見出し画像

母が子供4人を連れて身一つでカナダに移住しようとした話

こんにちは。今日は14年くらい前に経験した、とんでもない出来事の話を暴露してみたいと思います。

先に一言で言うと、僕たちはカナダへの入国を拒否され、地下室に3日ほど収容された後に強制送還されました!

これは僕が小学校6年生くらいの時の話です。この体験は僕の中で非常に悪い思い出として残っているんですが、同時に、客観的に見るとめっちゃアホで面白い話なんじゃないかと思ったりもするわけです。思い出すのも嫌な話ですが、そろそろネタとして昇華させた方がすっきりするのではと思い、文章として書いてみることにしました。

(以前は一部有料で公開していましたが、無料にしました。)

前置き: 家族の話など

まずは、僕の家族の紹介から。

僕の両親は僕がかなり小さい頃(たぶん3歳くらい)に離婚しました。僕を連れた母親はその後再婚し、3人子供が生まれました。なので、4人兄弟になります。2番目の父親は、僕が小学校3年生くらいの頃に亡くなり、母はシングルマザーになりました。

その頃は東京に住んでいたのですが、父親の仕事の都合もなくなり、特に東京じゃなくてもいいよねということで、鹿児島県の屋久島に引っ越すことになりました。4人の子供を連れて。(当時、一番下の弟は1歳くらいだった。)

なぜ屋久島?と思う方も多いと思いますが、いくつかの要因があります。まず、僕は屋久島で生まれています。ざっくり言うと、妊娠した母が「自然の中で子供産みたいわー」と言ったため、いろいろ検討した結果屋久島で僕を出産し、その後しばらく住んでいたと言う感じです。

次に、その頃の僕は、母に「自然のある田舎に住みたいよー」とかよく言っていたようです。それなら知り合いもいるし屋久島なんかいいかもね、となりました。

海や川で遊んだり、釣りをしたり、薪で風呂を沸かしたり、なかなか楽しかったです。(学校でいじめられたり、不登校になったりもしましたが。)

カナダに行こう!?

屋久島の暮らしは楽しくてなかなか良いものでしたが、ここまで読んでも分かる通り、母はかなり変な人です。なので、結果として地域の地元の人たちとはあまり良い関係とは言えない感じもありました。

--------

これに関しては1つ面白い話があります。あるとき、母が家に囲炉裏を作ろうとしました。友人に手伝ってもらったりして作ったのですが、それがなかなかすごいものでした。

というのも、家の床の一部をぶち抜いて、床下に石をぐるっと並べただけの物だったのです。囲炉裏というか、もはや自宅内ミニたき火ですね。

まあ多分大家さんとかには許可取らずに作ったと思うんですが、それは良いとしても、このことが地域で噂になりました。
僕の同級生に笑われたりもしましたし、消防団のおじさんまで来ました。

やりとりなどは忘れてしまったのですが、まあなんか危ないのでやめた方がいいですよー的なことを言われたんだと思います。母は「やれやれ、うるせーなー」みたいなことをこぼしていました。

--------

もちろん完全に孤立していた訳ではないですが、田舎の社会において息苦しさみたいなものを感じていたようです。

そこで、また別の場所に引っ越すことを検討し始め、最終的にカナダに行こうと思い立ったようです。

どういう経緯だったのか僕もよく覚えていないし知らない部分も多いのですが、都会には住みたくないが田舎の閉塞感も嫌だ!的な気持ちとか、屋久島には(元・も含めて)バックパッカーやヒッピーみたいな人がたくさんいるので、そういう人たちの話の影響とかがあったようです。(それにしても突飛すぎる)

それで、具体的にはウーフ(WWOOF)という農家に泊めてもらいながら農作業などのお手伝いをする仕組み(最後に補足あり)を使って現地に滞在し、そのまま住み着いちゃおうと思っていたみたいです。

それも誰かに話を聞いて知ったのみで、自分で調べたり現地の人に連絡を取ったりを一切していなかったというのが驚きです。当時の僕でさえそれはアカンでしょと思っていましたし、今でもなんてアホなんだと思います。あまりの無謀さに一周回って尊敬してしまいそうです。

そんな感じで本人は行く気満々になっていました。屋久島の家にあったものはほとんど処分してしまい、家のものは持っていく物と一部の友人に預けた物をのぞいてほとんど処分してしまいました。僕や兄弟の持ち物もほとんどが半ば強制的に捨てさせられ、大変悲しかった覚えがあります。

家や学校はどうしたのでしょうか?
家は引き払い、住所だけ知り合いの家に置かせてもらっていました。学校は、その新しい住所の近くにある学校に転校した形になりますが、もちろんその学校には一度も通っていません。学校の先生もさぞ困惑したことでしょう。

屋久島に住んだのは、およそ2年くらいでした。

出発

いよいよカナダに向けて出発です。飛行機は、チャイナエアラインズで福岡から台北経由でバンクーバー行きでした。

やれやれと思ってはいたものの、少し緊張やわくわく感みたいなものもありました。兄弟たちもそわそわしていて前日はみんなあまり眠れなかったと思います。

フライトは時間が長くてしんどかった記憶があります。その上、寝不足もあって僕も弟たちも酔ってしまい、吐いたこともありました。いろいろありましたが、中国人のCAさんたちが優しくしてくれました。

CAさんが、兄弟全員にチャイナエアラインズのトランプなどをくれました。僕は、トランプのうち1つをまだ大事に取ってあります。

よく覚えているのが、機内食です。酔っていたのもあって、すごくまずく感じました。本当に不味い機内食だったのかもしれないですが、それ以来、機内食は不味いものというイメージになってしまいました。

入国を試みる

はい、ここからが佳境です。

飛行機を降りると、当たり前ですが入国の手続きが必要です。とは言っても普通は、何しに来たか、どこに行くのかを聞かれる程度でしょう。母が拙い英語で質問にどう答えていたのかはよく覚えていません。ただ、確実なのはそこですぐには入国できなかったことです。

僕たちは、別室に連れて行かれました。そこで、母がいろいろ根掘り葉掘り聞かれていました。僕も英語なんてほとんど分からないので、内容はほとんど覚えていません。ただ、「数ヶ月いる予定だ」とかウーフのことを言っていたこと、またそれを聞いて「アカン...」と思ったことは記憶しています。

(この記事の最後にWWOOFについてとカナダへの滞在について軽く補足を書いています。)

母の英語があまりに下手すぎたのか、途中から電話による通訳が入りました。

入管で怪しまれるケースって、荷物がやたらと大きいみたいなものもあると思うんですが、僕たちはスーツケースとリュックサックくらいだったので、正直にいろいろと話しすぎたのが良くなかったんでしょうね。

そんな感じで、最終的には入国はできないことになりました。
僕たちはあちこち連れて行かれた挙げ句、最終的には窓のない部屋(たぶん地下室)に連れて行かれました。

確か部屋の色は一面白で、トイレとベッドがあった気がします。それだけです。まあ監獄のような部屋でしたね。おそらく帰りの飛行機までの間、そこで待っているという感じだったのでしょう。

その部屋で何をしていたのかはよく覚えていません。荷物は手元にあった、はずですが...。まあなんか兄弟で遊んだりしていたんでしょう。
食事は、サンドイッチみたいなのを職員の人が持ってきてくれました。量が少なかったのもあり、兄弟みんなでがっついていた気がします。

部屋は窓がなく、時差ボケもあって時間の感覚が全然わかりませんでしたが、食事のおかげでなんとか日が経っている感覚くらいは維持できていました。

帰国

正確には何日そこにいたのか覚えていないのですが、2・3日ほどだったと思います。その後僕たちは飛行機に乗って同じルートで帰ることになります。いつフライトが決まったのか謎ですが、母がどこかのタイミングでチケットを買っていたのでしょう。もちろん帰りも自腹です。(もしかしたら最初から帰りの分を捨てるつもりで往復チケットを買っていたのかも...?)

帰りの飛行機に乗る前には、ボディチェックがありました。たぶん普通の保安検査を通らずに別でチェックを受ける感じだったんでしょうか。そのとき、僕がかばんに入れていたカッターナイフを没収されました。出国するときにバレてなかったのが面白いですね。

帰りの飛行機のことはよく覚えていないです。相変わらず機内食が不味く感じたような...。

帰国後の話

日本に帰ってからは、しばらくは熊本や鹿児島の知り合いなどの家にお世話になっていました。少しの間、釣りの雑誌を作っている会社に泊まって、Macで魚のイラストを書いてみたり、一緒に釣りに行って記事を書いてみたりしたのも良い思い出です。

その後、母が今度は福岡に住むことを決めました。(これも突拍子もない感じに聞こえますが、一応それなりにまともな理由がありました。まあここでは割愛します。)
福岡で不動産屋に行って、いくつか家を見てサッと決めました。

住み始めてからは、いろいろと買い揃えたり、屋久島に残してきたものを送ってもらったりもしましたが、それでも圧倒的に物が少ない状態が続いていました。母はわざとあまり物を買わずに、それを楽しんでいた様子でした(単純にお金がなかったのかもしれないです)が、僕らは呆れるばかりでした。

その数ヶ月後、東京に住んでいた親戚の1人がなくなったため、母のいとこが残っていた不要物を送ってくれました。ちょっと物が増えてホッとしたことを覚えています。実はこのときまで洗濯機がなかったのです。

それからずっと福岡に住み続けて今に至ります。

最後に

いかがでしたか?

いやー、今でも嫌な思い出ですが、当時は本当に嫌でしたね。この出来事の前後でいろいろ面白いこともありましたが、落ち着ける家がなく学校にもいけない状態がしばらく続いていたので...。
これに関しては母に対して怒りのようなものも感じているので、その腹いせに文章を書いたようなところもあります。

小さい頃もいろいろありました(僕が病気になったが、母が西洋的な医療に反対して揉めた話とか)し、福岡に来てからもいろいろと大変なことがありました。その辺の話も、気が向けば書いてみるかもしれないです。お楽しみに。

読んでいただきありがとうございました!


補足: WWOOFについて

World Wide Opportunity on Organic Farmsの略です。有機農法を取り入れている農家とそこを訪れる人たちをつなぎ、金銭のやり取りなしで、農作業のお手伝いなどを通して交流を図りましょうという活動だそうです。

参加したい人は、サイトに登録して、行きたい農家を探して連絡を取っていく感じみたいです。どちらも利用したことはないですが、Couchsurfingなんかもコンセプトが近いかもしれないですね。

金銭のやり取りがないので、観光ビザで入国した場合でも農家を訪問することができそうです。

補足: カナダへの渡航に関して

カナダは、6ヶ月以内の滞在ならビザが不要ですが、現在は事前に渡航認証を受ける必要があるそうです。(僕たちが行った当時はなかった。)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?