ドキュメンテーションとヨガのハトのポーズ?!

ドキュメンテーションは、保育業界における記録形態の新たなツールの1つである。

簡単に言えば、もともとは、イタリアのレッジョエミリアにて行われていたものが輸入され、日本では「写真つき記録」という解釈で行わてれいる。

私も、詳しくは語れないが、レッジョにおけるドキュメンテーションは教育ドキュメンテーションを呼ばれ、振り返りやプロセスの可視化を意味している。

日本では、その日あったことを写真つきで子どもや保護者に知らせているという意味合いで使用しているところが多いだろう。

僕もドキュメンテーションは、2015年から始めており、カメラを用いるようになってから明らかに保育が変化したと感じている。それは、子どもたちの遊びのプロセスを可視化できるようになり、自分自身の振り返りになっていることが、まず大きい。

まあそんなことは良いのだが、ドキュメンテーションがこれだけ日本保育市場で認知されると、企業が参入し、研修でのテーマにもなってくる。

ただ、カメラのメーカーだったり、ドキュメンテーション自体のレイアウトだったりハウツーに偏りがちになる。

それはそれで大事なことでもある。

がしかし、結局ハウツーのみの方法論教示だけだと、ドキュメンテーションが上手くなるだけで、保育そのものへのリフレクションが深まるわけではない。

いやいや、ドキュメンテーションによる二次的作用も語られてはいる。職員間のコミュニケーションのきっかけになったり、保護者への可視化や会話の糸口になることもあるだろう。


ただ、ただ!

僕は、個人的な見解ではあるが、ドキュメンテーションをメインテーマにした研修は、お腹いっぱい感はある。というより、もっと言えば辞めた方がいいんでないの?という思いがある。

例えば、ヨガでいえば、ハトのポーズはこうすればできる!という一つのポーズの完成度を目指す研修会を行っているようなもの。

つまりさ、ヨガというのはポーズとポーズの総和から成り立っているものであり、コアは呼吸であったりする。難易度の異なるポーズを行いつつ、呼吸を乱さず、自身を内観していくことに、意義がある(と思う)。

そこでは、一つのポーズの「完成」を目指すというより、難易度の異なる多様なポーズを作りながら、いかに呼吸や内観をしていくのか、ということが軸にある。

もちろん、後から上手くいかないポーズや、動きを確認したいポーズを、取り出して振り返る事は意味があるとは思う。

加えて、ヨガでは、自身の体調に合わせてポーズは変えていってもいいし、こうすべきである、というものはない(と思う)。つまり、大事な事はポーズではない、と。


今、ドキュメンテーションの研修って、誰もそんなことは言っていないが、なんかポーズの完成を目指してしまっているように思う。


多様な人、もの、ことの総和である保育のなにを、どうしたいから、ドキュメンテーションをしたいのだろうか。


可視化という意味合いなら「写真」は大きなファクターだろうし。

振り返り(僕はここに重点を置いているが)という視点なら、「写真」はあくまできっかけにすぎす、重点はそこにおけるプロセスを保育者が「みて」いたかどうかが問われる。

「写真」という可視化された強力な媒体にとらわれ過ぎ。

大事なのは、その「写真」の前後関係や背景や状況を、保育者が「語れる」かどうか。

工作してた という「語」だけでなく

最初は、穴をあけたくて苦労していたけど、〇〇して工夫していたというような「言説」で。

欲を言えば、

以前はここで諦めていたけど、最近はこうなったよねという中期の

「物語」ナラティブで。


ドキュメンテーションでもなんでもいいが、僕はそこが大事だと思う。

そのための記録。

しかし、ドキュメンテーションは、ナラティブ的な記録にあまり適していないとも思う。


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