今すぐできる!子ども主体の保育…の前にタイトルの問題

子ども主体の保育、と聞いてぱっと思いつくイメージは何でしょうか。

例えば、研究会に「子ども主体の保育への転換」と記載されていたならば、
おそらく、今までの保育から脱却しようとしているんだな、とか
一斉保育や保育者中心から移行しようとしているんだな、というイメージを持つでしょう。

フレーズとしては、そのようなイメージが定着し、「移行する」という意味では伝わりやすい、といえます。

しかし一方で、その言葉自体に着目すると、どのようなことが「子ども主体」なのかということになると、イメージも千差万別ではないでしょうか。

子どもの興味を大事にするとか
大人の指示があまりないとか
自由に遊べるとか
やりたいことが考えられるとか

先だって、このようなテーマで研究会を行ったところ、「子ども主体の保育」へのイメージも多岐にわたりました。それが良いとか悪いとかではなく、です。

ちょっと前までは、「子ども主体の保育」ということが、大人側の働きかけを行ってはいけないというように捉えている風潮もありました(いや、ちょっと前ではなく、現在進行形なのかもしれません。少なくとも、私の周りではという意味)。

確かに、言葉としては、「子ども」という文言は入っているけれども、「保育者」や「大人」という言葉は入っておりません。その言葉の響きからは、そう受け止められても仕方がないかもしれません。

さらに、冒頭で述べたような「移行」のイメージが強調されるときには、一斉から自由へ、という『カリキュラムの解体』のイメージも付与します。

勝手に外にでてはいけないというルールを壊す、

制作帳をなくす、

子どもに指示をする風潮をなくす、


つまり、子ども主体の保育と言った時に、「あるもの」を「なすく」というイメージが喚起されやすい、という現象が起こってきます。

もちろん、クラッシュすることは大事なことです。

しかし、やはり実践していくと、或いは「なすく」ことを追求していくと、「ある」ことの重要性に気づいたり、「なすく」ことでの不便さがうまれたりします。

結果的に、「なすく」だけでは、不十分であるということに至っていくのです。

壊した先に、焼け野原になり、ぺんぺん草しか生えてこなかったというのは、笑い話にもなりません。

当たり前だろうとお叱りをうけそうですが、しかし、実践して『あること』と『なくしてから、生み出すこと』の大事さに気づくことと、頭の妄想だけで語ることとは、月とスッポンのように違いがあります。

フレーズの問題も、確かにあります。

しかしながら、今我々に求められていることは、「子ども主体の保育」というフレーズを軸に、『何を』『どのように』保育をしていくのかと、思考を巡らせていくことが最も大事なことのように感じます。


なくす、壊した先に広がるのが焼け野原ではなく、次の芽が生まれるような土壌であるべきです。

その土壌に、何をどのように植えるのかによって、ならしかたは異なるでしょう。


さて、少し話を戻すと、その『何を』『どのように』撒くのかの指針になるのが、冒頭に紹介した『子ども主体の保育』イメージです。もっと言えば、保育の方向性でしょう。

イメージは、多様であって当たり前です(しかし、ある程度の基本要素をおさえるのは必要でしょう。今なら要領指針ということになるかもしれません)。

あなたの園は焼け野原ですか、それともフワフワの土壌でしょうか。



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