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小児哲学についての報告1(2020723)

・自己紹介

 どうも取るに足らない人間代表、エンクロで御座います。   今回は皆さん大好き、哲学についての考察を坦々と述べて行こうかと思います。

 今日、何かと耳にする哲学という言葉。この言葉だけは知っているものの、その本質は漠然としていてハッキリしていないという方も多いのでは。そんな人類を、運命共同体として手助けするのが私の役目かなと感じております。



・哲学とは


 哲学を一言で簡潔に表すとするならば、「暇を持て余した知識人の娯楽」でしょう。
 最近、よく言われるのが「世の中には二種類の人間がいる」という概念。それによると、
「勉学に励み申し分無い学歴を得、無難に金を稼いでいく人間」「自分の特化したスキルを理解し、それを利用して金を稼いでいく人間」
の二通りに大分されるということです。
そして哲学の本質はこの理論に密接に付随しているのです。
それでは、皆さんに哲学の解剖をお見せいたしましょう。


①実力派の人間

 恐らく殆どの人間がこれに該当するのではないかと考えます。大学を出て会社に就職をし、何不自由なく生活をしていく。非常にオーソドックスな素晴らしい人生のデコレーションです。「私はこれを実力派の人間」と呼んでいます。
 メリットとしては、学生時代に雑念を捨てただひたすらに勉強をすれば必ず結果が約束される点が挙げられます。
 対してデメリットは、爆発的に成功するという事例が少ないということでしょう。社会で羽振りを効かせる為には、やはり知識以外の何かが確かに必要らしいのです。

②個性派の人間

 こちらは、自分の事を良く知っている人間が多く該当するのではないかと考えます。学歴の有無に関わらず、自分の一頭地を出たスキルを専一に磨き、それをうまくビジネスに変換して生きる。例としてスポーツ選手や、youtuber、芸能人が挙げられます。私はこれを個性派の人間と呼んでいます。
 メリットは、何といっても夢があるということですよね。
実を言うと私も一攫千金を夢見てブログを書いている、、、という訳ではありませんが(笑)
先述した実力派の道からこの個性派の道へ志向を変える人もどうやら多いようです。確かに、芸能人やスポーツ選手に限っては天文学的な数字を稼いでいらっしゃる...しかしその内には並々ならぬ努力があることを忘れてはいけません。
 デメリットとしては、やはり門が狭いということですね。スポーツ選手、或いはアイドル一人につき、一体何人の屍の山が築かれているか。その屍一人一人が嘗て個性派の道を志した夢多き人間だったという現実は険しいものです。

③二者の相互関係

 さて、ここで実力派の人間の皆さんに質問です。
ある日、駅を歩いていたら目の前には路傍で必死にギターを演奏している男が一人。気になって話を聞いてみると、中卒でストリートミュージシャンとして活動しているとのこと。さあ、皆さんは彼についてどう思うでしょうか。
「無意識に見下す」と脳裏に浮かんだ人がいるのではないでしょうか。もしくは、ネットやテレビのクイズ番組で、全然何も答えられないアイドルや芸能人を見て、快感に感じてはいないでしょうか?
 そうです。人間の抗えぬ本能として、能力の比較をしたがるというものがあります。特にアイデンティティ形成時期の青年に多く見られます。従って、自分より知識の少ない人間を見ると、満たされた気持ちになってしまうのです。しかし、それは皆本能としてシステマイズされていることなので仕方のない面もあります。
 では、それでいいのかというと、それも違います。上に挙げたストリートミュージシャンやアイドルは紛れもない個性派の人間です。そもそも、実力派の人間と個性派の人間では生きる土俵、才能のベクトルが違うのです。よって、双方どちらからも悪戯な干渉が出来ない、実力派の人間と個性派の人間の相互関係は双方不可侵であると言えます。

・哲学の意義

 ここまでの文章を見て、「おい!哲学と何も関係ないじゃないか!」と思ったアナタ、安心して下さい、ここからは哲学の領域です。
 先程、他人と自分の能力を比較したがるのは人間の本能だと述べました。人間は太古より闘争を求める生物、他人より自分が優れていると心地よいのはある種、当たり前のことなんですよね。しかし皆さんもお察しの通り、これでは社会に出てから通用しません。そこで本能に抗う為に創造されたのが哲学という概念です。言い換えれば、哲学を手にしたことにより人間は理性的な生物として自然界における唯一無二の存在になったということです。つまり、本質的な哲学は物心ついた時から皆さんの心の中に常駐しているのです。
 

 「哲学とは暇を持て余した知識人の娯楽」この言葉の意味がそろそろ確信に変わってきた頃なのではないでしょうか。そうなんです。今日、よく目にする小難しい言葉で思想などを語らうあの「哲学」は実は「哲学であって哲学でない何か」なのです。

ここから、少し話がややこしくなってきますが、ご了承下さい。

 人間の持つ哲学というものは子供心そのものです。巷で言われるところの「インナーチャイルド」。これが哲学なのです。更に言うと、哲学は人間の本能的な思考でもなく、理性的な思考でもない、理性と本能を繋ぐ架け橋だということです。「哲学(philosophy)」という言葉がその概念に名付けられる以前の先人は、その理念をよく理解していたことでしょう。
 しかし、人間はなまじ頭が良すぎた面があります。数千年の間、人間は哲学を非常に高尚な物へと仕立てあげてしまいました。更に業が深いのは、本能と理性そのどちらにも属さない筈の「哲学」を理性によって発展させたことです。それも、「哲学的思考が自分の特化した能力だ」と勘違いした個性派の人間が、です。
 私が考える哲学の存在意義(raison d'être)は実力派の人間と個性派の人間、この両方に享受され、その精神活動を底上げするもの、つまり知識でもなく頭に浮かぶ思想でもない、本来認識してはならない物なのです。
 私が始めに挙げた「哲学とは暇を持て余した知識人の娯楽」という言葉の中の「哲学」は本質的な「哲学」ではなく「偽の哲学により偽の哲学を思考し産み出された虚構」のことです。

・報告書1のまとめ

 自己紹介で私は「哲学は漠然としてハッキリしていないのではないでしょうか」と皆さんに言いましたが、哲学は漠然としていて当然であり且つ、それが哲学の本来あるべき姿なのです。最早、私達は知識人の産み出した虚構の哲学に触れてしまい、本能と理性の架け橋である「哲学」を用いて本能から理性へと移動することは出来ても、「理性から本能へ立ち返ることは出来なくなった。」
 私はこの文章の中で、人間の本能的な部分をあまりいいイメージで記してはいなかったですが、これはミスリードです。如何なる論文でも、一枚目は何気ない冗談話から入るでしょう(笑)
 今迄が冗談だという冗談はさておき、私がこの先述べていくのは、理性というよりは寧ろ人間の本能的な力に重点を置いたお話です。
 一度理性に変換してしまうと、もう立ち返ることができない本能。私は辛うじてまだ理性に変換していない本能があります。それは哲学への野心です。しかしもう私でも本質的な哲学を理解することは不可能でしょう。本当の「哲学」を理解できるのは現在母親の中にいる胎児、物心がついていない赤ん坊だけなのでしょう。
 だから私は、いつか哲学が万人の役に立つ時が来ることを信じ、ここに報告書を遺します。

ご清聴有難う御座いました。