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小児哲学についての報告4(2020725)

・小児哲学とは

 皆さん、こんにちは。取るに足らない人間代表です。
今回は、報告書3でも予告した通り、「人生を成功させたい」という欲望とは違った方向の話をしていきます。尚、全く人生にとって意味の無い話という訳ではなく、ここで述べる考え方さえ身に付ければ、結果はおまけとして付いてくるので安心してください。

 報告書3で私が述べた内容のおさらいをしましょう。

・哲学とはヒトが人間たるが為に会得された思考そのものである。

・勉強や努力をする理由を問うた場合、「人生の成功へ執着する人間」と「無意識と答える人間」に二分されるということ。

・どんな簡単な質問でも、哲学を用いることによって高尚な思考へと発展させることが可能となるということ。

、、、でしたね。特に二項目はこの理論において重要な役割を担っています。前回は、前者「人生の成功へ執着する人間」についてお話をしました。これは私としては不服でしたが、殆どの方はこれを求めてnoteを活用していると思いましたので一先ずニーズに合った内容を投稿しておこう、ということですね(笑)

 今回はついに小児哲学についての報告に入って行きます。
小児哲学を語る上で重要なものこそ、後者「無意識に努力する人間」です。彼らは私が思うに、自分の中の哲学を非常に高水準な状態で有しているのでしょう。それも、幼い頃からです。
 小児哲学とは、簡潔に言うと「子供特有の哲学的思考」です。そしてここでいう哲学的思考は「本能」と「理性」を繋ぐ架け橋です。
つまり、子供という「本能」が「理性」へと十分に変換しきれていない新鮮且つ貴重な状態での思想であり、そしてここに現代社会が痛感すべき「大人と子供との決定的な差」があるということです。

 突然ですが、noteを活用されている方の年齢層とは、一体どのくらいなのでしょうか。恐らく20~40代が最も多く、その後に50代~が続き、そして物好きの中高生が僅か、といったところでしょうかね。
 では肉体的にも精神的にも「大人」な皆さんに問います。
今まで棄ててきた「本能」はどれ程あるでしょうか?

 現代社会は非情な物ですよね。例えば駅で喧嘩が起こればすぐに携帯を向け、モザイクを掛けることなくTwitterにポコン。現代社会は人間の本能的な行動をいやに嫌う節があります。そして皆さん、そして私もですが、まずは社会に馴染むために「怒り」を棄てます。しかし、こればっかりは仕方のないことです。私がどれ程アンチテーゼを述べたところで、生きていく為には社会に馴染まなければならないのですよ。
 後は何でしょうか、例えば「欲望」とかも棄てられがちですよね。本来、人間は自分がしたいと思ったことをすれば良いのですが(勿論、犯罪的な行動は言語道断)、昨今の「偉い人」は妙に社会貢献などを勧めて来ますよね。
 このように「本能的な行動」を制限せざるを得ない社会を創った人間は業が深いです。そして報告書1で述べたように、現代の哲学では「理性」から「本能」へ立ち返ることは出来なくなってしまいました。

 何故、私がここまで本能を重視するのか。それは、「理性」に重きを置きすぎた現代社会において突出した人間になる最たる近道だからです。どうでしょうか、世の成功者の殆どが「本能的に」努力をしています。そして自分の内に哲学を持っています。そして哲学を持っているからこそ、「自分の思想を大衆の前で流暢に語ることが出来る。」
 さて、「大人と子供の決定的な差」の正体が見えて来ましたね。虚構の哲学を崇拝するが故に、「理性」こそがヒトを人間たらしめると信じて止まない大人と、柔軟な思考と人間皆が享受する新鮮な哲学を有し、「本能」と「理性」双方を内に同居させている子供。この差こそが「小児哲学を有しているか否か」なのです。

 先程、noteを活用している方の年齢層について書きましたが、50代から上の方は、残念ながら小児哲学の話はオススメできません。無論、私の思想が確実に正しく、現代哲学が間違っているなんて事実は無いですから気に病むことはありません。ですから、恐らくここから話す内容を見ても、「ガキ臭い」という感想になるだけだと思いますので、ブラウザバックを推奨します。
 20~40代の方はまだまだ小児哲学を身に付けることが可能です。そして中高生の方は更にその効果が期待できるでしょう。
 さて、ここからの内容は「冷静」に見れば大変痛々しいものになるかもしれないです。従って、「社会に出たこともないようなガキが知った風な口をきいているな、いつか痛い目を見るぞ」と捉えるのか、「成程そういう考えもアリだな」と捉えるのかは自由です。しかし、私としては哲学に「冷静さ」は必要ないと考えますがね(笑)

 皆さんも一度は経験したことがあると思います。
それは、「死」について思いを馳せることです。皆さんは多大なる「本能」を棄て、「理性」へと変換してきたかと思います。しかしこの「死」について思いを馳せるということは、何処まで行っても「本能的な行動」に他なりません。「死」は絶対的な本能であり哲学を以てして「理性」に変換するのは今のところは不可能です。つまり、皆さんが小児哲学を身に付ける手っ取り早い方法が、これになります。
 「死」とはどういったものなのでしょうか。テレビで霊体験の話を聞いた、youtubeで宇宙の不思議を語る動画に感化された、などきっかけは様々ですが、誰にでも一回は「死」について考え、脳が気持ちよくなったという経験があると思います。この、「脳が気持ちよくなる」というのは、未だに未知である「死」について考える、つまり未知と触れあうことで自分の「哲学」を発展させることへの喜びを感じているということです。
 「自分が死んだら、精神も感情も何もない、何もないということさえ感じることが出来ないような場所で悠久の時を過ごすのだろうなぁ」なんて所まで皆さんは辿り着いたのではないかと思います。そもそも、「死」など予想することも到底不可能なものですし、今の人間ではそれくらいの思索が限界でしょう。しかし報告書3に記した通り、いつかはここを解き明かさねばならない。それは一体何世代後のことなんだと不安になりますがね(笑)。さて、ここで私達の代に何が出来るかと言うと、思索の限界である「死は無の世界だ」という予想から「哲学」によって新しい概念を生み出すことです。皆さんも、報告書2で空白から思想を展開させたように、「無の世界」から思想を展開させてみましょう。


・報告書4のまとめ

 さあ、ここで上記のややこしい話は中断しましょう。いかがでしたでしょうか。今回の報告書の最後まで理解しながら読んだ貴方の脳は今、ありし日の小児哲学を「思い出そう」としている筈です。

 哲学の本質(So sein)はクリティカルシンキングです。そして「実力派の人間」「個性派の人間」そのどちらにも役に立つ「学び」です。皆さんも、子供の柔軟な思考に習って、小児哲学を再習得してみてはいかがでしょうか。この思考法を身に付ければ、図らずも結果は自ずと付いて来るでしょう。

ご清聴有難う御座いました。