子どもを怒るということと蹴るという行為の意味ー発達160より

どうしても、保育をしていると、え?と思うことがあり、こどもを怒ってしまう、おこらざるを得ないことがある。

昨日はある女児が、三回ほどトラブルがある。一回目は、集合でもなかなか集まれなくて上から大勢に呼ばれることが嫌になる。でも、仲間の子たちが呼びにいって戻ってこられた。

で、そのあと、外に行くことになって、ダッシュしていったので、友だちを突き飛ばしてしまう。

で、僕に、おこられる。自分としてはまだこの時期だから、気をつけようねっていう感じだったけど。でも怒った。

その日の午後、集団遊びをしていると、ある女の子が泣いている。どうやら、その子に蹴られた、と言っている。

ぼくは、追いかけているうちにぶつかったのかなと思っていたが、どうやらそうではないらしい。

しかも、蹴られた子は、大人しい子で自分からちょっかい出すようなタイプではない。

戸惑いと、そして驚きが入り混じりにながら、またここでも怒る。

1日に二回、その子に怒った。

保育後、なんで猪突猛進して人を押しのけたり、ましてや無防備な子をいきなり蹴るんだ・・・と同僚と話しながら、ぐちっぽくなっていく。

あ、でもなんか自分でも分かるんだが、そうやって保育者としての自分を防衛しながら、彼女のことをラベリングしているなーって。

叩く子、だらしない子みたいなラベリングをすることで、理解しようとしているなーって。

発達160津守特集の豆先生の言葉で揺さぶられるー「いかに私が叩く子、座れない子などラベリングして子どもをみていたかということに気づかされたのですーと。

そうではなく、「行為を表現としてみる」ということで、それは子どものすべてを許容しようということではなく、「理解できないことの中に隠された意味があることを知る」ということ。

ああ・・・・と思ってしまった。

集まりに来ない
人を押しのける
人を蹴る

僕としては理解できなかった行為。

でも、その意味を考えていくと、もしかしたら見てほしいサインかもしれない。

満たされない何かがあったのかもしれない。

確かに、最近、上履きのカカトを踏まないでとか、僕、言いすぎてたかもしれない。

確かに、人をたたくのはいけないことであり、そのことは僕は言うべきだと思う。

というより、言わないのはだめだろう。でも、そのあと、その行為の意味を考えるということが欠如してしまったような気もする。

安易なラベリングをしてしまう時って、子どものことをあまり見てない時が多いような気がする。

そして今日も保育は続く。

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