり、他校にまで拡散していた。
「先生と生徒の癒着」だとか、「問題が漏洩した」「この字は誰なのか?」と犯人探しまで始まっていた。それが先生たちにも伝わり、歴史の先生は問題の漏洩の誤解を解くために、火消しに回っていた。テストから解放された生徒たちにとっては格好のネタ。グループラインには、このノートに関する情報と推測が飛び交い、スマホが忙しなく鳴った。美南から謝罪であろうLINEメッセージが複数来ていたが既読をつけたくなくて開くことをしなかった。わかばは、犯人扱いされ、先生にまで迷惑をかけている自分が空しさと、世の中の理不尽さにどう対処したらいいか分からず一人で膝を抱えた。そして、クラスのライングループはこっそりブロックした。わかばは、そのショックで、歴史以外のテストはズタズタで、精神的にやられていた。何重もの悔しさを抱えたまま、学校が終わると誰とも顔を合わさず、真っすぐ自分の家まで帰った。部屋の扉を閉めたとたん、表面張力でなんとか溢れずにいた感情がとめどなく流れだした。そのまま布団に潜り、お腹の空いた赤ん坊のように泣いた。こうしないと生きていけない。生命の危機から脱しようと「誰かに私のことを知ってもらいたい」という願望を布団というオブラートに包んで叫んだ。誰も来ないことが分かっているからこそ、こうするしかなかった。泣き疲れたわかばはテスト勉強の寝不足も手伝って、眠りに落ちていった。
 夜になると母の裕美が部屋に入ってきて布団をめくり上げられ起こされた。「テストどうだったの?」「そんな格好で寝て。家に帰ってきたら着替えなさい」「汚いんだから靴下脱ぎなさい」「手は洗ったの?」「うがいしてないいでしょ」「鞄も片付けなさい」「あっ、玄関の靴、揃えてなかったわよ」「何度も同じこと言わせないで!!」返事をする間もなく捲し立てられ、眠気と疲れでぼやっとしている頭にキンキンと雑音として響いた。
「うるせー」
わかばは聞こえないくらいの声で呟いた。裕美には聞こえていた。
「うるさいって何よ。あなたがちゃんとやっていれば言わないわよ」
感情的になった裕美は怒鳴り、大袈裟にドアを閉め、怒りを階段に打ち付ける物々しい足音が響いた。わかばは、眠気から一気に怒りの感情に跳ね上がり、理性は崩壊し、手元にあったモノを扉に投げつけた。鈍い音が響いた先にはスマホが落ちていた。我に返り、拾い上げると画面に枝分かれした線が走っていた。ヒビを確認するや否や、やってしまったと焦りに襲われるも、壊れていないかを冷静に確認していた。電源は入っているし、タップも反応する。操作も問題ないか確認のためLINEを開くと、いつもの癖で美南のトークを開いてしまった。そこには謝罪が羅列されていたが、読まずに一瞬で閉じた。わかばは「美南の謝罪は絶対に受けない」と布団に包まりながら決めていた。きっと、メッセージを読んでしまうと「気にしていないよ」と心と裏腹に言ってしまい、苦しくなるのがわかっていた。だから、ブロックしようと考えていた矢先だった。読んでいなくても「既読」をつけてしまったことは、美南に隙を与えてしまった感じがして、自分の不甲斐なさに嫌気が差した。そして、しばらくヒビの這うスマホと付き合っていくこと思い絶望した。

「もう、消えてしまいたい」

こんな時、人生経験の浅い高校生が出来ることは、布団に包まるくらいだった。
布団の中で悲しみと怒りを行ったり来たりしているうちに、わかばは、また、眠りについていた。「怒り」はエネルギーだ。何もしていなくても体力を奪う。目が覚めると、レースのカーテンが外の光を受け取り変換した乳白色が、わかばを照らしていた。時間を見ようとスマホをの画面を覗くとそこには、昨夜の怒りの痕跡が残っていた。

〝 三月十五日六時十五分 〟

「ああ、おばあちゃんの命日だ……」
ぽつり独り言。無意識におばあちゃんのスマホの中にある写真を探していた。葬儀の時におばあちゃんの思い出の写真で飾ろうとわかばが家族のLINEグループにおばあちゃんのアルバムを作ったのを思い出し、急かされる様にタップを繰り返した。

「おばあちゃんに会いたい」

写真を見ながら、「ケセラ〜セラ〜」の声が頭の中で優しく響いていた。
「だめだよ、おばあちゃん、ケセラセラなんて信じられないよ」
わかばは涙を拭うことも忘れて、スマホの中のおばあちゃんの笑顔を一枚一枚丁寧に見ていた。どのおばあちゃんも笑っていた。「生きていたら、おばあちゃんの所に言って、お喋りするんだろうな」そんなことを考えると、会いたい気持ちが膨らんでいった。ヒビの画面は見慣れて、気にしなくなっていったが、おばあちゃんに会えない淋しさは、慣れることがなかった。
 わかばは、ベッドの柵に掛けてあった脱ぎっぱなしのジーンズとワンサイズ大きめのパーカーに着替えるとコートを羽織り自転車に飛び乗って公園に向かった。
「こんな辛い朝が命日だなんて、きっと、私を呼んでいるんだ。あそこに行けば、きっと会える」
わかばは、溜め込まれた一年分の不平、不満、愚痴、泣き言の置き場所を見つけたかもしれないという希望をそこに見ていた。辛いはずなのに身体は軽く、自転車は、目視では気づかない勾配を下っているようだ。ペダルは空気を蹴っているみたいに軽かった。「ああ、ここは、おばあちゃんのいる天国なのかもしれない。会えたら何て言おう」大切な時間を無駄にしたくないと、初デートみたいに会った時のことを考えていた。フワフワした頭とは別に身体は意思を持って公園に急いでいた。公園に近づくと胸が高鳴っていた。全力で漕いできた故の心肺機能のそれと混じり、「辛い朝」をハイにしてくれた。角を曲がると公園が見えてきた。真っ先にベンチに目を向けた。公園のベンチには人が座っているのが見えた。
「お、おばあちゃん?」
でも、近づくにつれてシルエットがはっきりしてきた。明らかに違うのが分かった。
「私、なにバカなこと考えていたんだろう……。会えるわけないじゃん……」
「辛さ」は、時に現実を逃避しようと頭をおかしくさせるんだなと、ハイになっていた自分が恥ずかしくなった。公園に着き、呼吸を整えようと自転車から降りる。霞がかった朝の凜とした空気に「ふー」深く吐き、呼吸が落ち着くと一気にハイだった感情がフラットになっていた。公園の木々の緑が優しくて、さっきまでの辛かった出来事がどうでもよくなっていた。
「命日だもん、おばあちゃんのベンチから富士山を探そう。そして、天国のおばあちゃんに挨拶して帰ろう」
そんなことを思い、ゆっくり息を整えながら自転車を引いて、あのベンチに向かった。

「おわかちゃん、おわかちゃーん」

突然、ベンチから名前を呼ぶ声が聞こえた。不意に名前を呼ばれ、鼓動が高鳴った。ワントーン高めの優しい掠れた声の主がおじいちゃんだとすぐに分かった。ほっとしたが胸の高鳴りは続いていた。

「おわかちゃん」

名前を呼ぶおじいちゃんの笑顔を柔らかな朝の日が白く照らしていた。この笑顔、おばあちゃんと三人でこの公園を散歩した時以来かもしれない。二人で交互に車いすを押しながら、公園に桜を見に来た時のことがフラッシュバックしていた。
 祖父母以外、他の誰からも呼ばれたことがない「おわかちゃん」というの呼び方。おばあちゃんと同じ呼び方。その音を久しぶりに聞き、涙が溢れてきた。何より、おじいちゃんが今、ここに居て、私と考えていることが一緒だったことが嬉しかった。おばあちゃんが亡くなってから、わかばは祖父母の家に行くことが無くなり、おじいちゃんと言葉を交わしていなかったが、心の拠り所を失った寂しさを抱え、引きこもりぎみになっていたおじいちゃんの苦しさは、ベンチにもたれる姿から痛いほど分かった。
「おじいちゃん……」
わかばは、薫の隣にちょこんと座ると。何も言わずに左肩に手を置いて、ポンポンと叩いていた。おじいちゃんは、真っ直ぐ海の向こうの富士山を見ていた。わかばも薫と同じ方向を見ていた。視線の先には、朝日が空を朱鷺色に染め、反射した光が穏やかな海を感じさせてくれる。足元の雑草に朝露が光っていた。
 おじいちゃんが口を開いた。
「ここはな、おばあちゃんとの思い出の場所なんだ」
「えっ、そうなの?私も」
わかばは、私もおばあちゃんに会いにここに来たことを話すと、おじいちゃんは笑った。
「おじいちゃんもおばあちゃんに会いにきたんだよ。ここは……、おばあちゃんと初デートの場所だ」
風に揺られた草草についた朝露がキラキラとわかばたちを包んだ。照れくさそうに、おじいちゃんは静かに笑った。柄でもない突然の告白にわかばもおかしくなりクスクスと笑った。
「ほら、やっぱり二人は仲良しじゃん。おばあちゃん、きっとうちら見て笑っているよ」
二人は朝日を受けたほんのり赤い空を見上げた。
「そうだな。仲良しかもな」
おじいちゃんが大声で笑いだした。
「何が面白いの?」
わかばも面白くなって堪えられず、笑いながら言った。大笑いする二人の頬から、キラキラと雫が落ち、足元に光る朝露と同化した。
「笑っているのに泣いてるじゃん」
わかばも、笑っているのか泣いているのか自分でもわからなくなっていた。
「一年ぶりにこんなに笑ったな」
笑いすぎて咽ながら話すおじいちゃんを見て、
「ねー、ねー!おばあちゃーん。
見て見てー。ほんと……。ほんと、ケセラセラだね」
雲の切れ間から二人の前に顔を出した富士山に向って叫んだ。富士山はいつも通りそこに居てくれた。
しばらく、お互いの一年間を埋めるように話し続けた。
「ねぇ、おじいおちゃん、前みたいに写真撮ろ。おばあちゃんとおじいちゃんの写真よく撮ったなー」
画面の割れたスマホを見て「ケセラセラ」と心で呟いた。


あれから、わかばは、学校の帰りに、おじいちゃんの家に寄って、お線香を上げて、お喋りしてから、帰るのがお決まりになった。おじいちゃんはおばあちゃんのおもてなしを受け継ぎ、家のアルフォードは切らさなかった。
「アルフォードがいつもあるのは、おわかちゃんがいつ来てもウエルカムよって合図なのよって、おばあちゃんが言っていたんだよ」だから、わかばが来ない1年近くもおじいちゃんは、アルフォートを買い続けたそうだ。「わかばが来なかったせいで、おじいちゃん太ったぞ」と笑っていた。おじいちゃんは、おばあちゃんの話を聞くと嬉しそうに話すので、あの公園のおばあちゃんとの初めてのデートの話も、初キスの話も、照れるおじいちゃんが見たくて、わかばはいろいろと聞き出した。学生の時「僕が好きな場所に行かないか」と誘い出したそうだ。それから、時間があると、あのベンチで待ち合わせをして、おばあちゃんの話をずっと聞いていたんだと。おばあちゃんの話しているのをただ聞いているのが楽しかったと。
「おばあちゃんは聞く人かと思っていたが、聞く人はおじいちゃんだったんだ……」
わかばは、おじいちゃんの話を聞く人になろうと決めた。
猫の置物あった場所に置かれた藤色の骨壺が西日に照らされ、キレイだった。


薫が亡くなって四十九日。

幸子が旅立ってからちょうど二年が経つ。幸子の三回忌と一緒に納骨することになった。
家族が見守る中、そこにはおじいちゃんのお骨を抱えたわかばの晴れやかな姿があった。
わかば
「おじいちゃん、おばあちゃんと一緒になれるね」
健治
「そうだな。おじいちゃん。おばあちゃん居なくなって、寂しそうだったからな。」
裕美
「二人とも、同じ月に亡くなるって、ほんと仲良しよね」
健治
「法事も一緒に出来て助かるな」
健治が笑ってみたものの、裕美は冷めた目で見ている。
わかば
「何で、お墓、ここにしたの?」
裕美
「ここはね、おじいちゃん、おばあちゃんが決めたんだよ。おばあちゃんが、ここなら、みんなに気軽にお参り来てもらえるかなって」
健治
「わかばはどこにお嫁に行くかわからんし、ここなら安心だって」
わかばは祭壇の形が富士山の形をしているのに気付いた。
「あっ、富士山だ。多分、富士山だよ。二人とも富士山が好きだったからなー」
祭壇でカードをかざす裕美。この納骨堂はカードをかざすと故人の写真がモニター映し出される仕組みだ。二人の笑顔の写真が流れる
「えー、写真が出るのー?いいじゃん」
移り変わる写真の中に家族で旅行した幼いわかばもいる
裕美
「懐かしいねー。この写真みんな二人が写真選んでいったのよ。ほんとしっかりしてるわ」
わかば
「えー、私も入れたい写真あったのになー」
その時、わかばが、公園のベンチにおばあちゃんに会いに行った時におじいちゃんと自撮りした写真が映し出された。
わかばはそれを見て、涙があふれた
「おじいちゃん……。
やっと、おばあちゃんに会えたんだね」

「おじいちゃん、おばあちゃん……
また、会いに来るね」
今日も富士山がいつもの場所で見守っていた。

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