森見登美彦

「そして、その味が無類なのですよ。」
「それは、結構なことですね。」
彼女は自分の爪を眺めながら、さも興味なさげに答えた。
大して手入れのされていない髪に比べ、彼女の爪はやけに綺麗だった。
健康的な桃色の爪は、雲型定規を用いて製図したのではないかと思わず疑ってしまうほど完全な弧を描き、敢えて例えるならばそれは激流に揉まれ完全な球体と化した小石のような、奇妙な神秘性があった。
「———ところで、あなた。今食物に対して『無類』という言葉を使いましたが、森見登美彦作品が好きだったりするのでしょうか?」
彼女は爪を見ながらそう言った。
私は何も言うことができなかった。
彼女が、『森見登美彦』という作家に対してどの程度のランク付けをしているのか、私には推し量ることができなかったのだ。
彼女はいわゆる文学少女というやつだった。
教室では誰とも会話せずに本を読みふけり、つんけんな態度は事務的な会話を除く一切を寄せ付けなかった。
彼女は文芸部に属していた。私もそうだった。

文芸部では、各々が持ち寄った作品を合評する文化がある。
彼女は毎度、自作の詩を皆に批評させた。
彼女の詩は、知的で涼やかで皮肉っぽくて、文芸部らの心をすんなりと魅了してしまった。
賞賛を嫌がる彼女は、文芸部の部員に痛烈な批判を求めた。
彼女の詩は素敵だった。批判などできない部員がほとんどだった。
しかし、ときに本質を抉るような批判が飛び出た時、彼女は笑うのである。
彼女の笑顔というのはそれはまあきらきらと輝きを放つので、一部男性部員は彼女に笑ってもらおうと頭をこねくり回し、詩について真摯に向き合ったうえで批評を為した。
そんな彼女である。
私なりのプロファイリングによれば、彼女も森見登美彦作品は一通り読んでいるはずである。しかし、しかしだ。彼女が好むのは純文学なのか、はたまた大衆文学なのか。
それは重大な議題である。純文学を好んで読む者は、森見登美彦を好まないだろう、なんて偏見を言いたい訳ではない。
私はただ、彼女にあっと言わせてやりたいのだ。
私は文芸部内であまり喋る方ではないが、注目されたい欲求は人一倍だ。
文芸部の全員から一目置かれている彼女から一目置かれることができれば、それは百目置かれているのと同じだ。
そうなったら、何と気持ち良いことだろう。
さて、本題に戻ろう。
仮に「はい。」と返答した場合、私には『森見登美彦がかなり好きな人間』というレッテルがはられることだろう。事実とは相違ないが。
彼女が森見登美彦好きだった場合、それが正解だ。
同じ作家を好む者たちの結束ほど硬いものはない。
しかしどうだろうか、彼女が純文学好きで、森見登美彦は有名だから一応読んだだけ、だった場合、私の印象値はプラスマイナスゼロ。
一切興味を抱かれることはないだろう。
さて、どうしたものか————。
「なにやら、返答に困っている御様子ですね。」
あれやこれや悩んでいるうちに、彼女が口を開いた。
流石に悩みすぎたか。考えすぎて空回りしてしまうのは私の悪い癖だ。
「私は構いませんよ。たとえあなたがどんな作家が好きだとしても。…………大して興味もありませんし。」
私にとって、その言葉は落雷に等しかった。
今まで必死に巡らせていた私の思索、全てが無駄だったのである。
 
 

私は脱力し、空を仰いだ。
雲一つなく広がる、澄みきった空だ。
濁った私の心に比べ、世界のなんと美しいことか。
「無類くらい、誰でも使う言葉でしょう。」
「それもそうですね。」
私は嘘をつき、彼女は興味なさげに同意した。
「————しかし、私は好きですよ。森見登美彦。彼の書く文章は、無類なのですよ。あなたは知らないでしょうけど、ちょうど、あなたのような物言いをする主人公が出てくるのです。今度、文芸部に持ってきますよ。」
そう言う彼女の顔は、ほんの少し微笑んで見えた。
何もかも見透かされているのではないか。
————そんな気がして、私は少し嬉しくなった。

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