二項対立は必要悪?行動の原動力を探す

今、色々とリサーチしている問いがあって、その中でデューイは避けて通れず、難解な訳本に目を通して、さっぱり言い回しが分からないという苦行をしている。

そんな中、解釈本(原著を訳したものではない)にも目を通して、とりあえず本流ではないけど、デューイの足跡を辿ろうと、色々と模索している。

読めば読むほど、デューイって凄いなあと感じるのである。現代の教育の方向性を礎を作った、その一端を担っているのはデューイの考えからであるし、それを100年も前から考えていることが、もう驚きやら、歴史は繰り返すのかなあとか、色々と思考がドライブしてくる。

デューイを調べていくと、その代表的な考え方の一つとして、2項対立からの脱却ということがある。

対立理論からの脱却を目指し、ヘーゲル主義を学ぶといういわばデューイさんにとっては、最初の目的だろう。

個人と社会とか

そういった、こと。

そんなことを考えつくのは凄い、と思いつつも

なんで、そんなことを考えたのだろうか。つまり、どんな経験をしたからそいういう境地に至ったのだろうか。

デューイは少なからず教員経験があったようだ。その経験から、そういったことを考えたのだろうか。

いや、哲学という思想から、2項対立的な側面にアプローチしたのだろうか。


結局のところ、2項対立というのはいつの時代にも存在している。

保育においても、個人か集団かとか、一斉か自由かというのは永らく議論され、今は資質能力の育成という新たな概念が提唱されているものの、現場レベルでは浸透しているとは言い難い。

もしかしたら、2項対立というのは自然な現象なのかもしれない、とも思うのである。どうなんだろうか。


また、違う側面から考えると、2項対立というのは、行動の原動力になる。良いか悪いかは別として、2項のうちの一方からもう一方へ移行しようとする場合、行動力の源になる。

保育者主導から、子ども中心へとステージを変える場合、大きな行動力と探究力が求められるだろう。

しかし、模索し続けていると、いつしか対立概念としての「2つ」は、相いれない物ではないことに気づく。

両者を上手く統合していくこと、そのことの必要性に気づいていくようになる。

僕は、この「気づき」が重要なのではないかとも思う。

2項対立自体が問題ではない。

むしろ、二項対立は必要悪かもしれない。悪というのは言葉が悪いが。

どちらか一方に寄り過ぎて、自分の立ち位置に気づかず、または立ち位置に安住していることが問題なのである。

そして、移行しようと、結果的に統合していくというプロセス自体がとっても重要なのではないか、と。

さて、みんなでデューイを超えていこう。

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