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『冬の旅』感想:この肉を引き摺って

1985,フランス
冬の旅(Sans Toit Ni Loi(屋根も法もない))
監督・脚本:アニエス・ヴァルダ





※ネタバレを含みます※






アブラハムの宗教と大乗仏教には似通った小噺(説話)がいくつかある。

説話には大衆向けのプロパガンダの側面があるので、おおよそ善行には報いがセットで付いてくる。

プロパガンダは悪ではない。
共同体の秩序を維持するための作り話は苦しみの総量を減らすだろう。
俺は作り話を憎んでいるけど、実話と同程度にしか憎んでいないし、大好きだ。

なかでも頻出する説話のひとつに、見知らぬ乞食に施しをしたところ、乞食は仏やキリストの化生であり、施しが報われる、という話がある。

モナは乞食ではない。
助けてくれと頼んでいるわけでもない。
けれど、モナの破滅を眺めるとき、モナとすれ違った人々のいずれに自分は近いのだろうと思わずにいられない。

説話のように「手を差し伸べるべき」という単純な話ではない。
「なにかをすれば誰かがそのツケを払わされる」という事実があるにせよ、それはこの映画の主題ではない。
ただ、映画館で「冬の旅」を観る私たちは、すくなくともモナ以外の誰かだろう。
だってモナはもう死んでいるから。
仮にこれからモナのように死んだとしても、この映画を観てからはモナにはなれない。
でももし、モナに会ったとして、自分はどうするのだろう?
そんな自問が湧き上がる。

スクリーンをよぎるさまざまな人々は、各人なりにモナについて語る。それらはすべて事後の語りでしかない。モナの死はすべてを過ぎたこととして押し流す。

そのうちのひとり、家政婦のヨランダは特に感情的だ。モナを思い出して涙を流す。

ヨランダは嘘つきに見えるだろう。自己正当化に手一杯の、ヘタに演技派の年増女に見えるだろう。
けれど、ヨランダは嘘をついているわけではない。彼女のなかではなにも間違っていない。
車を急停止させてバックまでして拾ったことも、愛人が色目を向けたと分かるや追い出したことも、彼女のなかではなにも矛盾はない。
ヨランダの涙は嘘ではない。ヨランダ自身のくるしみが、モナを介して涙を流させているだけ。モナのように生きられない自身と、勝手に想像したモナのくるしみ、どちらもヨランダのものでしかない。
だけど、それは自然なことだ。ぼくらはたいしてかしこくないから、きたないものを嫌がるし、自分の縄張りを冒されたくない。施しなんて、安全地帯からパンを投げるのがちょうどいい。でも、タイミング次第で、異臭も気にせず同席だってできるはずだ。同じ皿から食うメシの味も変わらないはずだ。
私たちも、その場にならなければ自分がどうするかなんてわかりゃしない。

だから、「モナに会ったとして、自分はどうするのだろう」なんて問いに答えはない。
おれたちはこれまでもモナを見捨ててきたし、これからも見捨てる。

ただ、すれちがう人々それぞれの、引き摺ってきて引き摺っていく肉の重みがあるのだと、それくらいのことには思いを馳せたい。



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